酒と肴とあれやこれ。
琴棋詩酒という言葉がある。酒を飲みながら話し、ある時は興じ、奏で、またある時は諳んじ、呑まれる――――。それは贅沢であり、嗜みであり、当たり前のようで得がたいもの。
「さあ、飲もう。」
「飲もう。」
これは二人の男による、酒と肴と、あれやこれやの話である。
雨が降っていた。
それは生暖かい空気がじっとりと身体に纏わり付くこの季節には似つかわしくない、細く柔い雨だった。
そんな、ともすると靄のような空気の中を、道行く男がいる。二藍の、妙に小奇麗な格好をした男は、傘も差さずにゆるゆると歩いていた。時折立ち止まっては、深く深く息を吸い込む。青い草の匂いと、かすかに甘い土の匂いがした。
土の道を歩き、小さな藪の中をつっきり、しばらくすると木の柵で囲まれた漆喰の一軒家が現れた。家と柵の間の土地には、ぽつぽつと梅や金木犀、椿などの木が植えられ、その足下は草が手入れされることもなく、青く茫々と生い茂っている。ただ、木々の枝がそれぞれぶつかることなく植わっているということは、まあここの家主にも一片の手入れとかそういった心持ちはあると言うことだろう。そう思いたい。
男はひとつため息をつくと、家の軒先から声をかけた。
「おおい、いるか。」
しばらくして縁側に現れたのは、白いシャツに萌葱の上っ張りを無造作にひっかけた男だった。何かを乗せた三方を抱えているところをみると、ものを運んでいたらしい。彼は来客に気がつくと、雨の向こう側で、幻のように微笑んだ。
「やあ、良いときに来たなあ。」
「おまえが呼んだんだろうが。」
「それもそうだったか。しかし、おまえは運が良い。今準備をしていたところだ。」
「酒か?」
「もちろん酒もあるが、もう少し珍しいものさ。」
そういって彼が男に見せたのは、まるで真冬にできる氷を削って作ったかのような、ひどく透明な薬瓶だった。縁が薄い緑青色のようにも見えるその中に入っているのは、白、若草、桃、黄金、天色……色とりどりの、丸いとげがいくつもあるころんとした粒。
「……砂糖菓子か。」
二藍の男のわずかに驚いたような声に対して、萌葱の男は少々得意げに答えた。
「金平糖さ。」
それは、芥子の実を熱した丸い鉄板の上で転がしながら何回も何回も砂糖衣を絡め、星のように固めて作った珍しい菓子である。二藍の男は驚きながらも、少々難しい顔を作り萌葱の男に苦言を呈した。
「おまえというやつは……なぜ貴重な砂糖菓子を、薬瓶の中に入れるんだ。」
「これなら湿気らないからな。良いじゃないか。色とりどりの星を閉じ込めたようで、風情がある。」
萌葱の男はそんなことを意に介さず、薬瓶の中の星をうっとりと眺める。ただ砂糖菓子を入れた薬瓶を見ているだけなのに、その目が、視線がなんとも艶っぽい。しかし二藍の男はその色気をものともせず、深い、深いため息をついて持論を説く。慣れているらしい。
「いやいや。全くおまえは風情を分かっていない。こういう菓子は透かしの小さな紙箱に入れるのが良いってものだろう。そして月の光にかざして透けた色を見る。それが風情ってものだ。」
「なんてことを言うんだ。そんなものに入れたら湿気てしまうじゃないか。更に今は雨が降っている。湿気た砂糖菓子なんぞうまくないし、美しくもない。もっと言うならこれは水晶でできた薬瓶だぞ。この蓋と瓶のつなぎ目にある磨り硝子の霧のような美しさを見ろ。」
「阿呆がそんなもんに金平糖を入れるんじゃない! 砂糖が溶けて蓋が開かなくなるだろうが!」
「溶けないさ。まあ、いざとなったら割れば良いじゃないか。それに、これに入れておけば劣化しない。良いこと尽くめだぞ。」
「その薬瓶が一本いくらすると思っているんだ……。割るのにも一苦労だろう……。」
水晶の薬瓶の美しさを説きながらも、開かないなら壊せば良いと軽く言ってしまう友人の心持ちに、軽い頭痛を覚えながら、男はずっと思っていたことを口にする。
「あと、ここの家主はその雨が降っている中、客人を中には入れないと。全く大層なことだ。」
ここで薬瓶の美しさを語っていた男は、相手がまだ家の縁先で雨に打たれているという事実に、気がついたらしい。
「ああ、すまん、悪いことをした。そら、ここから早よ上がれ。身体を拭くための布巾を持ってきてやろう。あとは、着替えだな。」
「布巾は借りるが、着替えは遠慮する。おまえのは丈が合わん。」
「そもそもこの季節に、よくこんな砂糖菓子が手に入ったものだな。」
「言っただろう、珍しいものがあると。」
家に上げられてから暫く。二藍の男は貰った布巾で身体を拭き、萌葱の男と縁側に座って砂糖菓子の入った薬瓶を手に取り眺めていた。
「美しいな。」
「ああ、美しい。」
「酒があると言ったが、これなら茶か?」
「いいや。茶も良いが、これは案外どうして酒に合う。今、持ってくる。酒にしよう。」
「悪いな。」
「なんの。」
萌葱の男は、すうっと立ち上がり奥に消える。暫くすると、瓶子と杯を二つ手に持って戻ってきた。杯を見た瞬間、二藍の男は更に頭痛が重くなった。なんてものを持ってきたのか。
「おい。おい、大馬鹿者。」
「なんだ? 我が友よ。」
突然の馬鹿者呼ばわりに対し、我が友と返す友人に怒鳴る気力も失せ、男は今にも酒を注がれそうな杯を指さし問うた。
「これはなんだ。」
これに対し萌葱の男は、さらりと答える。
「杯だが?」
「戯け、見れば分かるわ。俺が言いたいのは、この杯は使ったらヤバい品じゃないのか、ということだ。」
「何が問題なんだ、漆に螺鈿の細工。悪くは無い品だぞ。」
「悪くは無いどころか超のつく一級品だろう、この杯は。」
彼が持ってきた杯は、ほのかに赤みを帯びた、それは美しい茶色をしていた。どう頑張っても、これはいけない。
「この色……黄櫨染だろう。」
それは、この国でただ一人だけが使うことを許される、特別な色。しかしその問いに対する答えは、風よりも軽い。
「さてな。」
「誤魔化すな。」
二藍の男は何でもないことだというような友人に対して、また深く息をつく。全くもって、仕方がない。この男にはこういうところがある。
「……この色を誰がどうやって作ったのかは知らんし、何でお前のところにこんなもんがあるのか、聞きはせん。だがな、この色は禁色だぞ。俺らは使ったらいけない。」
「着るものじゃない。それに、バレなきゃ良いのだよ。」
「人の口に戸は立てられん。俺がどこかで話してしまうかもしれない。」
「そんなことしないだろうに。」
「万が一ということもある。……頼む、俺の心の臓に悪いからもう少し、もう少しマシな杯にしてくれ。」
「注文が多いことだなあ……。しばし待て。」
萌葱の男は一つ息をつくと、塗りの杯を返しに奥へ向かう。次に戻ったときに手にしていたのは、深く美しい、透き通った紺碧の杯。薬瓶を置いていた三方にカチャリと置かれたその杯を、二藍の男は一つ手に取り、ほう、と息を吐きそれを眺めた。
「瑠璃の杯か。」
「これなら良いか。」
「さっきよりずっと良い。ずっとだ。」
「夜光杯の方が、風情があったかもしれん。」
「これで十分だ。……それに、夜光の杯なら葡萄酒を入れたくなる。この時期なら瑠璃の杯の方がいい。夏の夜の色だ。」
その言葉に、萌葱の男はどこか面白そうに問う。
「ほう、ならば春や秋は如何する。」
対して二藍の男は、瑠璃の杯から雨を透かし見ながら、問いに答える。
「春なら玻璃がよかろうか。春の夜に散った花を浮かべ、咲いた花を透かしながら飲む酒は良いものだ。秋ならやはり夜光杯だ。外つ国で葡萄は秋に生るものだと聞いている。満月の夜に夜光杯で紅い葡萄酒を仰ぎ、戦う兵士たちに思い馳せようか。」
「では、冬は。」
「冬なら黒の漆だろうさ。雪の白に映える。それに、一年の終わりだからな。」
「なるほどなあ。……お前なら春には玉、夏には朱塗り、秋は白磁と言うかと思ったが、予想が外れた。」
穏やかながらも、どこかふてくされたような響きの言葉に、二藍の男は呆れたように目を細め、杯を戻しながら小さくため息をついた。
「悪趣味な奴め、また人の答えの予測を立てる遊びをしていたのか。……その時々の心持ちで持ちたい杯は違う。お前の答えが間違ってるわけじゃない。」
「正しくも無いというのが悔しいんだ。」
お前は分かっていないと言わんばかりの言葉に、男は苦笑する。その心持ちばかりは理解できないのだから仕方ない。
「難しいやつだなあ。」
「そういうもんさ。……さて、そろそろやろうか。なかなか良い酒だぞ。」
萌葱の男はひとつ息をつくと、真空のような酒を二つの杯へ、静かに注ぐ。二人は杯を雨の光に透かしながら、紺碧の杯を上げた。
「さあ、飲もう。」
「飲もう。」





