回顧録
「そろそろ、出発する用意を。」
夢の中で久しぶりに出会った旦那様は、30代ぐらいだっただろうか。結婚した頃の。あの、恋焦がれた時の姿で。でも、相変わらずの無表情で。枕を濡らして目が覚めた。
ああ。旦那様。夢でも嬉しい。
こわばった手を伸ばす。朝は節々が痛む。齢86になった。もう少し、長生きしてもよかったかもしれないが。もう、私は旦那様に会いたくて。仕方がなかった。今年に入って、急激に身体が弱り、あの人の眠る墓に花も手向けられない。
毎晩、会いたいと願った。
もともと、年上の旦那様は、私が50歳になった年に亡くなった。
長年の激務がたたったのだろう。最後まで、第一線を退くことなく、影として生きた。それが、彼の望みであり、生きるための理由であり。彼の矜持であった。
私は、初めての女性一等書記官として、登りつめた。
無論、イング家を出たため、その特殊な責務は負わないが。イング家当主となった弟を助け、70まで王城に登城した。
何がどうしたことか。双子の娘のうち、一人は旦那様から引き継いだのか?光属性魔法が使えたため、名門バイス公爵家に嫁いだ。一人は私と同じ水属性であり、一見、普通の貴族家に嫁いだ。
一見、普通の貴族家に嫁いだ、というのも訳がある。
武の名門ラデン家の流れを組む家とされているが、本来重要なのは、この大陸を陰で支える秘された魔術師の血を引くものに嫁いだのだ。
緩やかに、確実に血は受け継がれてゆく。
もう、すでに、リオン様もレイローズ様も地上を去った。
そして、リオン様の息子のリル様の世代も終わろうとしているが。流石だ。親子二代に渡り、この大陸を安定に導き、戦乱の目を摘んだ。国は周辺諸国も巻き込んで年々繁栄している。後継者もしっかりとした者たちがいる。
民の暮らしぶりも、驚くほどに良くなった。
若いころに見た、あの貧民街は姿を消した。
ただ一つ。心残りとすれば。遅くに産まれたひ孫ティア。
大陸を支える魔術師の家に生れたのに。第一子と第三子は稀代の魔術師になるのではないかと言われるくらいの膨大な魔力を持って生まれたのに、ティアは、何の魔力も持たなかったのだ。
遠く、帝国から嫁いだ彼女の曾祖母のように、夢見の力を持つのではないか?と。思われていたが。その力の片鱗も見られず。本当に、魔力の抜け落ちた子供だったのだ。
だが、魔力耐性は異常に高く。防御に特化したよくわからない子供だった。それは、精霊の守りだろうと考えられた。が、貴族家、魔力を重視する貴族社会において、彼女はイレギュラーであり。異端であった。
子供の頃から、庭園の隅で泣く姿を時折、見かけた。
ただし、頭脳はずば抜けて良かった。魔力の不足を補うように、彼女は教育を施された。でも、兄と妹が実の両親から魔術の手ほどきを受ける間、彼女は家庭教師から教わる。家族との時間を共有できない辛さは、徐々に、徐々に彼女の精神を蝕んでいった。
精神的な負担で声が出なくなってから、ティアは家庭教師から解放され、自由に過ごすようになった。
そして、ある日、寝こみがちだった私の病床を見舞い、私の私室にある本の山を見て目を輝かせた。いつでも来てよい事を伝えると、ティアは翌日から、毎日、私の部屋に通うようになった。7歳の頃から通っているから、もう、5年になるだろう。1年ほどで、ポツリ、ポツリと単語を話すようになり、今は普通に会話ができるようになった。元々、頭の良い子だ。去年からは、令嬢としての最低限のマナーは身に着けるようにと、教師もつけられたが。大体、聞いたことは一度で覚えてしまうらしい。あまり好きではないようで、マナー講義などの前日は、予習に励み、最短で講義を終えて、私の部屋に戻って来ていた。
私が、幼かったあの日、ひいおじい様の居室に入り浸った日々を思い出す。私より、ずっとできの良い孫娘。でも、とても繊細な子。
この子は、私がいなくなったら、どうなるのだろう。
私が大泣きしたように、泣くのだろうか。
でも、ひいおじい様が亡くなって初めて、私は家族を受け入れる事が出来たのだったな。
ああ、そうだった。
彼女は、ティアは。大丈夫だ。
ふと、最後のパズルの一片がはまったような気がした。
そう。そうだった。旦那様に、出発の用意をと言われたのは。さっきの夢は…。
ベルを鳴らして、メイドを呼ぶ。身の回りの世話をしてもらい、朝食をとる。孫のナターシャ(ティアの母親)を呼び出し、用意しておいた箱を預ける。ナターシャが別れ際、少し、泣きそうな顔をしたから。ああ。やっぱり、そうなんだなあと思う。
午後になって。ダンスの講義を終えたティアがやってきて、いつも通りに過ごす。
あたたかな午後。
穏やかな時間。
特別な言葉は要らない。
そう。
大丈夫。
いつも通りに、また明日と笑って、ティアが帰って行く。
体調がいいからと、メイドに手伝ってもらい、湯あみをして、床につく。
「行くぞ。」
相変わらずの、無表情で手を差し出す旦那様。こんな、皴くちゃだらけの手が申し訳ないわって、思ってみたら、自分の手に皴が無い。思わず、苦笑してしまう。
「どうした?」
少し、眉を下げて尋ねる旦那様。ああ。そう。そうだった。この表情。私の思いが分からない時に、こんな顔をされるんだったわ。
遠い記憶で。忘れかけていたこのしぐさ。
「いいえ。皺くちゃな手をつないでいいものかと、思ってしまったの。」
ふふっと、笑みが漏れる。
「何を気にする必要がある?メイアは、メイアだ。」
繋がれた手を見て嬉しくなる。ふんわりと、重かった身体が軽くなる。
「ね。私、道が分からないのだけれど?」
「だから、迎えにきたんだろう」
そう言って、歩き出す旦那様。
もう身体を捨てたのなら、思いっきり、笑って見せてくれてもいいのに。なんて思ったんだけれど。きっと、この人は変わらないんだろうな…。
でも、この手の温かさは。確かに、ここにある。
わかりにくいとは思うのですが。
ルーク・メイアの娘双子誕生サリア(光属性)は、リリスティールとクロードの孫と結婚します。
メリア(水属性)は、カイウス次男マリウスとタリスの長女マーシャの子ガゼル君と結婚します。
メリアとガゼルの子がナターシャ。ティアはナターシャの第二子になります。