第37話
「よくついて来ましたね、ミルラ」
ヒースは、ちょっと目を見開いて言った。
わたしの腰にタックルするような形でまだ抱きついていたミルラは、涙目でそれを見上げている。
咄嗟に鞄も掴んできたのか、ミルラがずっと持っていた革鞄がわたしの足の前にあった。
「殿下のやりそうなことくらい、わかります。兵団長時代にどれだけ振り回されたと思ってるんですか」
ミルラも若いと思っていたのだけれど、ヒースが戦争に行ってた頃の知り合いだったのか。
どうやら、この世界の人は全体的に見た目が若く見える。
なのに彼らからも自分は若く見える。
年齢の判断基準が違うらしい……?
どうも正確に年齢を当てることは難しいと、ここ数日出会った人々で察していたが、ミルラはいくつなんだろう。
ヒースが王宮を去る前だから、三年以上前にはミルラも兵団という戦う組織に所属していたということだ。
「ヒースがやりそうなことって?」
「あたしがぼーっとしてたら、殿下は置いてくつもりだったんですよ!」
「え」
それは酷い。
あの場所に一人置き去りなんて、超危険だ。
「いつもそうなんです、自分はどこへでも行けるから」
ヒースの顔を見ると、ミルラに微妙な笑みを向けている。
「本当に見捨てたことはなかったでしょう。ちゃんと迎えに行きましたよ」
「本当にぎりぎりだったことは何回かありました……」
したこと自体は否定しないようだから、事実なのだろうと思う。
具体的な状況はわからないけれど、見捨てられたのかもと思うだけで絶望し悲しい気持ちになるものだ。
それを責める気持ちでヒースを見たら、困った顔をしていた。
「本当にちゃんと迎えに行ったんですよ」
ヒースが言い訳らしいものをする一方で、ミルラは勝ち誇った顔をしていた。
「今度からはせめて一言残してってくださいよ。殿下は説明を端折りすぎるんです。お考えがあるのはわかりますけど、サリナ様にも嫌われますよ」
「わかりました」
反省したと、ヒースは頷く。
ヒースは説明を端折ると言われると、色々心当たりがある。
特にくだんの未完了詠唱については、今も説明の必要なことだ。
口にしないようにして挙動不審になりそうだから欠けた詠唱部分を教えないにしても、なんの魔法が仕掛けられているのかぐらいは教えてもらってもいいはずだと、いまさらだけど思う。
後でそれは聞いてみようと思った。
でも、後でだ。
今は先に聞くことがある。
「ねえ、ヒース」
「なんだい、サリナ」
何か聞きたいことが、と、話の流れから少し不安げにヒースは聞き返してきた。
「ここ、どこ? 森なの?」
帰ってきちゃったの?
と辺りを見回す。
「ゼーネンの森ではないですよ」
「そうなの?」
森の雰囲気は同じだと思った。
でも森の区別がつくかと言われると、自信はない。
「ここは後宮の東側にある森です。さっきは着いたばかりで説明も案内もできませんでしたが、アルド離宮の窓からも見えています。後宮の庭園を突っ切れば移動できる場所で、建物がないから途中に障壁もないんですよ」
離宮から一気に移動して身を隠せる場所として、ここを転移先に選んだということだった。
「元々はゼーネンの森の一部だったから、雰囲気が似ているんでしょうね。王都の一部はゼーネンの森を切り拓いて作られました。その際に一部を後宮の側に残したんです」
住んでいた森は、昔は今よりも広い森だったということだ。
「さて、ひとまず小屋にでも行きましょうか」
「小屋?」
「管理のための小屋があるんです。人が常にいるわけではないから、昔はよくそこに逃げ込んでいました」
予想に反して誰かいたらまずいからと、ヒースはその手前に降り立ったらしい。
そこに逃げ込んでいたのは幼い頃、少年の頃の話だろうか。
少なくとも王宮を出る前のこと。
「サリナ、おいで」
ヒースに手を引かれて、歩き始める。
「ああ……寒いですか?」
数歩歩き始めてから、ヒースは上着を脱いで肩に掛けてきた。
重みのある上着は暖かい。
「ショールがあるし、大丈夫よ。脱いじゃったら、ヒースが寒いでしょ」
シャツの上にまだベストを着ていると言っても、薄着にはなる。
わたしの袖なしはどうしようもなかったから出かける時にショールを羽織らせてくれて、それはまだそのままだ。
「大丈夫です。行きましょう」
「そうですよ。殿下は見た目より頑丈なんで、気にしなくていいと思います」
ミルラも割と酷い言い種だ。
そういえば、ミルラとヒースが二人で話しているところは今まであまりなかった。
誰かがいっしょなことが多かったから、二人がこんなに気安い仲だとは知らなかった。
お互い扱いが微妙に酷いが、仲は良さそうだ。
……ちょっともやっとする何かが胸に湧く。
昔のわたしの知らないヒースを知っている人なんてたくさんいる、と思っても、もやっとしたものはなくならなかった。
今はいない人のことを考えた時よりも、今いる人は生々しいなと思う。
そんなことを考えているうちに、本当にほどなく森の小屋は目の前に現れた。
小屋には鍵はかかっていなくて、木の扉を開けて中に入る。
小さく素朴な小屋は、魔法使いの塔より少しばかり質素な造りだった。
「ミルラ、鞄には何が入ってますか?」
中には、塔にあった食卓くらいのテーブルと、背もたれのない椅子がいくつかあった。
あとは暖炉というには簡素な、かまどのようなもの。
そして扉のある棚が一つ。
ヒースはテーブルの上に置き去られていたボロ布を手に取って、テーブルの上を拭いた。
それから三つ、椅子の上の埃を拭いた。
「あ、ごめん、やらせちゃって」
王子様なのに。
いまさらだけど、王子様だった、と働くヒースを見て思った。
塔では食事の支度は全部ヒースの仕事だったし、掃除と洗濯はわたしがかなり頑張っても半々だった。
王子様にしては働き者すぎる。
「その格好じゃ無理ですよ、気にしないで。ここに座ってください、サリナ」
ああ……ドレスはともかく、手枷が邪魔か……
わたしは立っていても邪魔になりそうで、おとなしく座った。
ミルラは鞄の中身をテーブルに広げている。
「バルフの奥様が晩餐を食べ損ねちゃったらってお菓子とお茶葉を持たせてくれたので、それと、ギルバート閣下から譲ってもらったバルフ家の術具がいくつかです。禁止の陣の入った杯は離宮に置いてきちゃいましたが」
「そうですか。食べ物があるのはありがたい。ミルラ、暗くなる前に水を汲んできてくれませんか。小屋の真裏から少し行くと井戸があります。水は感知できるでしょう?」
「はーい」
かまどの横にあった桶を手に取って、ミルラが外に出て行く。
ヒースは棚からやかんかポットと思しきものと、木杯を出してきてテーブルに置いた。
うわ、完全にアウェーだとは言え、本気でわたしだけ役に立たない。
「ミルラが帰ってきたら、茶を淹れましょう。離宮に戻るにしても、兄がいるうちは戻れませんから」
「戻るの?」
やっぱり戻らなきゃいけない。
ヒースは逃げるわけにはいかないんだ。
それはわかってた。
だからヒースが戻ってきちゃまずいんじゃないかとか、戻ってきたって逃げられないからどうするんだろうって思ってたんだし。
一時的に逃げたのは、私のためだよね。
「君を巻き込むのは本意ではないけれど、今度こそ逃げないで決着をつけないと終わらない」
決着……
そうか、これも、森の中のあの時と同じ、諦めたら終わりの争いなんだ。
そしてどちらも諦めないと言うのなら。




