No,I Don't
お久しぶりです。久しぶりに書くため、文章が下手になっていますがご容赦ください。
ネタバレを避けるため、キーワードには書いていませんが注意する内容です。
性行為を想起させる描写がありますので苦手な方、15歳未満の方は閲覧はご遠慮ください。
目が覚めると、コーヒーの香りがした。そして、パタパタと軽く響くスリッパの音も。
「あ、おはよう。もうすぐだから、待ってて」
葵が穏やかな声で俺に言った。こっちの気も知らないで、お気に入りの歌を口ずさんでいる。
「ごめんね。どうしても行きたかったベーカリーがあって、今日はパンなんだ」
テーブルにはトーストしたレーズンブレッドとマッシュポテト、厚切りのベーコンソテーが乗ったワンプレートが準備されている。いつかテレビで見ていた、洒落た朝食がそこにはあった。
葵が買った海の見える一軒家で暮らし始めて七ヶ月が経つ。どこなのかはわからない。ただ、葵にプロポーズをされて、ここで幸せになるんだと聞かされて、混乱が解けないままここで暮らしている。
「葵。母さんに電話させてほしい」
「またその話? 元気に暮らしてるって伝えてあるんだからいいでしょ?」
「お前の話だけじゃ不安がるだろ? 今あの家は母さん一人だ」
「だめ」
「少しでいい」
「だめだって言ってるでしょ!?」
葵の鋭い声が、ダイニングに響いた。そして、一瞬の静寂。
「ねぇ、修さん。あたし、貴方と幸せになりたいだけなんだよ?」
葵が俺の頬を華奢な両手で包む。そっと隈を撫でる、指先。
「葵……幸せって、なんだろうな……?」
この時、俺の目は虚ろだったと思う。
「マリッジブルーなんだね。大丈夫! 二人で乗り越えていこうね」
その声は、慈愛に満ちていた。
葵には、人並みの幸せを手にして欲しかった。今まで頑張ってきた葵を守ってくれる人と、幸せな家庭を作って欲しかった。どこから歪んだのか、どこで変わってしまったのか、いまだに分からなかった。
「じゃあ、打ち合わせ行ってくるから、いい子で待っててね。今日寒いから、夕飯あったかいものにしよっか」
葵が俺の顔中にキスを贈る。ある日、抵抗として葵のキスを避けたら鼻を摘まれ、酸素を求めたところに深く口づけられた。殴っても突き飛ばしても、笑顔で頬を撫で返す葵に抵抗の意味はあるんだろうか。
特殊な機器が取り付けられ、内側から簡単に開けることが出来ない玄関ドアから、葵は俺をおいて出ていった。のろのろとリビングに戻って見つけたのは、発行日が切り取られた書籍が段ボールに十数冊。ここにはテレビもなければパソコンも時計もない。おそらく葵の部屋にはあるだろうが、葵の部屋にも玄関ドアと同じ特殊な機器がついている。キッチン収納も南京錠がついていて、開けることが出来ない状態だ。
葵に勝手に開けられたピアスに触れる。このピアスも自力で外そうとしたが、耳に激痛が走るだけだった。葵曰く、マイクロチップが内蔵されているとか。今日も逃げることを諦めて、ネックレスのチェーンに通った指輪を握りしめた。
「すまない……貴子……」
葵に懇願して、この指輪はいま処分されずにいる。二十五年前、妻に永遠の愛を誓った証が、俺の拠り所になっていた。
ダイニングに用意してあったサンドイッチを食う気にもなれず、用意された本を読み耽っていると辺りが暗くなっていた。どうやら夜になっていたらしい。
「ただいま~。修さん?」
パチリと照明が点く音。突然降って来た光の眩しさにきゅっと目を瞑る。
「ただいま!」
ハリのあるソプラノは、葵の好きだったアイドルに似ていた。
「ああ、おかえり……」
葵は夕飯のときも、楽しげに今までのことを話してくる。自分の仕事のことも、俺を拒絶していた時期のことも。
「あの時は素直じゃなかったの。大好きなのに、『大嫌い』って言葉ばかり口から出て来た。でもね、傷つけた分、幸せにしたい。幸せにするから」
声を発する気にもなれず、葵が淹れた緑茶を啜った。
ベッドに入ると眠れない時間が続いたのに、この日はすぐに眠りについた。眠りについて数時間、ふと目を覚ますと、腕に違和感を覚えた。
「は……? 何だよこれ!? 葵!」
「あ、気がついた?」
仰向けで寝ていた俺の両手首には手錠がかけられている。俺の身体に跨る葵は楽しげだった。派手な下着だけ身に着けた状態で。
「七カ月一緒にいて、こういうこと無かったんだし、いいでしょ? もう」
「当たり前だ! 俺はお前を抱くなんて考えたくもねえ! 外せ早く!!!」
迫られても抵抗して、寝室から逃げ出して、眠れない夜を過ごした。葵が寝息を立てて動かなくなるまで、息をひそめて。それでも、葵は俺に迫った。今まで俺たちが築いた関係を忘れたかのように。
葵が俺の耳元に囁く。それは、俺にとっては呪いの言葉だった。
「修さん、―――――」
「!!! いやだあああああっ! やめおおおおおおおおおおおおっっ!!!!!!」
俺が感じたのは、葵の体温と、滲む世界と、絶望だけだった。
手錠はもう外れていた。まだ光が差してこないから夜は明けていないだろう。
葵は、いつか目を覚ましてくれると信じていた。正常な思考へ戻って、正常な世界に戻って行ってくれると希望を持っていたのに、暑い季節から寒い季節を迎えても葵は気狂いのまま。助けが来る見込みのないまま、葵に愛欲を求められる生活に参っていた。
「葵」
満足そうな顔で寝息を立てる葵の髪を撫でる。
「お前を狂わせたのは……俺か?」
俺が消えれば、葵は元に戻るのではないか。
葵の手でなければ、外に出ることは出来ない。凶器になるものは隠されているとなれば、俺が取れる手段は限られた。
「なぁ、これだけは覚えててほしい」
葵、愛してる。
ずっと、愛してるんだ。
俺はその決断をした瞬間、静かにベッドを降りて浴室へ向かった。翌日がオフの葵は、寝付いたらなかなか起きない。浴室の蛇口を捻ると冷水が栓で出口を塞がれた浴槽を叩く。冷水が溜まるその浴槽に、俺は身を入れることにした。
冷え切った浴室と、身体に沁みる冷水の温度に頭が冴えていく。どうして早くこうしなかったのかとさえ思えた。葵が起きる前に、全て終わればいい。起きてしまったら、もう繰り返しは出来ないから。だんだん水が広い浴槽に溜まり、腹あたりまで水位が上がる。
「葵の花嫁衣装、見てみたかったなぁ……」
俺の、ささやかな願いだった。こうならなければきっと、叶っていたはずの願いだった。
まだ、こうなる前の葵を思い出す。一緒に買い物していた時、葵の友達と会って、「すごいカッコいいじゃん!」と言われて、二人で照れ笑いしたこともあったな。ホットケーキを丸焦げにして、「一生懸命やったのに出来なかった」と泣いている葵を宥めたこともあった。葵が俺を拒絶したのは、妻と旅行から帰った翌朝のことだった。裏切り者、側に来るなとヒステリックにがなり立てた。
浴槽を水が満たしたところで水を止めた。
「ふぅ……」
俺はそこに頭を沈めた。息が苦しい。冷たい。それでも、浴槽から出ようとは思わないし、身体も不思議と沈んだままでいてくれた。妻を遺してしまう未練もある。ただ妻は、俺が葵をこの世で一番愛していることを知っている。葵を守るために、葵が目を覚ますために、勝手に逝くことを許してくれと、意識が遠のくなか妻にひたすら謝る。
夢を見たんだ。誰もいない小さな教会で、白い花の冠と、白いワンピースで、永遠の誓いの言葉を立てる、葵が俺の目の前にいた。ダメなんだ。俺は、お前と誓いを立てることはできないんだ。
ごめんな、葵。
さよなら。
幸せな人生を、歩んでくれ。
葵はいつもより遅めに目を覚ました。ダブルベッドの右側には誰もいない。昨夜はそこにいたはずの人物を探すため、ベッドを降りた。
「おはよー……あれ?」
リビングにもいない。玄関やベランダは自分しか解錠できないはずだ。辺りを探し、何気なく洗面所を開けると、浴室のドアが少しだけ開いていた。
浴室のドアを開けると、冷たい空気が葵の肌を刺す。なぜか水で満たされている浴槽。
「え……?」
葵が探していた人物、葵が一番愛している男が、広い浴槽に窮屈そうに沈んでいた。
「っ! ……う、うぇ、ふううっ……」
その場で崩れ落ち、男の冷え切った手を浴槽から出して握りしめた。
「ああああああっ……ひくっ! お父さん……!」
冬のよく晴れた午前、葵が二十歳を迎えた日のことだった。