第47話
その日、わたしの救世主の帰還は、いつもより早かった。
晩餐の時刻よりはるかに早く、夕刻までだいぶ時間のある陽の高いうちに戻ってきた。
祈りが通じたんだろうか。
ヒースは、毎日離宮から正宮の執務室に出勤している。
離宮には人を入れられないからだ。
夜は離宮で過ごすから、すっかり毎日通勤するスタイルになっている。
「どうしました? ……綺麗ですね」
リビングのソファでぐったりしていたわたしに笑いかけ、帰ってきたヒースはわたしの隣に座った。
扉のところで、ヒルダがにこにこと見ている。
「……テレセおばさまが、またドレスをくださったの」
この世界では自分が本当に何も持ってないことは十分知っているから、生きるために必要な衣食住を与えてくれる人には心から感謝している。
ヒースは天使のように綺麗だけれど、本当のところ惹かれたのはその容姿ではなくて、縋った時に応えてくれた、優しいその腕にだ。
優しさには理由があったけれど、そこに打算がないことは二人きりの時間で明らかだった。
なにしろ、わたしはヒースの邪魔や害になることこそあれ、なんの役にも立たなかったんだから。
それと同じようにテレセおばさまがドレスや小物を仕立てて送ってくれることには、打算はない。
ヒースに王太子に戻ってほしい、そのためにわたしが必要……だとしても、わたしに貢ぐ意味はないからだ。
むしろ着飾らせて人目に晒すのは、攫われないように閉じ込めておきたいだろう意向と逆に向かう。
だから純粋に善意と、女性らしい好意だ。
娘と同じように飾り立てて可愛がりたいと思っている。
娘と同じ年頃に親と引き離されたと思っている女神に憐憫の情もあるかもしれない――年齢の勘違いをきちんと正すのを怠ったことが悔やまれる。
「お礼の手紙は、後で書くね」
読み書きの勉強も再開したけど、手紙一枚書くのにもまだ時間がかかる。
さらさらとはいかなかった。
「ああ、私も出しておきましょう」
髪を撫でると結い髪が崩れそうだからか、ヒースの指は頬を辿っている。
それがくすぐったくてむずむずする。
「ありがとう。……それでね、ヒースにも見てもらおうって、ヒルダとフランシスカが着せてくれたんだけど」
「そう。本当に可愛いし、綺麗ですよ……よく似合っています。テレセ夫人はセンスが良いですね」
綺麗にしてもらったのは、嬉しい。
嬉しいけど。
ヒルダをちらっと見て、頑張って苦しい体を起こしてヒースに顔を近づけて声を潜めた。
「うん……わたしも、テレセおばさま、すごいと思う。……でも、その……もう、脱いでも、いいかな……」
苦しさに負けた。
もう喋ってられない。
ヒースの服の裾を掴んで、許可を求める。
……このお嬢様仕様のドレスとコルセットというのは、一人じゃ脱ぎ着できないように作られていると思う。
だから脱ぐためにも誰かの助けが必要なのだけど、ヒルダはのらりくらり言い逃れて、脱がしてくれない……
ちなみにフランシスカは女官なので、離宮に常駐してない。
後宮、正宮、離宮の三つを食事や荷物、書類とかを運んで行ったり来たりしてる。
今は後宮の方に行ってて、離宮にいない。戻ってくるのは晩餐の時刻だ。
昼間はミルラとヒルダが交代でわたしのそばにいるんだけど、ミルラはわたしが思ってた以上にことなかれ主義だった。
ミルラと二人きりになった時には、一応脱がしてとお願いするけど、やっぱりこれもあんまり聞いてくれない。
ヒルダが文句を言うかららしい。
そうすると、もうヒースに頼むしかないわけよ。
ええ、わかってますとも!
夫になった人に、服脱がして、って頼む意味くらい。
……理由はわからないけど、これがヒルダの目的なのかも、ってちょっと思ってる。
ヒースは縋り付くわたしに、くすりと笑った。
笑いごとじゃないのに。
「いいですよ」
睨みつけたわたしに囁きながら、ヒースはわたしの頬にキスをした。
それと同時に、ふわっとした感覚が頭を揺らす。
それが治まると、わたしは寝室のベッドの上に座っていた。
「脱がして」
「はい」
ヒースの手が背中に回る。
わたしを前から抱き締めるようにして、ヒースは背中のボタンを外していく。
……一瞬で裸にもできるんだから、手を抜いていいのに。
いきなり服だけ転移させられてびっくりさせられることもあるというのに、こんな早く脱ぎたい時には手をかけるんだから。
むう、と不満が顔に出る。
苦しくて涙目になっているままで、ヒースを睨みつけた。
それでもヒースは微笑んでいる。
「そんな目で睨まれても困りますね」
目尻にキスしながら、ヒースが囁いた。
「だって」
ヒースがのんびり脱がしてるから。
「ねえ、ヒルダとフランシスカに、言ってくれない……? もうちょっと緩めてくれればいいだけなの」
「彼女たちも悪気はないんですよ。……見透かされてるようで、困りますが」
何が?
そう訊く前に、唇が触れ合った。
キスより前に、脱がしてほしいのに……
でも、軽く唇を食まれて、頭が痺れて文句が言葉にならない。
近すぎて、熱を感じる碧の瞳に吸い込まれそう。
「君が可愛いから、本当に困ります。私のために、君を可愛くすることに心血を注いでいるんだろうから、言いにくいんですよ。……苦しい?」
唇が少しだけ離れて、訊かれる。
それに、ただ頷く。
ヒースのためにわたしを着飾らせているってことは、わかってる、わたしも。
でも、そこをなんとか、言ってくれないかな。
「何時から……どのくらいの時間、着てるんです?」
「昼過ぎから……」
一刻くらいかな、とヒースは窓の方を見た。
陽の傾き具合を見てるんだろう。
ドレスを脱がすヒースの手が止まった。
……え。
コルセット残ってるよ。
ドレス緩めただけじゃ、まだ苦しいまんまなんだけど……!
「もう少し、我慢できますか?」
「む、むり!」
こんなところで、こんなことで焦らされるとか、ない!
え、焦らされてる……?
何、これ、どういうプレイ?
はっ、締め付けられて苦しいって、え、えすえむ……!?
ヒースがまさか違う世界の扉を開けてしまったのかと、血の気が引いた。
「無理? 長くは着ていられないでしょうか?」
「いや、あの、ミルラが締めてた時は、そんなでもなかったの、締めすぎなの……!」
「そうですか……」
言いながら、ヒースはやっとコルセットの紐を解いてくれた。
「は……」
やっと息ができた気がして、深く息を吸って吐く。
息が詰まって緊張してた体から力が抜けて、ヒースの服を掴んでしがみついた。
ヒースは背中に回してた腕をそのままで、わたしを支えてくれる。
「こんな君は、他の男にはとても見せられませんね。やっぱり緩めさせるしかなさそうです」
わたしもこれで人前に出るとか勘弁なので、もちろん緩めてもらうに一票です……
って、わたしが外に出る前提の話なの?
「わたし、どっか行くの?」
「遠くに行くわけではありません。行くとしても正宮の謁見の間になるでしょう」
でも、やっぱり人のいるところに行くのか。
その話にちょっとびっくりした。
そもそもこの世界に来て目覚めた、その日にもうヒース以外の人がいるところに行くことはないとわたしは覚悟していた。
それが自分を守る方法だから。
だから人前に出るということの方が、わたしにとってはイレギュラーだ。
すっかりヒキコモリライフになってしまった。
「何しに行くの?」
「……それは、後で説明します」
ぐっと肩を押されて、押し倒された。
甘く濡れた瞳が、わたしを見下ろす。
まだ昼間なのに。
でも、脱がしてもらっちゃったから、だめよとは言えないし言わないし……いやじゃないし。
昼間っからこういうコトしてるのが、ヒルダやミルラにはバレバレなのが恥ずかしいだけだ。
「今は……ね」
ヒースは甘く囁きながら、わたしをヒースの下でひっくり返した。
「ひゃっ!」
さらさらとヒースの髪がわたしの背中を撫でて、わたしは変な声を上げて跳ねた。
日々手入れをするようになったヒースの髪はさらさら度がアップして、こうやってわたしの上に乗っかられると毛先が肌のあちこちに触れて、とてつもなくくすぐったいことになる。
ううん、くすぐったいではすまない。
筆で撫でられるような、柔らかい刺激は――
「ヒース……」
「可愛い髪が、崩れてしまいますからね」
うつ伏せにしたのは、髪が崩れないようにか。
確かに髪飾りの花は、仰向けだと潰れてしまう。
「ああ、サリナ……可愛い」
ヒースの声は甘くて、嬉しそう。
ごめんね、可愛いよって、ヒースは何度も囁いてた……




