オルトロス〜双頭の番犬〜
猪狩真は犯罪者の父親をコンプレックスに思っている。
その克服のために猪狩は警察官を目指し、その傍らで犯罪組織とも関わりを持っていた。
優秀さを認められ捜査四課へ配属された猪狩は、抑えきれなかった黒い噂によって同僚である善田義人と組むことになった。
寡黙であり懐柔出来そうにない善田の存在を疎ましく思った猪狩は彼の弱みをつかもうと動く。
しかし善田の正体は猪狩の父親と組んでいた犯罪者の息子だった。
大きな1つの事件を経て猪狩を信頼した善田はそのことを告げ、猪狩の父親が消えた原因の男を捕まえることに協力してほしいと願う。
見て見ぬ振りをしていた感情に気付いた猪狩は、善田と協力してその男を追い詰める。
猪狩は男の額に拳銃を突きつけるが、殺す事ではなく警察として逮捕する事を選んだ。
大きな成果に喜ぶ四課の仲間達に囲われ、猪狩は苦々しく笑った。
不潔感のない程度に伸ばした髪と、奥にある鋭い瞳。若く精悍な顔つき。少し高い背丈。
スーツの似合う男だった。
「君の活躍は聞いているよ、猪狩 真君。すごい働きぶりらしいじゃないか」
「いえ、自分はまだまだです」
「謙虚は美徳かな? 私はそう思わないぞ。検挙の方は別だがね」
猪狩の目の前の男は、その飛び出た腹をポンと叩いてわざとらしく笑った。
合わせて猪狩も笑う。
「いかん、悪い癖が出たな。座りたまえ」
一礼を入れて、猪狩は男の対面に座った。
「歳はどれぐらいだったかな」
「今年で27になります」
「そうか、いいね。まだ若い」
手元にある紙を見ればわかる情報を、小太りの男はあえて問いかける。
露骨な探りを猪狩は感じ取っていた。
「希望は、捜査四課か。珍しいね」
男は紙に目を落とした後、そのまま猪狩の顔を覗き込んだ。
捜査四課。刑事部の中でも特に暴力団など組織的犯罪を取り締まる。あまり良いイメージを持たれることがない課だ。
「捜査三課の方に身を置いている間、暴力団のような犯罪組織が絡んでいる事件にいくつか関わりました」
「ふむ。それで」
期待通りに答えてくれよ、と言わんばかりに相槌を返し、男は椅子に座り直す。重みで椅子が軋む音が響いた。
「奴らが関わった事件は誰も幸せにならない。自分は、犯罪者は全て自分のことしか考えないような人間だと思っていましたが、そうではありませんでした。こういう言葉を言って良いかはわかりませんが、捕まった加害者の中にも被害者であるとも言えるような人が何人か居ました」
「なるほど。それで犯罪の大元が許せなくなったと」
「はい」
頷く猪狩に、数秒の間を持たせて男は口を開いた。
「君の情熱はよくわかった。四課に異動できるように手配しておこう」
「ありがとうございます」
下らない問答だったな。
深々と頭を下げながら、猪狩は思っていることと正反対の言葉を吐き出した。
それっぽい感情を声に乗せることも、さり気なく表情を変化させることも手慣れている。そういった技術は幼い頃既に学んでいた。
立ち上がろうと足に力を込める。
「少し待ってくれ」
動き出す出鼻を挫くように、男が制止の声を出す。行き場を無くしてわだかまった力を鼻から抜いて、猪狩は軽く椅子に座り直した。
「君が四課を希望してくれるなら、丁度良い話がある。あまり大きな声でできない話だからね、こういった場じゃないと」
負の感情が滲まないように、素直な疑問の表情を作る。男は独り言をいいながらパラパラと紙を捲り、やがて何かを見つけたらしく動きを止めた。
「善田 義人君を知っているかい? 君の同期だが」
「善田ですか? ええ、名前なら。自分達の中では有名だと思いますよ」
仏頂面の大男。猪狩の記憶の中にある善田義人はそういった姿だった。
周りとはあまりコミュニケーションを取らず、ただ黙々と仕事をこなし、多くの犯罪者の検挙に貢献している。同期の間では、猪狩と善田はライバルだという噂話も流れたほどだ。
どうにも鬱陶しい存在だったと、猪狩は覚えている。
「そうだろうね、彼も君に負けず劣らず頑張っている。さて、ここから先は少し秘密の話になるのだがね」
小太りの男はおおげさに身を乗り出し、人差し指を口に当てた。
「彼や君の頑張りに対して、嫉妬している人間が居る」
「嫉妬、ですか」
「うん。そしてそういった人達がどうにも、君達の活躍には裏があるんじゃないかと疑っているんだ」
そこまでは想定していた通りだ。
さも驚いたフリをしながら、猪狩は頭の中で考える。次に男の口から出てくる言葉はなんだろうと。
「そこで、だ。善田君も四課を希望している。今後は君達二人で動いて欲しい」
「二人で?」
「そうだ。これは君を疑っての事じゃない。寧ろ逆だ、君に善田君を監視して欲しいんだ」
あの辛気臭い鉄仮面と俺が組めと? また下手くそな冗談だろ?
そこで猪狩は初めて、演技ではない動揺を表に出した。
善田を監視しろという男の言葉も半分は嘘だろう。本当に監視したいのは俺の筈だ。心当たりは幾つもある。仕事はできるが扱いづらい善田を俺に押し付けて、あわよくば俺からボロを出そうって算段か。
少しずつ、猪狩は表情の曇りを濃くしていく。
「先程のような強い正義感を持つ君なら不正は見逃さないだろう。逆に、そういった事が一切なければ、優秀な若者である君達二人が手を組む以上に良い事はない筈だ。どうだ?」
「……正直、不安です。彼とはあまり話した事がないので」
勘繰られない程度に言葉を返すと、男は立ち上がって猪狩の傍に歩み寄った。そして芋虫のように肉のついた手を肩に乗せてくる。
「君なら大丈夫だ。期待しているぞ」
「わかりました」
これ以上否定を繰り返せば、余計な疑念を抱かせるだろう。それはやめた方がいい
タヌキめ。
心の中で悪態をつきながら、猪狩はやる気に満ちた笑顔、に見える表情を作った。
◇◆◇
生気の薄い白い肌。綺麗な顔立ちは憂いを帯び、深くもないほうれい線がやたらと目立つ。儚げな雰囲気が、多くの事を経験してきたであろう表情と相まって不思議な色香を醸している。
魅力的な女だった。外から見れば。
『いつか絶対帰ってきて、私達を幸せにしてくれるって、お父さんは約束してくれたのよ』
そのうわ言は今でも脳裏にこべりついている。
父も母も平気な顔をして嘘を吐く。ましてや赤の他人など、誰を信じて生きていけばいいんだ。
馬鹿らしい。
机の上を整理しながら、猪狩はフンと鼻を鳴らした。
早く来すぎたか。クソみたいな事を思い出すぐらいには暇になっちまった。
捜査四課の立て札が下げられた部屋に他の人影はない。新人として信頼を得るために早起きをしたが、どうやら裏目を引いたらしい。
人前では決して漏らさない欠伸が込み上がってきて、猪狩は顔をしかめた。気が緩みすぎている。
コンコンコン。
飲み物でも買いに行くかと立ち上がった所で、ドアが三回ノックされる。顔に力を入れて、猪狩は居住まいを正す。
「失礼します」
低い声と共に入ってきた人物と目が合い、猪狩の眉がピクリと反応した。
スーツの上からでもわかる体格の良さ。仏頂面と相まって、真っ直ぐ見られると相応の圧がある。手には多くの荷物を抱えていた。
「善田君じゃないか。おはよう。君も早いね」
猪狩は不自然じゃないように笑いかけ、軽く手をあげる。善田はジッとその顔を見つめていた。
嫌な沈黙が流れる。
「ああ、いきなりごめん。自己紹介が必要だったね」
「猪狩だろう。よく知っている」
興味を失くしたかのように善田はズンズンと歩き始め、猪狩の隣の机に荷物を置いた。そのまま椅子に座り、整理を始める。
「よく知ってるって、なんか恥ずかしいな」
「そうか。お前の話は有名だったぞ」
「それを言うなら善田君もね」
「俺は仕事をしていただけだ」
「いやいや、そうやって徹し切れるのは凄いことだと思うよ」
にこやかに話しかけ続けるが、色気のある返事はこない。
こういう奴だとは知ってたけどよ、本当にやりづらいな。
善田と組む事を伝えられてから今日まで、猪狩は善田の情報を探っていた。同僚との会話に混ぜてさりげなく。しかし期待していた情報は全く手に入れられなかった。
ここまで読み取れない相手は初めてだ。
付き合いを避けてきた人間は何人も見た事がある。迂闊な表情を見せない為にポーカーフェイスを装う人間や、猪狩のように顔を作ろうとする人間も。
その誰もが、探りを入れていくうちに変化の予兆を見せ、最後は猪狩に心を開いた。幾つかの言葉のやり取りからきっかけを掴み、後は糸を引くようにするすると。
だがきっかけの予兆すら善田からは感じ取れない。
どうにか奴の弱みを握る事ができれば、後は脅すなりあのタヌキに言うなりして処理できるんだけどな。
「善田君も聞いてるかな。僕達が組むことになったって話」
「ああ」
「君みたいな優秀な人と組めるなんて嬉しいよ。これからよろしく」
猪狩がスッと右手を差し出す。それをジッと見つめてから、善田は右手で握り返した。
ゴツゴツとした皮膚の厚さが、握手を通して猪狩に伝わる。この感覚には覚えがあった。素手での戦闘、喧嘩を何度も経験した人間の手。
その手がギュッと猪狩を掴み、離さない。不自然に長い時間の握手に、猪狩は善田に微笑みかけた。
「さっき、お前のことはよく知ってると言ったな」
「え? うん。そうだね。僕も噂話では有名人だったのかな?」
善田が見せた変化の予兆。猪狩は次の言葉を引き出そうとする。
「俺のことを探っていたな」
「探っていたって、人聞きが悪いな。これから組む人のことは誰だって気になるだろう?」
何が言いたいんだ?
猪狩は全力で頭を回す。ただ警告がしたいだけならバカで助かる。こうして圧をかけるということは、その裏に何かがあるという事だ。わざわざ確信をくれる愚か者が相手ならボロが出るのもすぐだろう。
「そうかもな。俺もお前のことは気になる」
なんだよ、愛の告白でもする気か?
力強く手を握り、真っ直ぐ目を見つめるその構図は告白のそれに見えなくもない。
ふざけおどけるその一方で、猪狩の心臓は僅かにその鼓動を早めていた。
嫌な予感がする。
「俺はお前の秘密を知っているぞ」
「は」
聞き返したのでも、笑ったのでもない。猪狩は咄嗟に戸惑いの表情を作り上げた。
鎌かけか?





