第64話
「研究記録?」
ヒースの研究は……
「この研究は、完成しません」
そう言い切ったヒースの顔を見た。
ヒースの表情が読み取れなかった。
感情の読み取れない顔をしていた。
「それは、お仕事が忙しくなっちゃったから?」
「仮に時間があっても完成はしません」
「絶対に無理だって、わかったの?」
「そういうことじゃないんですよ」
ヒースの研究している魔法は、世界を越えて移動する魔法。
それが完成したなら、わたしは戻れるかもしれないと思っていた。
戻ることはできないと、そう言うのだろうか。
「転移の魔法は、それ一つだけでは使えないのです」
「一つでは使えないって……どういうこと?」
「空間を歪めて移動するには、自分のいない場所を『視る』魔法を使えることが必要になります。跳んでいく先を視て、次に現れる場所を固定するのです。そうでない場合は、行き先を指定する媒介になるものが必要になります。たとえば君にしかけておいた転移は、君を媒介に私が跳ぶか、私を媒介に君が跳ぶという指定をしたものでした。先を視ないで跳ぶことは本来大変乱暴な行いだけれど、私の魔力を使って君が発動させるという、必ず二点の空間が繋がって発動すると確定しているから、実用に堪えられます」
視るか、目的地を別のもので指定するか、なのか。
「……この研究は『跳ぶ』だけでよければ、理論上の術式はできあがっています」
そう言われた時、不思議とあまり驚かなかった。
そう言われるような気が、していた。
これは昨日、試すことができると言っていた、それだ。
「私は最初、とにかく来たものを送り返すことしか考えていなかったから、世界に穴を開け、かつての女神の遺物を媒介にあるべき世界に戻す……というやり方で魔法の成立を求めました。だから、転移の魔法が先にできて、異世界をちゃんと視る魔法が存在しないのです。それを作らなければ、本当は安全に跳ぶことも跳ばすこともできないし、何かを媒介に跳ばしても、無事に着いたかどうか確認することもできない」
だからまだ危険が伴う魔法なのだと、そうヒースは言った。
「だから完成したとは言えません。そして、私は『異世界を視る魔法』を作りませんでした。それがなくては不完全になると、そうわかっていても、私は送還の魔法の完成を優先させました。……意地も焦りもあったけれど、本当は、怖かった」
作らない、というのは、作れないのとは違う。
「この先においても作らないと決めた……その、翌日でした。泉のほとりで君を見つけたのは」
わたしを見つけてからではなかったんだ。
なら、完成させないと決めた理由は、別にある。
「……跳ばす転移の魔法を引き寄せる形に組み替えるのは容易なことなんです。つまり、視ることさえできれば、向こうの世界の人間を掴み、この世界に引き寄せることができます」
この世界に落ちてくる異世界人は、運が悪い。
でも、そこに人の意思は関わっていなかったはずだった。
ヒースの魔法は、それも可能にしてしまうのか。
「この世界の者たちは、女神を呼び寄せることが可能になったなら呼ぶでしょう。たくさんの民が、それを望むでしょう。でも、女神は、この世界で幸せになれる?」
わたしはそれに答えることができない。
ヒースが、代わりにすべてを言った。
「なれるはずがありません。家族や恋人や友人と引き離され、この世界に呼ばれ……外に出ることもできず、女性だけの世界に住まなくてはならないのです。普通の女性なら想い合う相手と出会えるかもしれないのに、話をすることもままならないなら、そんな相手にも巡り会えません。……それで、望まぬ男の相手をさせられるのかもしれないのです」
……ヒースは、異世界から来た女の帰りたいという願いを叶えたかっただけのはずだ。
その願いが不幸を招くということに、きっとずいぶん葛藤しただろう。
それが、視る魔法を作らなかった理由。
それを作らなければ、完成しないとわかっていても……作らなかった。
ヒースは、苦しそうに次の言葉を続けた。
「サリナを見つけた時、まさかと思った。まさか……私が世界に穴を開けようとしたために、その穴から落ちてきてしまったのかと。私は実際に空間を引き裂きこじ開けて、無機物を送り出しました。同じものを同じ場所から引き戻すこともしました。だから……あるいは私は無意識に、この魔法を逆にして試してしまったのではないかと」
それは、わたしを呼んだのがヒースだってことだ。
そうでなくても、落ちてきたのがヒースのせいかもしれないってこと。
ヒースに、そのつもりはなく……
でもずっと、ヒースはそう思っていたのかもしれない。
わたしを大切にしようとした理由。
わたしに言わなかった理由。
考えられることはあったけど、わたしはもう言うべきことをわかっていたから、考えるのをやめた。
わたしは、わたしに訊く。
――ヒースのことが好きよね?
答は、今日も変わらない。
うん、好き。
「それは違うと思う」
だからわたしはこれだけは言わなくちゃと、テーブルの上にあったヒースの手を握った。
「ヒースは無意識にだって、そんなことしないよ。わかってる、そんなこと思わないから、安心して」
「サリナ……」
「見ることができないんだから、選んで連れて来るのは無理でしょ?」
ヒースは「ああ」と息を吐くように言った。
「ヒースの開けた穴にたまたま落ちたって可能性はあるかもしれないけど……それは、どっちにしろ偶然よ。自然に落ちてきたのでも、空いた穴にはまったのでも、偶然は偶然だから。言ってなかったけど、わたし、向こうで、きっと死ぬところだったの」
ぎゅっと手を握る。
「事故でね、死なないまでも死にかけるような大怪我は免れないところだったの。だからこっちに来ちゃったのがヒースのせいだとしても、それならヒースが命の恩人ってことよ」
わたしは、最初から、すごく運が良かった。
きっとそういうことだ。
「でも」
ヒースに手が握り返される。
「私が君が帰れるかもしれない可能性を黙っていたのは事実だ」
帰れるかもしれない。
きっと、落ちてきて、すぐにそれを聞いたなら、たとえ危険でも望んだと思う。
「……帰れるの?」
わたしは昨日と同じに訊いた。
ヒースは、少し目を細める。
どこか苦しげに。
「君と、君の衣服を媒介に、結びつきの深い場所に送ります。どこに出るか事前にはわからないけれど、とんでもない場所には現れないはずです。ただ、この指定ではやっぱり絶対に安全な場所に跳べるとは言えません。そこまで指定が狂うというのはわずかな可能性だと思うけれど、まったくの異空間に行ってしまうことも考えられます」
見ないで送り出すことには、やっぱりリスクが伴うんだろう。
今、ヒースは正直に話していると思う。
可能性と危険について。
わたしは、リスクが怖いわけじゃなかった。
でもわたしが帰っちゃったら、ヒースはどうなるの?
わたしはもうだいぶ長い時間ここにいて、ヒースを好きになった。
そしてわたしは、ヒースにわたしが必要だって知っている。
立場の上でも、気持ちの上でも。
ちょっとヤンデレな人だから、わたしが望むならわたしを手放すと思うだけでも辛かっただろうと思うのに。
……今、本当にそういう顔をしているのに。
「……あのね、もし向こうの世界で現れた場所が人前だったら、大騒ぎになっちゃうよ」
置いて行けないよね。
「知ってるでしょ、わたしは慎重派なの。危ないかもしれない魔法じゃ、帰りたくないよ。ちゃんと安全じゃないと」
握り、握られる手の、指を絡めた。
「だから、魔法が完成しないんじゃ、しょうがないと思うの――」
……しょうがないよね?




