偽りの太陽
偽りの太陽の下で、ぼくはいつもと同じ日々を繰り返す。
笑う人々の前で踊って、踊って、踊って。
大好きなあなたへ、花を渡すのだ。
***
盛大な拍手が鳴り響く中、ぼくはぼんやりと自分の視界に映るものを見ていた。網膜に焼きつくくらいに眩しい『タイヨウ』の中だと、手を叩いている人たちは顔だけにライトがあたってまるで首だけが浮いているように見える。真っ白に焼かれる視界の中、ぼくの目が見つけ出す。
「さ、今からお見せするは当サーカスの目玉。道化師のジュエです!」
一層『タイヨウ』の光がきつくなる。すっぽりとこの丸い舞台を覆う天幕の縁はまるで夜が這っているみたいなのに、ここだけは昼みたいだ。いつもと同じことだけを考えて、いつもと同じ視線のままでぼくはゆっくりと綱の上を動き出す。
高く高く飛ぶ。
人々が息を呑む。
わざと下に落ちる。
人々がどよめく。
再び立ち上がる。
人々が安堵する。
それから、指くらいの太さしかない綱の上で一回転してみせると人々は人が変わった様に手を打ちながらぼくを笑うのだ。じりじりと熱い『タイヨウ』へと向けてまっすぐに指を伸ばしてから、そのままゆっくりとお辞儀。
――挨拶を。
ただ一人、ぼくに向かって指をさすことなく優しく笑っているあの人へ。
***
「ジュエ~。悪いんだけど、また『あのお方』へ頼んでいいかしら?」
「私も私も! 私たちが外に出たら大騒ぎですもの」
きらきらとした衣装をまだ身に着けたままの女性たちに押し付けられたものに、ただそこに通りかかっただけだった少年は困ったような表情になった。先ほどまで厚く白く塗りたくられ、道化師の表情を埋め込まれていたその顔は既に綺麗に洗い流された後だ。
「あんただったらお化粧とっちゃえばお客さんにはばれないし、なんだかんだで自由よね。あーあ、私も道化師だったらあの方と直接お会いできるのに」
数人の踊り子たちは少年に手紙とそれに対になる一輪の花を渡し終えると、賑やかな笑い声を立てながら立ち去っていく。自分たちに宛がわれた天幕へと戻るのだろう。
ショーが終わった後は、いつもこんな風に彼女たちは少年に意中の客へ手紙を手渡すよう押し付けるのだ。一輪だけと決められている添花はその花の種類で、相手を思う度合いを計るという役割を持っている。一輪だけでも大層な値が張るのだろうそれらを見ながら、少年――ジュエは小さく嘆息した。
「……分かったって。どうせもらえない返事なんか期待すんなよ?」
ようやくジュエが返事をした頃には、華やかな笑い声を立てて踊り子たちは姿が見えなくなってしまっていた。唇を尖らせるものの、すぐに安堵したような表情へと変わる。
「ジュエ。こっちの手伝いに来てくれ」
興行で滞在する間援助をしてくれる人たち――主に貴族――を招いての食事会が毎日開かれるのが彼のいるサーカスでの暗黙の決まりごとだった。踊り子をしている見目のいい彼女たちをその場に出すと大抵良くない困りごとが起こることを見越して、食事会は本当の意味での食事会であることが多い。道化師の化粧を落としたジュエはひっそりと目立たないように立つことの天才だったので、そういった場の料理運びといった手伝いにこき使われることがほとんど毎日だった。その後は許してもらえるまで血のにじむ練習が待っているのだ。
ギュ、と握り締めた花。
『タイヨウ』に向かってさし伸ばした指は今頃になって熱を持ち、少しかゆくなり始めている。
給仕の手伝いの時間は、今の彼にとっての至福の一時だったのだ。
***
「いつもありがとう」
花を抱えて笑ったのは、いろんなところを渡り歩いてきたぼくでも見たことがないような、綺麗なひとだ。でも女のひとじゃない。姐さんたちが黄色い声でその名を呼び、陰から熱い視線を寄せているその人である。
一人一本のはずの花もたくさんの女性から贈られれば立派な花束になる。色とりどりの不思議な調和を起こした花々を抱え持って、彼は男性的に整った綺麗な顔で、笑う。いつもその笑顔に目をすい寄せられてしまって、ぼくは彼の言葉に返すことができなくなるんだ。
「では、これを」
彼が取り出したのは一通の封筒。抱え持った花々からではなく、ちゃんと彼が用意してきたらしい淡い色の花が添えられる。
いつも彼は、届けたい相手の名前を言わない。
けれど、ぼくは知っている。
彼が、いつも誰を見ているのか。
嬉しそうにぼくから花を受け取ると、必ず届けてくれ、と言って彼はぼくから離れていく。いつもと同じように、ぼくは下働きする時に着るちょっと薄汚れた服のままでそれを見送る。誰かへの手紙。そっとその輪郭をなぞってから、ぼくは唇をかみ締める。
――それから。誰かに見咎められる前に、彼からの手紙をそっと自分の服の中に隠しこむ。
「……最愛の君へ、か」
淡い色のこの花は、普通に花屋に行って買える花ではないことくらい、『この場所』から出たことのないぼくだって知っている。この花を贈られることは、結婚の約束のようなものだと姐さんたちがよく夢見がちに話しているからだ。
手紙。それが正しい送り先へ渡ってしまったら、最初から叶わないと分かっているぼくのちっぽけな願いすべてが消えてしまう。最後の日までもう少しだから、だからそれまで。
「ジュエ、顔を出せ」
団長の太い声がぼくを呼ぶ。またきっと、腹がでっぷりとした紳士たちの前で躍って見せろと言うんだ。だからぼくは表情を変える。ここからじゃ、あの『タイヨウ』には到底届かないから。精一杯背筋だけはピンと伸ばして。
***
「ジュエ君。少しいいかな」
柔らかなバリトンがぼくの名を呼ぶ。振り返った視線の先に映る、すっきりと後ろに流されたアッシュブロンドをぼんやりと見ながらぼくは頷いた。ドキドキと胸が激しく鼓動を打ち始める。今日も連日の食事会がもてなされ、デザートまで終えて一杯のコーヒーに彼らが満足すればただの騒がしい貴族たちの集いへと変化するその場所で、厨房になっている準備室へと向かう細い通路で彼に呼び止められた。
「はい、オウル侯爵」
今日は体調が悪いから本番では本当に落下しかけるなんてドジを踏んでしまった。先ほども皿を2枚ばかり割ってしまったので役立たずは戻れと言われ、自分に宛がわれている天幕に戻ろうとするところだった。
最後に一つだけいいことがあったのだとぼくはほんのり嬉しくなる。いつも彼は、道化師の化粧を取ってしまったぼくにも、他の人に対するのと変わらない笑みを浮かべてくれるのだ。もしかしたら彼だってぼくの知らないところでは哂っているのかもしれないけれど。
「この手紙を、君の団長さんに渡してもらいたいんだがいいかな? 君の手から、だ」
ぼくを呼び止めた時にはいつもと同じ微笑を浮かべていた彼の口もとが引き締まる。いつもなら宛名のなかった封筒には、しかし今日はしっかりとうちの団長の名前が見たこともない敬称とともに書かれていた。彼はこんな名前だったんだ、と封筒の裏に流麗な文字で書かれたその名を目に焼き付ける。
「こちらは、いつも手紙を受け取ってくれる私の大事な人に渡して欲しい」
ほんの少し悪戯めいた風に彼が笑った。それは初めて彼に手紙を渡した時に、彼が冗談を言って笑った時の顔を思い出させた。
初めて会ったのは1ヶ月ほど前だ。このサーカスは大体、一つの街に1ヶ月くらいは居つく。
1年のほとんどは移動で終わってしまうから、1ヶ月の間に親しくなれる人間なんかぼくは作れないけれど、姐さんたちはその土地土地で彼のような男性を射止めるべくの行動に容赦がない。初日から姐さんたちによって送られ始めた大量の手紙に、彼は一度も返事をしなかった。
次の日、彼に届けられた手紙はたった一つで。彼は、これを受け取ってくれる人へと言付けてぼくに返事を託した。最愛の君という花言葉を持つ花を添えて。また一気に増え始めた手紙をいくら彼に届けても、彼がぼくに返すのはたった一通だけ。花と同じ名前を持つ、彼女のために彼はぼくを呼んだ。
それから少しずつ他愛のない話ができるようになった。勿論貴族である彼と、どこか遠い異国で拾われて道化師として育てられたぼくとの見えない壁を越えたいなんて望んでもいなかったけれど。あの次の日以外は毎日届く他の姐さんたちの手紙なんか知らない振りして、彼がずっと一人を見ているのだとぼくだけは、知っていたから。
毎日、少しずつ積み重なっていった想いに、ぼくは何度も自分に苦笑しようとしてできなかった。彼に会えなくなる日が近づいてくことに、いつも心がどんよりと重くなる。
毎日増えていく、隠した手紙の数と共に。
「……大事なひと」
やっぱりぼくの耳はぼんやりと、その言葉を聴く。朝から体調が悪いせいか、頭の奥がぼう、となっていくのが分かる。
「ジュエ君? 具合が悪いのか?」
「大丈夫です、オウル侯爵。ちゃんと手紙は届けます。団長にも、花の人にも」
気遣わしげな表情をしていた彼の顔が、ぼくの言葉を聴いてはっとなったようになる。あぁ、そうか。これじゃあ聞く人が聞いたら分かってしまうもの。でも、ぼくはここに来る前に姐さんたちに聞いていたから思っていたより衝撃は少なかったかもしれない。
彼――侯爵が、結婚するんじゃないかって話。
もちろん、相手は花と同じ名前のひと。団長が食事会に姐さんたちを呼び使わないのはこういうことなのだ。踊り子の姐さんたちは綺麗な人ばかり。正妻にできなくても、愛妾にしたいと申し出る男たちが後を絶たなくて、彼らに踊り子たちを取られたくない団長は彼女たちを見せないことに決めたのだ。
けれどショーの間、彼女たちは『タイヨウ』の光の中で煌びやかな衣装で踊る。貴族と呼ばれる彼らが彼らに与えられたものを使えば、こんな小さなサーカスから踊り子たちを召し上げることくらい簡単なことだった。
団長への手紙は、そういうこと。分かっているはずなのに、受け取る手が、震える。叶うことなんかないのに。ただ彼とこんな風に近くで、話せるようになれただけでぼくの範疇を超越していたのに。
こんなに空虚な思いを感じていても、ぼくはきっと道化師のジュエになりきれるんだ。だってもう、ずっとこんな風に生きてきたから。ぼくは、笑って彼を見上げる。ぼくは、道化師ですから。
「大丈夫です、侯爵」
目に急速に駆け上がってきた温かいものを無理やり押さえつける。一気に湿り気を失って、かすれかける声が彼に気づかれないように返事は短く。
大丈夫です、明日でサーカスは終わりだから。
ちゃんと今日、あなたからの手紙を彼女に渡しますから。
***
「あら、ジュエじゃない。こんなところで何しているの……って、それ花じゃないの。まさか、あの方から?」
「……これは、その」
花のひとに特別与えられている天幕にたどり着くには、他の姐さんたちがまとめて与えられているここを通らなければいけない。勿論、男であるぼくがやすやすと通っていいわけではなかったからこっそりと入り込んだつもりが、あっさりと目聡い一人に見つけられてしまった。
「しかも見てよこれ、ロシュアと同じ名前の花よ?! あんた、もしかしてロシュアにそれを渡しにいくつもり?」
ぼくは何も言えず、ただじっと唇をかみ締める。彼女の声を聞いて、くつろいでいた他の姐さんたちまでがこちらへと近づいてくると遠慮のない嫉妬混じりの視線をぼくの手元にぶつけてくる。
「それもっとこっちにも見せなさいよ! 花だけじゃないんでしょ、ねぇ?!」
後ろからぐいと引っ張られて、貧相なぼくの身体は簡単に屈してしまう。いや、いつもだったらいくらなんでも簡単に負けたりなんかしなかった。頭がふらふらするんだ。朝からずっと具合が悪くて。
心が、ずっとずっと重い。胸の奥が痛いんだ。じくりと膿んでいた傷がまた開いてしまったように。
紙束が床に散乱する音がする。ぼくの視線が、ぼんやりそれを追う。
「見てよこの子! こんなに手紙をしまいこんでいたんだわ!」
「酷い!!」
一斉に姐さんたちがぼくを詰り始める。ごめんね、でもその中に、あなたたち宛の手紙は一つもないんだ。あるのは、花のひとのものだけ。でもぼくは、あなたたちがちょっとだけ羨ましい。
「でもジュエだって明日、あのでっぷり腹の貴族に売り払われるって私、さっき団長から聞いたわ。罰よね、罰! ジュエ、あんた泣いて……」
あぁ、本当に罰なのかもしれない。
「あなた達、何を騒いでいるの? ジュエ、団長が散々あなたを探していたわよ。早く行きなさい」
おっとりとした声がぼくの耳に突き刺さった。
「ロシュア、聞いてよ!」
後ろからの絶叫に近い怒声。
ぼくの足がゆっくりと動く。ふらふらとロシュアに近づいていく。
「ロシュア、本当にごめんなさい。……おめでとう」
彼女の紅茶色の長い巻き髪。おっとりした口調に似合いの、優しそうな柔和そうな顔がぼくを驚いたように見ていて本当に申し訳なくなるけれど。
「逃げるの、ジュエ?! 待ちなさい!!」
追いかけようとする気配よりも早く。ぼくはただただ、すべてから逃げ出したかったんだ。
***
走ろうとして失敗したのをあっけなく捕えられて、ぼくは団長の前で項垂れていた。ぼくの前にいるのは、あのでっぷりとした腹の紳士。優しい笑い方をする男だとは思うが、ただそれだけだ。
「申し訳ありませんな、こちらが無理をさせてしまったのか具合が悪そうだ」
「気になさることはありませんよ。それよりこちらこそ申し訳ないほどだ。こんなできの悪いのではご迷惑をおかけするのでは」
もう既にぼくを売ることを決めてしまっているらしい団長は、言葉とは裏腹に手をこすり合わせながら嬉しそうだ。この紳士も毎日舞台を見に来ている一人だったーーそう、オウル侯爵の隣にいつもいる。
「できが悪いだなんて、とんでもない。彼はとても働き者で、評判も良いと聞いています。さて、今日は具合が悪そうだから話はこのあたりで終わらせましょうか」
紳士がほほ笑むと、心得たように団長も笑い返した。
「後はどうぞご自由に」
団長が消えてしまうと、仮眠室として使われることの多いこの部屋で、ぼくと紳士が取り残されてしまった。逃げようと思うのに、もう足は動かない。
「さてさて、そんなに怯えなくてもいいですよ。明日から君は私たちと一緒に暮らすのだからね」
ゆっくりと大きな影が近づいてくる。彼らにとって、こんなこときっと他愛のない遊びなんだ。膝が笑い出す。ぺたりと床に尻餅をついたぼくの視界いっぱいに、紳士の笑顔が広がっている。
――大丈夫。ぼくは、道化師としてしか生きられないのだから。いつも観客にして見せるように、演技をしていればきっとこれからも生きていけるだろう。
酷い頭痛が襲う。もう、這い出す体力もない。覆い被さる影にぼくは小さく笑えたと思ってから、ぼくは耐え切れずまぶたを閉じた。
***
「ようやく気がついたのね、ジュエ」
おっとりとした声。紅茶色の長い巻き髪がゆったりと動き、彼女がぼくを覗き込んでいるのが見える。感触で、自分がいつも使っている寝台なのだと気づいた。ロシュアは小さな丸いすに腰かけて、ぼくの寝台に半身を預けぼくの様子を見ているようだった。すぐに意識がはっきりとしたぼくが寝台から降りようとするのを、彼女は優しい手つきで押し留めた。
「ジュエ。あなたが謝った理由が分かったわ」
彼女の声音はいつも優しい。けれど、視線に入った彼女の綺麗な顔を見ながら、すべてが繋がってしまったのだと思った。
「あなたが隠していた手紙をね、一つ一つ読んだの。それから団長たちともお話してきたわ。あんなに大事な手紙のこと、どうして私に黙っていたの」
彼女の声は、ぼくは知らないけれど幼子をあやす若い母親の声に似ていると思った。帰りの観客たちを見送る際にそういった光景によく遭遇して、ぼくはきっと他の誰よりもそれを見ていたから、そう思ったのかもしれない。いつも団長やみんなは言葉だけで殴り飛ばすように怒るから、ぼくはロシュアの優しい言葉の方が辛かった。
優しい彼女を傷つけた。
そして、彼のことも。
なんだかどこもだるくて、ぼくはぐらりと傾ぐ身体を何とか保ちながら押し留める彼女の指を振り切って床に這うと、出来る限り額を床へとこすりつけた。謝らなければならないのに、言葉がもう出なかった。彼の信頼を、裏切ってしまった。そのまま動けないでいるぼくの耳に、どこか諦めが含まれた小さな嘆息が届く。
「昨日倒れたって聞いたけど、少しは歩ける? 団長がまた呼んでいるわ。あなたを迎えに来る方がいるのでしょう?」
無意識に逃げ出そうとした身体を叱り付ける。
「ロシュア」
名前を呼んでも返事はない。ただ一度だけちらり、と視線を寄越して、彼女は天幕の裾を割り開いて去っていった。
彼女の姿がすっかり見えなくなってからもぼくはずっと丸くなっていた。それから身体を起こして、彼女の後を追いかける。天幕と天幕の間は厚い布で覆われているものの本物の地面の上を通らなければならない。その細い廊下のような道端で、小さな小さな花を見つける。
あの花――彼が毎日、ロシュアへ送るあの花と同じ色の花。
ごめんね、と断ってから一輪摘み取る。今だったら、彼も団長のいる天幕で輪の中心となっているはずだ。ゴミだと笑われてしまうだろう。手紙のことをもう耳にしていて、激怒しているかもしれない。もしかしたら、ぼくはもういなかったことになっているだろうか。
花を大事に持ちながら、天幕へと急ぐ。急げば早く時間が過ぎてしまうと分かっていても、気持ちが焦る。そんなぼくの足は、天幕に着く直前で急激に動かなくなった。
花束。ロシュアの花が包装紙にきちんと収まっている。穏やかに笑いながらぼくの前を、ロシュアと共に歩く背の高い後ろ姿。唯一、天幕群から外に出られる分岐路にぼくは立っていた。逃げることが卑怯だと、分かっている。だから、ほんの少し時間が欲しいだけだった。
追いかける足音がする。きっとあの紳士だ。ごめんなさい、としか口から出てこない。
――ただ、あなたに話しかけることができただけで、幸せだったのに。
***
おかしい、と自分で気づいたのは酷い頭痛が起きてごろりと無様に転がってからだった。もう足は動かなくなっていた。ただひどく緊張しているのか、身体が震え続けている。それを他人ごとのようにぼくは思いながら、自分の指先を見ていた。
いや、指先じゃない。
その先にあるもの。
それは、ホンモノの太陽の光だ。ほんの少し動かせば掴めそうなのに、ほんわりと優しいそれにぼくの指は届かない。
「ジュエ君、大丈夫か?」
「おいこらジュエ、てめぇしっかりしろ!」
あぁ、ほら。でっぷり紳士が近づいてくる。
「――太陽が」
ぼくが絶対に手に入れられないもの。
「ジュエ!」
聞きなれた声が聞こえた気がした。目を開くのも大儀になっていたぼくの目が、一気に網膜を焼かれるように麻痺を起こし、果てしない光の残像が映りこむ。本物の太陽の光は、容赦なくぼくの目を焼きながら相手の顔すら覆い隠していた。
「旦那様、遅うございますよ。私めのせいで何度ジュエ君に失神したことか。そんなにショックが大きい顔なのでしょうか」
落ち込んだようにそう呟いたのはでっぷり紳士だった。ソレを聞いて、旦那様と呼ばれた彼が笑う気配がした。
「まあ、気にするな。それよりジュエ、私からの手紙は読んでくれなかったようだね? ……受け取った人へ、と言ったはずなんだが」
「なんとも分かりにくいことですな」
ぼそりと呟いたでっぷり紳士を、彼がいつになく鋭い視線で見やる。それもすぐに霧散して、彼はぼくの大好きなあの笑顔を浮かべていた。
「ロシュアを怒らせるつもりで書いた手紙を君が届けなかったのは幸いだったな。お蔭で、私は君を呼ぶ口実が得ることが出来たのだから。しかし、それも今日で終わりだ。……ロシュア」
「はいはい。あなたが突然走り出したから折角のロシュアの花がぼろぼろだわ。腐れ縁だから今まで黙っておいてあげたけど、いい加減ケリつけて頂戴。私のかわいいジュエを苛めたらどうなるか分かっているわね?」
淡い色の花束がロシュアから彼へと手渡される。呆れたように彼へとそう告げた彼女に、彼は微苦笑をして肩を竦めてからそれを受け取った。
目の前で見せつけられるのだろうか。頭が痛くて、ロシュアや彼の言葉がうまく耳に入ってこない。
違う。自分の心が、拒絶しているのだ。
「あの……」
せめて、さっきの小さな花を。彼が抱えている大きな大きな想いになど決して敵わない。けれど、最後にせめて。卑怯なぼくでも、この気持ちを伝えることは許されのだろうか。
「ジュエ?」
なのに、指先が酷く重くて。
届かない。
彼の声と、ロシュアの声と。
団長の声が――ゆっくりと、遠ざかっていった。
***
頭が痛い。ズキズキとするのを無理やりまぶたをこじ開けると、最初誰が傍にいるのか分からなかった。
「気がついたか? 流行り風邪だと医者が言っていた。しばらくは寝台から出るのも禁止だそうだ」
流行り風邪、とぼくの唇が無意識に繰り返す。確かにこの街ではそんな風邪が流行しているのは聞いていた気がする。貴族たちは病気にかからないように特殊な薬を飲むというけれど、ぼく達庶民にとってはその薬一つがぼく達に与えられる3か月分のお金に匹敵していた。
……それよりも、どうして彼がここにいるのだろう。
「少なくともその風邪が抜けるまで一週間は安静にしろと言っていた。転んだ時に足も挫いているだろう?」
いつも周りに誰かいる時とは違う、ほんの少しだけぶっきらぼうな口調。どうして、ぼくが足をくじいたことまで知っているのだろう。仲間たちの誰一人、気づかなかったのに。
「あの、どうしてオウル侯爵が」
ここに、と聞こうとした途端にムッとしたように彼が眉根を寄せる。何か彼が気に食わないことを言ってしまったのかと焦っていると、彼はわざとらしくがっかりと項垂れてみせた。
「手紙を読んでもらえないばかりか、こんなにストレートに勝負しているのに気持ちにも気づいてもらえないのか、私は。ジュエ、私が自分に興味のない人間の面倒など自分の手でするように見えるか?」
僅かな距離しかない。彼の表情が驚くほどよく見える。
彼の口もとには、いつもと同じ笑顔ではなく策が成功したとでも言わんばかりの笑みが浮かんでいる。それに、彼はぼくのことをいつも君づけで呼んでいたから少し驚きながらも、突然縮まったそのもう一つの距離感に心のどこかが喜んでしまっていた。浮かびはじめた期待をひたすら遠ざけようとして、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだ。
――あの花たちは?
――彼の手書きのサインが流麗に書かれた封筒の宛名は?
彼が存在するすべてのものを誰にも渡したくない卑怯なぼくが、彼の隣に在れるわけがないのに。
「手の中にあるその花は誰に渡そうとしていたんだ、ジュエ?」
綺麗な顔に浮かぶ不敵な笑み。柔らかな声はしかし、ぼくを逃さないようにじわじわと首を締め付けてくる。
「……それは」
ちりり、と指が『タイヨウ』に触れた感触を思い出して痛む。今はそれよりも顔が、全身が熱くて仕方ないんだ。
「一緒に『外』へ行こう、ジュエ。私のところに来てほしい」
彼の名前を呼んだのと同時に包まれた暖かな感触に、ぼくはあの時触れたほんものの太陽の光をぼんやりと思い出して――。
ぼくはうっかりと、笑ってしまったのだった。
Fin.




