第61話
すっごく鈍臭いとは言わないけど、反射神経がすごくいいとも言わない。
そんなわたしにしてみると、扉を開けた騎士の顔が見えた瞬間に窓の外に飛び降りたのは、もう奇跡的に素早い行動だったと思う。
あの騎士の人たちはきっとわたしより素早いから、そうでなくては捕まっちゃったかもしれない。
とは言え、失敗もあった。
まずは、カーテンを握る場所がちょっと上すぎたこと。
足先が一階の窓の下のところまでしかいかなかった。
カーテンの長さが全然足りないわけじゃないから、握るカーテンを伝って下に降りれば、ほとんど地面までいけるだろうと思うけど。
もう一つの失敗は、壁に激突して体が痛かったこと。
そのまま手を離さなかったのは偉いと、自分を褒めたい。
「女神様!」
見上げれば、女騎士が窓から身を乗り出している。
窓の外を見るには重しにした机が邪魔になると思っていたけど……どうやら、わたしがさっきまでしていたように、その上に乗っかっているようだった。
おかげで錘は錘として安定して、カーテンで作ったロープもどきとテーブルごと落下の憂き目に遭わずにすんだらしい。
だけど、安心はできなかった。
「女神様! じっとなさっていてください!」
女騎士はカーテンを掴んで、引っ張り上げる。
「やめて!」
慌ててカーテンを伝って降りようとしたけど、手枷のせいで手は大きく動かない。
ちまちまとしか降りられない。
引っ張り上げられる方が早い。
「おまえたち女神様に近付くな!」
自分じゃない人に向けられた声に、ぎくりとした。
下を見れば、急に外壁にぶら下がった女に通りすがりの人がびっくりした顔で見てる。
おかしくなるような距離までは近付いてないけれど、中途半端なところにぶら下がっている女を助けようと、近付こうとした男がいたのかもしれない。
女神だとわかったなら、近付かないだろう……多分。
それはいいとして、やっぱり引っ張り上げられる方が、降りるスピードより早い。
「お願い、やめて」
位置が上に上がっていく。
「女神様……」
下からも聞こえる。
できるだけの早さで下がりながら、もう一度ちらっと下を見た。
取り囲んでる人たち顔の位置は下というほど、下じゃなかった。
わたしの足のあたりにある。
いや、それは悪いことじゃない。
でも、このまま上に引っ張り上げられたら……
「見ちゃだめ!」
下の人たちに向かって叫んだあと、上の女騎士に向かって続けて叫んだ。
「やめてやめて! 上に上げないで! お願い! 見えちゃう!」
女騎士の手が止まる。
女性だから、その意味はすぐ理解してくれたようだった。
「お、降りるので、引っ張らないで」
でも引き上げるのをやめてくれたからと言って、それでおしまいじゃない。
ずっとぶら下がっているわけにはいかない。
わたしの手に限界がくるから。
「しかし」
「近付かないでくれれば……」
下をもう一度窺った時、走って近付いてくる人が見えた。
上の女騎士の顔を見たら、ほっと安堵したようだった。
わたしは焦るしかない。
騎士の仲間がきてしまった。
「下の連中を追い払って!」
「下がれ! おまえたち」
カーテンを引っ張る女騎士が叫び、走ってきた騎士たちが増え始めていた野次馬を下がらせる。
「女神様は下に降りると仰っている」
野次馬を蹴散らしてから、外の路上をわたしの足のところまで戻ってきた女騎士の一人に、窓から顔を覗かせる女騎士が話しかける。
「受け止めてさしあげて……」
「それには及ばない」
別の声がして、不安で下を見ていたわたしも慌てて顔を上げた。
窓からもう一人身を乗りだし、カーテンを掴もうとしていた。
それは、騎士たちを従わせる人だ。
エドウィン王子。
騎士に見つかったのだから、いずれ来るのはわかっていた。
思ったより早かっただけだ。
「引き上げる。手伝いなさい」
女騎士もそれに慌てて従ったようで、二人の力が加わって一気にわたしの体は上に上がって思わず悲鳴を上げた。
「いやっ! やめて!」
そう言っても、どんどん上に上がる。
「『来ないで』……!」
近付いてるのはわたしの方だから、理屈には合わない。
でもとにかく逃げなくちゃと、そう言ったつもりだった。
だけど何も起こらなくて、愕然とした……!
魔法のキーワードが違うんだ。
キーワードは一つずつ違うんだ。
わたしを引き寄せようとする手から逃げられないということに、絶望して泣きそうになる。
いや、離れる方法はある。
手を離せばいい。
落ちるけど。
もうだいぶ引っ張り上げられて、怪我しないですみそうな高さじゃないけど。
落ちたらやっぱり下の騎士に捕まって、そんなのは時間稼ぎにしかならないだろうけど。
それでもそのまま捕まるのは、いやだった。
「助けて、ヒース……」
そんなこと言ったって、無理なのはわかってる。
でも手を離す前に言いたかった。
言いたかっただけだった。
エドウィン王子の手が届く前に、わたしは落ちることにした。
カーテンから手を離したら、一瞬のはずだった、けど……
「間に合った」
離した手はそのまま誰かに掴まれて、背中からお腹にも腕が巻き付いた。
「助けにきましたよ、サリナ」
誰か、なんて言ったって、一人しかいない。
「でも今度からはもう少し前に……手を離す前に、助けを求めてくれませんか。ちょっとひやっとしました」
わたしは落ちなかった。
「もっとも、ここに跳べる位置まで来れていたから言えることですが」
宙にも浮ける、空も飛べるんだね……ヒース……!
ふわっと地面に着地した。
重力どこへ行ったのって感じで、衝撃はなかった。
地面に着いたら跳ねたりすることもなく、足の裏は地面に吸いつくように安定した。
ヒースの腕の中にいるからか、周りは誰も動かない。
時が止まったかのように、物音一つしなかった。
「――既に後宮に入った女神に夫以外の男が触れることは禁じられています、兄上」
そんな禁止は初めて聞いたと思ったけど、女神に男が触れるくらい近付いてる時点でだめなんだった。
夫がいるなら、当たり前にまずい。
見上げると、まだエドウィン王子は黙って冷ややかに二階の窓から見下ろしていた。
その口角が少しだけ上がる。
「ルクに嵌められるようでは、まだまだだな」
「それはお互い様だと思います」
「私は嵌められてはいない。おまえが隙を見せたのが悪いよ」
「……話は後で。サリナを離宮に戻してきますので」
どこか緊張感のある会話が終わり、ヒースが視線を投げると、野次馬たちが慌てたように道を空けた。
そして騎士たちが更にそれを追いやる。
その中を、わたしはこんなにヒースとぴったりくっついてるとこ見られて大丈夫なのかなって思いながら、ヒースに抱かれるようにして歩いていった。
「すみませんでした、サリナ」
「ヒース」
正宮の裏を回って、後宮の建物らしいところの入口まで来て、ヒースが言った。
何を謝っているのかすぐにわからなくて、ヒースの顔を見上げる。
「怖かったですか……?」
そう訊かれて、わたしは怖かったんだと今更に思った。
「……うん」
「すみません。わたしが甘かったようです。今度から、もっと注意しますから」
怖かった、けど、ヒースを責めるつもりなんてない。
「ううん、ヒースが無事でよかった」
怖かったのは、ヒースが酷い目に遭わされているかもしれなかったから。
もちろん、自分がどうにかなっちゃうのだって怖かった。
でもそれはそうなったら、ヒースが悲しむから。
この世界に落ちてきた、ヒースと出会った最初から、女神の運命を悲しんでくれていたヒースだから……わたしは無事でいないといけなかった。
無事でいなければ、ヒースを傷つける。
「ごめんね、勝手に出てきて」
「……私こそ、閉じ込めることしかできなくて、すみません」
それは最初から言われてた。
最初に受け入れたことだった。
「サリナ」
そこでヒースが足を止めたから、わたしも立ち止まった。
「もしも、絶対に安全と保証はされないものでも、帰る方法があったなら、帰りたいですか……?」
帰る?
どこへ?
一瞬そんなことを思うくらい、それはわたしの中でありえないことになっていたみたいだった。
「君の世界へ、帰りたいですか?」
キミノセカイヘ。
「……帰れるの?」
帰れないはずの、元の世界へ。
「君が、望むのなら、試すことはできます」
わたしを見下ろすヒースの碧の瞳は、優しかった。
わたしが望むのなら……?
「サリナ様!」
その時、泣きそうな声が聞こえて、振り返った。
離宮の方から走ってくる、わたしを大事にしてくれる魔女たちの姿が見える。
――だから、わたしは、どちらとも、返事をしなかった。




