第39話
ヒースはわたしを見下ろして、じっと見つめていた。
そこからは表情が消えて、底の見えない湖水の色をした瞳がわたしを映している。
そしてふっと突然微笑んで、なぜかわたしの両脇に腕を差し入れて抱き上げた。
「え」
そのまま、テーブルに乗せられる。
「ヒース?」
訊いたことが、なんでこんな行動に繋がるのかわからない。
視線の位置が上がって、それほどヒースを見上げなくてもよくなった。
怖いくらいの微笑みが覗き込んでくる。
「サリナは、それに私がなんて答えると思いました?」
「え、えっと……」
「それを渡して、終わりにしようと言うと思いましたか?」
……ヒースは、それが何か、わかってる……?
「サリナ」
ヒースはわたしの耳元に唇を寄せて、恐ろしく甘く囁いた。
「兄が何を言っていたか、私がすべて聞き流したと思っているんですか?」
両脇から背中に回った指が背骨を辿るように撫でて、ぞくりとした。じわりとその指先から熱が生まれる。
そのまま後ろに押し倒された。
「ヒースっ」
今の状況と、答えなきゃいけないもので混乱する。
「聞こえてたの……?」
まず訊かなくちゃ。
あのエドウィン王子との会話は、聞こえていたのか。
エドウィン王子の声も聞こえていたのか。
発動したのがどういう魔法だったのか、そもそも知らない。
「遠話で聞こえていたのは、君が口にしたことと、明確に強く思念になったものまでです。多分声にしなかったもので届いたのは、君の狼狽と怯えだけだと思う」
だけどそれで十分だったと、ヒースの唇が囁く。
「でも、狼狽えて、怯えるそれが、誰に向かっているかはわかりました」
エドウィン王子に向かって思ってた感情までは伝わってたってこと……?
そ、それなら、わたしがどういう危機感を感じてたかはわかってるってこと?
「私がどれだけ焦って戻ったかわかりますか? 直接跳べないのが、気が狂いそうになるほどもどかしかった」
戻ってくるのは早かった、確かに。
「会話が聞こえてなくても、何を言われて狼狽えて、怯えているかくらいは見当がつきました。サリナはそういうのを器用にあしらえるほど手慣れてないのはわかっていましたし」
いや、あんな重いのを器用にあしらえる人はそう多くは……
「あの、それは」
「誤魔化さなくていいですよ。なにより私にもはっきり言ったでしょう? 花嫁……とね。私を前にして、君を花嫁と言うなんて」
怖いくらい低い声が響く。
ぞくりと肌が粟立つ。
「そんなことは許しません……何を言うつもりでしたか? 私にどうしろと言うつもりでした?」
怖くて、心臓の音が頭に響く。
「私に君を手放せと、あの男のものになると言うつもりでしたか?」
「だ……だって……」
「そうしたかったんですか?」
違う。
それは絶対違う。
それでも……
「あの男の方がいいと言うんですか?」
ヒースの声が苦しげに聞こえて、思わずヒースの顔を見つめた。
自業自得だけど泣きそうになる。
「違う、違うの」
そんな誤解はいやだ。
「ヒースが負けちゃったらどうなるの」
誰も死んでほしくないなんて言えるのは、大切な人が無事だったらだ。
ヒースの弟妹たちがみんな死んでしまったのに、ヒースだけ無事だろうなんて思えるはずがない。
これは勝ち負けのあることで、命がかかってる。
「ヒースが死んじゃったらやだ……」
だからって言っても、ひどいことを言おうとしてたのはわかってる。
わたしだって辛い。
でも恐れが口から出て形になってしまったら、もう涙が止まらなかった。
自分がどうなったって、それだけはいやだと思っちゃったんだもの。
「ヒースが死んじゃうよりいいかと思ったの……ヒースが生きててくれるなら、我慢できるかもって」
わたしをぎゅっと抱き締めるヒースの溜息が首に触れる。
夢中でヒースを抱き締め返した。
「もうそんなことは考えないでください」
「死んじゃ、やだ」
「君を置いて逝くなんて、そんな恐ろしいことはしたくないです。私も」
それは恐ろしいことだろうか。
わたしには怖いことかもしれないけど。
「私を置いてどこかに行くとか、他の男のものになるなんて二度と言わないでください」
「ヒース」
「それは狂人をこの世にもう一人増やすだけだから」
邪魔するかもしれないと思う者のすべてを殺して女神を待っていた人の姿が脳裏に過ぎって、ヒースと重なった。
「……どこにも行かないから、死なないで」
どんなに非道くても、どんなに我が儘でも、そう思うことは止められなかった。
ヒースからは肯定も否定もなくて、ただ慰めるようにたくさんのキスが降ってきた。
涙を舐め取って、頬を拭って、嗚咽を封じ込めて。
……でも約束はしてくれなかった。
「あの」
ミルラが扉から半分顔を出して、「お水」と言った。
もうすっかり涙も乾いて、上着を借りる代わりにショールをヒースに貸す交換の交渉が成立したところだった。
「おかえり」
ヒースはにっこり微笑んでミルラから桶を受け取っているけど、考えてみればミルラの帰りは遅すぎた。
これは気を遣わせたと思って間違いない、よね。
ヒースが部屋の隅のかまどへお湯を沸かしにいくのを見送って、椅子に座ったミルラに声を潜めた。
「ごめんなさい」
「大丈夫です。扉が開かなくなってたんで、踏み込まずにすみました」
なんと、いつの間にだかヒースは扉を開かなくしてたのか。
外は寒かったのではと、なお焦る。
「ご、ごめん」
「現場に踏み込むよりずっとマシです。気にしないでください」
「あ、いや、そんな見られちゃまずいようなことは」
してない。
と思う。
「大丈夫です、いいことですから」
いいこと……ヒースに嫁ができたことは、そこまでいいことなのか。
ミルラでさえ、そう言うんだ。
この辺の感覚も、合わないところなんだろうなと思う。
「いいことなんだ」
「いいことですよ、しかも未来の王に協力的な無傷の女神様ですから。向こう三十年この国安泰ですもん」
協力的な、無傷の、女神。
多くの女神がそうじゃないから、そういう表現になるんだろう。
ミルラの視線はかまどのところにいるヒースを追いかけている。
「本当は女神様であると知らせてしまった方がいいと思ってたんです。殿下のお相手が唯一無二なら、なおのことですよね。でも一時でもサリナ様を王太子殿下に渡しちゃったら、誰を巻き込んでもヒースクリフ殿下を始末しにきましたよね……サリナ様がそばにいればそんな手段は使えないし、殿下がサリナ様を守ってれば攫いにくいし、やっぱりこれで正解だったんです」
ミルラもエドウィン王子の執着を目の当たりにしたからか、悩ましく息を吐いている。
「わたし、人前に出ることになってもヒースから離れない方がいいかな」
「かもですね」
「なんの話をしてるんですか」
本物の王子様にお茶を淹れさせて女二人のんびり待ってるとか、またひどい。
でもミルラはさっきまで閉め出し食らってた身だし、わたしは不自由な手枷付きなので、許してほしい。
テーブルにお茶の入った杯を置くヒースを見上げて、結論だけを言う。
「もうヒースと離れない方がいいかなって。ヒースが行くところに、ついて行った方がいいかもって」
「ああ、そうですね。離れている間の心配をするよりずっといい」
「うん」
ミルラがその間に、お菓子を広げていた。
「食べたら、戻ってみましょう。中に直接跳ぶんじゃなく、外に出て、誰も待ち伏せていないようなら中に入りましょう。寝る場所は必要です。できるだけ人が近くにいない場所で」
わたしの影響を受けておかしくなる人が出ないように、襲撃された時に他人を巻き込まないように。




