第45話
「寝椅子ですまないね。……よく戻った、ヒースクリフ」
この人がヒースのお父さんで、王様。
そこは宰相の執務室と居室を併せたような空間で、とても広かった。
窓はあるけれど大きくはなく、半分は執務室のようにきちんとした机と椅子、そして棚がある。
逆側に暖炉があり、その前にラグが敷いてあってそこに柔らかそうなクッションを敷いた布貼りのロッキングチェアが置いてある。
そのロッキングチェアに淡い金髪の壮年の痩せた男性が横たわるように座っていた。
扉の横に老境の男性と若い男の人が立っていたけれど、もう振り返らないとわからない。
「長のご無沙汰をいたしました」
ヒースが胸に手を当てて礼を取る。
多分ギルバートも後ろでそうしている。
宰相様は奥に入る形で少し離れ、やっぱり同じ礼をしていた。
わたしはどうしていいかわからなくて、深く頭を下げた。
廊下で端に寄った人たちはそうしていたから、それも一応貴人への礼にはなるだろう。
淑女の礼は違うのかもしれないけど、手枷つきにそこまで求めないことを期待する。
「話は聞いているよ」
「お許しなく、妻を娶りました」
「かまわない。おまえはもう市井の者と同じに生きていたのだしね。おまえの事情では、機会を逸しては望む花嫁を迎えられなかっただろう」
ヒースの事情を自然と斟酌してくれることに、少し驚きを感じた。
ヒースのお母さんが正妃だったけれど、愛はなかったと聞いていた。
でも、目の前の穏やかな王様はヒースをずいぶん大切にしているように見える。
ちらりとルク宰相を見た。
あの人もこのまま話を聞くのだろうか。
「おまえの妻は女神なのだと聞いたよ」
王様のところにも、届いているのか……それともエドウィン王子が言ったんだろうか。
「陛下のお耳にも届いておりましたか」
「おまえの妻になった娘がこの国の者でないことは、誰でも見ればわかる。そして近隣諸国にも、似た容姿の民族を持つ国はないね。そしておまえが『治った』のだから、そうでなくても勘繰る者はいるだろう。違うならば、違うでいい。真実でもいい。……まずは名前を教えてくれるかね」
王様はわたしの方を見て言った。
答えても、いいよね。
ちらりとヒースを見たけど、だめだって顔はしてなかった。
「サリナです。サリナ・ヒグチといいます」
「サリナ、か。やっぱり異国の響きだね」
あまりたくさんに名乗ってはいないけど、だいたいの人は一発で発音したと思っていたので、ここの人に発音しにくい音だとは思っていなかった。
だけど、やっぱり異国の音だと思うのか。
そう思っていたのが顔に出たのか、王様が微笑んだ。
微笑むとやっぱりヒースと似てる気がした。
親子だと思うくらいには。
「私には魔法の素養がなくてね、この国以外の発音に弱いんだよ。魔法を使う者は何種類もの言語を使うから、発音に敏感で細かい」
そうか、魔法の詠唱は違う言語なんだ。
だから前に、詠唱まで聞き取れることに驚いてたのか。
異世界に落とされたわたしに与えられた二つの力のうち、自動翻訳は本当になんでもかんでも訳すんだな。
「どちらの国からいらしたのかな」
「……日本から来ました」
「ニホン……聞かない地名だね。前にここにいたジェシカはイングランドの生まれだったんだが、イングランドは知っているかい」
ジェシカは、前にヒースの後宮にいた女神だ。
これに答えたら、女神だと認めることになるんだろう。
それで本当にいいのかと思うけど、でも嘘はいけないとも思う。
ヒースは口を塞いでこない。
だめなら、さっきみたいにするよね。
「知ってます」
「そう……大変だったね」
「ヒースが見つけて助けてくれたから、本当に何も、酷い目には遭ってないんです、わたし」
ヒースのこと呼び捨てでよかったのかな。
そういえば、本当はヒースクリフなんだっけ。
そもそも、殿下って呼ばないとだめだったかも。
そう思ったけど、でも、王様は咎めたりしなかった。
「そうか、それは本当によかった。君が辛い思いをしなかったのなら、なによりいいことだ。……君たちに関する決まりはね、すべて君たちのためにあるんだ」
王様が優しいということはわかったけど、何を言おうとしているのかはわからない。
「君たちが頼る者のない異国の地で、誰かに利用されることなく搾取されることなく生きていける手助けをするように、この国の代々の王は戴冠の際に誓うのだよ」
王様の言葉に、思わず目を見開いた。
女神を保護するというのは、利用しようというのではないのだと、本当に保護しようという意志なのだということに、いささかならず驚いた。
いくらでも利用できる力だと、自分でも思う。
実際に利用されてきた話も聞いた。
「たまにね、協力しようと言ってくれる人がいるから……そういう話も残るけれど、君たちの意志を無視して無理を強いてはならないと、王太子の時代から強く教えられる。私たちは、君たちを守ることを色々なものに優先しなくてはならない。それでも、どうしても、守り切れないことはあるけれど」
男の人が怖かったジェシカさんは、まだ幼かったはずのヒースの後宮に入ったんだった。
こんなに優しい王様でも、怖かったんだ。
後宮の外れに建っている、アルド離宮。
あれを再現するのは、本当に大変だったはずだ。
そう思って見れば、女神の願いを叶えるために、この国の王様たちは本当に努力していたとわかる。
「だから、君が願う通りにしよう」
王様は優しい微笑みで言う。
わたしの心と体を守れる、わたしが願う通りに。
「わたしは……」
わたしの願いは一つだ。
「ヒースとずっといっしょにいたいです」
正妃だとか愛妾だとかはどうでもいい。
いや、どうでもはよくないけど、いっしょにいるのが一番大切だから。
他の人のところには行きたくない。
「そう。君の希望は聞き届けよう。私が迎えた、二人目の女神よ」
王様はそう約束して、それからヒースを見た。
「……私が王宮を去った理由はなくなりました」
「そのようだ。たった三年前のことだというのに、ずいぶん経ってしまったような気がするね。あの時、もう、我身がこれほどは保たぬと思っておったのでね――認めざるを得なかった。即位してしまえば引き返せない」
王様は、ヒースが身を退くことに心から賛成ではなかったんだろうか。
「私は、選び間違えてしまいました」
「そう言ってはいけないよ。あの時こうすることを選ばなかったら、おまえはおまえの女神を助けられなかった」
もしもヒースが王太子のままで、王宮にいたら。
そうだ、わたしは森の中で誰にも見つけられずに死んでいたんだ。
「たくさん死んでしまったのは事実だ……あの子たちには悪いことをした。でもそれはおまえの罪ではない。私の罪だ。私が守ってやらなくてはならなかったのに、結局一人も助けられなかった」
死んでいった子どもたちは、みんな、王様の子だ……
優しい王様だから、辛かっただろう。
自分の子どもたちが殺されていくのは。
しかも殺すのも我が子だ。
「凡君の父を持って、可哀想なことをした」
「陛下」
「せめて……これ以上は散らすまいよ」
「過去を変えることはできませんが、終わりにいたしましょう」
そうだね、と、静かなヒースの言葉に王様は溜息のように返した。




