第35話
扉が開いて、その人が食堂に入ってきた瞬間、ミルラが「ひっ」と息を飲むように喉を鳴らした気配を感じた。
それでも、ミルラは知ってる人なんだ、ミルラが怯えているからきっと怖い人なんだろうな、というくらいしかわからない。
もちろん、わたしは知らない人だ。
ミルラは明らかに怯えて見えたけれど、その人の見た目は恐ろしいものではなかった。
むしろ、美しいと言うべきだった。
性別不明の天使のような美しさのヒースとはまた違った方向で魅力的な、女性にモテるだろうなぁって思える凛々しい容姿の人だった。
背は高く、骨格に見合った筋肉がついている。
男らしいけれど男臭くはない。
涼しげな切れ長の目は、透明度の高い湖水の色をしていた。
白金の髪はさらさらで、きりりと整った顔立ちにかかっていて……
誰かに似ている気がした。
そっくりと言えるような人は知らない。
この世界に落ちてきてから、たくさんの人に会ったわけではなく、たくさんの人を知っているわけじゃない。
ギルバートに似ている?
確かに男らしい身体付きとか、目元とかは似ているかもしれない。
いや、もっと似てるのはヒースだ、と、ここでやっと気が付いた。
目鼻の一つ一つはギルバートより似ていないのに、すべてを合わせた時の雰囲気はよく似ていた。
色合いに関しては、ヒースの色を淡くしたものだ。
ヒースより確実に年上に見えるその人が、ギルバートとヒースに似ている。
その事実に、わたしも息を飲んだ。
ヒースに、生きている兄弟は一人しかいない。
従兄はギルバートだけだ。
まさかと思ったけれど、そうだとしたらミルラが怯えることにも納得できた。
「お迎えにきました」
わたしとミルラの方に彼はゆっくり歩み寄りながら、微笑んでそう言った。
彼の後ろ、開け放したままの食堂の扉の向こうに食堂には入らないで佇んでいる人が見えた。
それは女性だった。
そして騎士の服装をしていると思った。
彼は、知っている。
そうヒースも言っていた。
だから……女騎士を連れてきたんだ、男性の騎士じゃなくて。
彼の歩みが不自然に止まった。
そして、微かに一瞬だけ顔を顰めた。
そこが壁なんだと思う。
「魔法使い、障壁を解け」
静かな、けれど逆らえない圧力を持つ声でミルラに命じる。
ミルラは顔を強張らせている。
そしてゆっくりと横に首を振った。
正直、もしわたしがミルラの立場だったらそうできるとは思えなかったから、ミルラの意志力に尊敬の念さえ持った。
わたしにとっては人生かかっているから、抵抗できる限り抵抗する。
でもミルラの立場だったら、どっちにしろ怖いと思う人を敵に回すんだ。
ならどっちに折れても同じだと思わないでいられるのが、すごいと思う。
……そのくらい、怯えて見える。
「私に逆らうか」
ミルラは固められたかのように身動きせず、返事をしない。
ちらっと窺えば、座ったままのミルラの額に脂汗が浮いているのが見えた気がした。
ずいぶん長い沈黙の後に、ミルラが決定的な言葉を口にした。
「エドウィン殿下……」
その声は本当にどうにか絞り出したという風情で、かすれていた。
「ヒースクリフ殿下と、ギルバート・バルフ閣下からの、ご命令ですので」
「私の命よりも、弟と従弟の言いつけを守ると?」
……ミルラに、親しい人や家族はいないんだろうか。
わたしが、この人の手に渡ってはいけないのは、ヒースにとってわたしが弱点になるからなんだと思っていた。
わたしとしては他の人の愛人になるなんて嫌だからだけど、ギルバートやヒースがわたしを隠し、エドウィン王子に渡さないように考えたのはその理由なんだと思っていた。
なら、ミルラに家族がいるなら、その人たちを盾に取られたりしないだろうか。
そんな不安に駆られた時だった。
エドウィン王子は、さらりと衝撃の発言を響かせた。
「私は、私の花嫁を迎えに来たのだ。この障壁を解き、私の女神を渡しなさい」
……今、花嫁って言った?
人質兼愛人を直々に迎えに来るなんてと思っていたから、ずいぶんとロマンチックな物言いに思考が一瞬止まった気がした。
そんなわたしの戸惑いを察したのか、彼はわたしに視線を向けた。
「私の女神よ。必ず、その囚われの身を自由にして差し上げます。しばし、お待ちください」
思わず、手枷を見た。
囚われの身ってわけではないけれど、見た目だけはその台詞もしっくりくる。
「貴女は、私のもの。私の花嫁だ。この国では女神は王か、王太子のもの。そう決まっているのです。だから――私は貴女が来るまでの間、貴女を迎えられる立場を得るために、そしてそれを守るために、万難を排して参りました。そうして貴女を待ち続けてきました」
それは、どういう意味だろう。
「やっといらしてくれた。今はもう、王は貴女を守れない。貴女を守るのは王太子である私です。欲に堕ちた神殿のように貴女を利用などもいたしません。……貴女は私が、大切に大切にすべてのものから守ってさしあげますから――」
滔々と語るエドウィン王子に、なんだか呆然としてしまう。
これは正気なのか。
「弟は自分の立場を弁えず、私のところに来るべきだった貴女を掠め取った――許しがたいことですが、安心してください。過去にも未来にも、誰が貴女を汚したとしても許します。それは、女神であれば仕方のないこと……貴女さえ私のところに来てくだされば、すべてを許しましょう」
そんなことを許されても。
ガクガクと、膝が笑っていた。
「魔法使い、私の花嫁を渡しなさい。さあ――いらっしゃい」
手を差し伸べられても行けるわけがない、それは変わらない。
だけど愕然としてしまっていた。
多分ミルラも。
彼は、エドウィン王子はなんて言った。
私を迎える立場を得るために?
それを守るために?
万難を排して――と。
それは。




