第5話 嫌な夢 前編
ひどく雨が降っている。
「あんたさー、さっきアタシの男に色目使ってたっしょ」
「キモいんだよ! え? あんた、そんなブスのくせに男に相手されるとでも思ってんの? 頭悪すぎ」
「お前マジ学校来んなよ。いるだけでみんな不快にさせてさ。大体お前、ただでさえキモかったけど、最近マジでなんか臭くない? ほら、シャワーでも浴びたら!」
傘を奪われ、よろける。その拍子にカバンが落ちて、中身が散乱した。ノートやプリントを、彼女たちは容赦なく踏み潰す。
「きゃはは! マジサイコー。天然シャワーじゃん! エコ〜」
「ウチって意外と地球を大切にする女だからさ。こいつなんかに貴重な水道水使えないっしょ?」
「えー、それなら酸素も勿体ねーじゃーん」
「ちゃんと髪も洗いなよ? ボサボサなんだからさあ!」
彼女たちは私の背中を蹴飛ばし、頭を水たまりに押し付ける。
「やだ汚な〜。制服泥だらけじゃん。ホントにそれじゃ学校行けないね!」
「言っとくけど、これもあんたの為なんだよ? あんたが周りにメーワクかけてんの自覚してないからさあ、アタシらが分からせてあげてんの」
「だから早く――消えろよ」
◯
……嫌な夢を見ていた。
いや、夢じゃない。あれは実際に、私が経験したこと。
ベッドから起き上がり、私は鏡の前に立つ。
まっすぐに輝く金色の髪。夜空のような深い青の瞳が目を引く、整った顔。スラッと伸びた手足に、抜群のスタイル。
誰が見ても美しい。それがセレナ=アウルムノクスの姿。
……なのに。
「どうしてこんなに……醜いの」
心が。
◯
「セレナ様。体調が優れないのなら、本日はお休みになられた方が……」
「いいえ、大丈夫」
心配するマリーに、私はすぐさま笑みを見せる。
そりゃ、本音としては行きたくないけど……それでも私は侯爵令嬢で、外国の王太子と婚約中の身。あまり角が立つことはしてはいけない。
それにこういうのは……休めば休むほど、行けなくなってしまうのだ。
「でもでもっ、顔真っ青ですよ!?」
「本当に? ……いえ、でも平気よ。ちょっと悪夢を見ただけだから。馬車で休んでいればすぐ治るわ」
「ダメですっ! セレナ様は気を遣いすぎなんですから!」
む……今日のマリーは一段とワガママだ。
「お願いよ。学校に行きたいの」
「そ、そうやって可愛くお願いしたら許されると思ったら大間違いですっ! セレナ様、昨日もずっと浮かない顔してましたし!」
「お嬢様。僭越ながら、私も今日はお休みになられた方がよろしいかと」
まさかの真面目の代名詞であるブラットにまでそんなことを言われた。そこまで酷い?
「旦那様がご覧になったら学院へ殴り込みに行かんばかりですね」
ほう、なるほど。どうやら私は見るに耐えない顔をしているようだ。
「そうですよー! そんな酷い顔されたら、私もセレナ様の噂を流している人に殴りかかっちゃいます!」
「マリーの方が休む必要がありそうね」
それにしても、さっきから顔が酷い顔が酷いってやめてくれないかな。何? 前世のブス顔が浮かび上がってるの?
「なんならもう通わなくていいんじゃないですか? 卒業資格なら足りてますよね?」
極端な案を出すマリー。たしかに元よりもうすぐ卒業だったのだから、年が明けたらほとんど学院に行くことはなくなる。出席日数も問題ないし、あとは卒業論文を提出するくらいしかすることがない。
「ええ。でも、学院に通うのはフェガリの将来を担う者たちですもの。軋轢を生んだままイリオスへは行けません」
「セレナ様……」
私の言葉に、マリーが心を揺さぶられているのを感じる。
よし、あともう一押し。
「それに、噂については気にしてないわ。これからも謂れのない噂話を流されることはあるでしょうし、一々構っている暇はありませんから。私の体調が芳しくないように見えるのでしたら、それは単に夢見が悪かったからというだけです」
だから、私は学院に行きます。と。
ここまで言えば、誰も止める人はいなかった。
◯
「セレナ様って、シリウス王子の子供を身ごもってるらしいよ」
「ダイアナ王女が婚約破棄されたのも、セレナ様が裏で手を引いていたらしいし」
「すました顔してよくやるよね〜」
…………悪化してるっ!!
ど、どうして!? どうしてたった二日でここまで噂に尾ひれがつくの! 皆が知ることのできる事実は"私が迎賓館を訪れた"これだけなのに!
婚約その他もろもろはすべて彼女たちの憶測だ。……まあ、結婚するのは本当だけど。
人の噂も七十五日、とは言うけれど……七十五日後には噂が火を噴いて宇宙へ飛んでいきそうな勢いだった。婚約者がおり将来が決定している彼女たちにとって、スキャンダルは何よりの大好物。婚約発表、挙式とまだまだ燃料を投下する予定なのだから、この話題は当分は収まりそうにない。
「……セレナ様。大丈夫ですか?」
黙り込む私にアリシアが声をかける。
「なあに、あなたも私の顔面が酷いって言うつもり?」
「顔面っていうか……まあ、そうですね」
肯定された! うう、そんなに前世の私は見苦しいのか。ちょっと夢に見ただけで周囲を心配させる醜さなのか!
「そんな恨みがましい目で見ないでください。マリー様がいないからって凹みすぎです」
ちなみに今日マリーはいない。また失言されても困るし、学生に殴りかかったりしたら大問題だから屋敷に置いてきた。けど正解だった。こんな話、彼女が聞いていたら何するか分からないもん。
「はあ……。どうしてあんなに話が飛躍してるのでしょう。シリウス様を訪ねただけで婚約、妊娠へと話が進むなら、明日は隠し子でもいることになっているでしょうね。アリシアだけよ、私と真摯に向き合ってくれるのは」
「まあ、私は昔からセレナ様と親しくさせていただいてますし……。噂が過熱しているのは、寮に住んでいる学生たちが夜な夜な盛り上がってるからだと思いますよ」
私やアリシアのように、父が宮廷勤務で王都に自宅があるという学生は毎日自宅から通っているが、地方領主の娘などは学院の寮で共同生活を送っている。私のいない寮で陰口がエスカレートするのはある意味当然の結果だろう。その証拠に、自宅組はむしろ私のことを庇ってくれているし。
「なんとかして、止めさせたいのだけれど……」
「無理でしょうね。今は何を言っても彼女たちの反感を買うだけですよ」
そもそも、なぜ彼女たちは私がシリウス様と結婚するのが気に入らないのだろう。結婚が私の一存では決められないことくらい、彼女たちも分かっているはず。そして、フェガリの貴族の娘と未来のイリオス国王の結婚が、どれほどフェガリに国益と安寧をもたらすかも。
「理屈じゃないんですよ。イケメンで剣の才能もあるシリウス王子と結婚するなんてという身勝手な嫉妬です」
「……代わってほしいわ」
「それ、彼女たちの前で言ったらダメですよ」
「分かってます」
昼食を終え、アリシアと別れる。研究室に行こうと廊下を歩いていると、ひそひそと喋る声が聞こえてきた。
「……どうしてダイアナ様よりセレナ様をお選びになったのかしら……」
「男に興味ない風を装って、婚約者のいるイリオスの王太子を狙っていたなんてね」
「夜会で必死にアピールしていた私たちをバカにしていたのよ……」
あーあ、何がそんなに羨ましいのやら。魔道士として魔法をイリオスに伝えろなんて雑な理由で結婚するのに。でも、理由はともあれ大国の王妃になれるし、相手も好青年だから仕方ないのかも。私はシリウス様、苦手だけど。
そう心の中で毒吐きながら、さっさと通り抜けてしまおうと歩を速める。
すると、訓練場の扉が開きっぱなしになっているのに気がついた。訓練場は魔法を吸収する特別な素材で出来ており、院内で数少ない魔法の使用を許可されている場だが、出入り口が開いていてはそこから魔法がもれてしまう。
危ないから閉めておこうと扉に近寄ると、訓練中の女学生の一人が、まさにこちらに魔法をぶっ放していた。
――どうしよう、大人しく当たるか、それとも――
一瞬の思考ののち、すぐにシールドを展開して魔法を防ぐ。
間一髪、炎は盾によって斜めに逸れていった。
炎だったのか……避けて良かった。
「せ、セレナ様!? すみません、大丈夫ですか!?」
「ええ、私は大丈夫です。ですが、危険ですので訓練場の扉はきちんと閉めてくださいね」
謝る女学生をやんわりと注意し、扉を閉める。それにしても、なんとか防げたから良かったものの、他の学生だったら大火傷を――
「――チッ」
舌打ち?
「……」
私は何も聞かなかったことにして、研究室へと急いだ。