第26話
「ああ、いけない、もう侍女たちが戻ってきてしまうわ」
テレセおばさまは、扉の方を窺った。
「あのね、わたくしだけがサリナ様といるのもおかしいから、一応信頼できる侍女を三人ばかり選んで、お着替えのドレスを用意させているのだけど。でも、ギルバートの言う通り、触れるところまではサリナ様に近付かせないようにしているの。だけどあまり追いだしてばかりもいられないし、今のうちにお体を清めたいのだけど、わたくしでよろしいかしら」
「えっ」
驚いて、声を上げてしまった。
確か、ギルバートの家は公爵だって言った。
公爵ってすごく偉い人のはずだ。テレセおばさまは公爵夫人で、そんな人にお風呂の面倒をみるなんて使用人みたいなことさせていいのか。
いやいけないだろう。
「わたくし、女神様のお世話をさせていただいたのもだいぶ昔なので、粗相があるかもしれないわ」
「いいいえ、そんな、自分でできますから」
石鹸をもらえれば。
石鹸はあるはずだ、塔にもあったくらいだから。
「まあ、女神様にご自分でお清めをさせるなんて」
「いえ、この国に来るまで、自分でしてましたから」
「そうなの?」
すごく意外そうに聞かれたので、前にいた女神様はどこのお嬢様だったんだと一瞬思ったが、そこでやっぱり思い出した。
長生きできなかった前の女神は、保護された時には壊れていたのかもしれない。
わたしは、少なくともここに至るまで最高に幸運な女なのだということを思い出したのだ。
昔、後宮にいた、わたしと同じ異世界からきた女性。
そういえば、と思い出した。
いろいろヒースに聞いていた時、ヒースが王子様だとは思わなかったから、神殿にいたんだろうと思っていたけど後宮だったんだ。
その人に、ヒースは恋してたと思っていたんだった……
昔といったけど、どのくらい前だったんだろう。
唐突だとは思ったけど、我慢できなくて訊いてしまった。
「その、ジェシカ? 様って、国王陛下の後宮にいたんですか?」
「いえ、ジェシカ様は陛下の後宮には入られなくて、ヒースクリフ殿下の後宮にいらっしゃったわ」
……一瞬顔が強張ったのはバレちゃったと思うので、すごく気まずい。
昔のことをどうこう言うのは、大人げない。
でも、後宮って、奥さんのいるところなんだよね。
ヒースが後宮を持っていたという事実自体に、打ちのめされてしまう。
「サリナ様、サリナ様がお気になさるようなことではないのよ。あの時もう王太子ではあられても、まだヒースクリフ殿下はお小さかったから。ジェシカ様は大人の男が近付くととても怖がられたので、陛下のおそばにもいられなかったの。ヒースクリフ殿下の後宮に入られるしかなかったのよ」
……そうか。
そうだ。
彼女は心が壊れていたんだから。
でもきっと、話くらいはできたんだ。
ヒースの後宮にいたその人が、きっとヒースが生まれた国に帰してあげたいと思った人だ。
そのための魔法の研究を始めたきっかけになった人。
だけど……もういない人。
「えっと、はい、大丈夫です。……石鹸、いただけますか」
両手を差し出してみる。
両手なのは、手枷のせいで両手をすごく離すことはできないからだ。
……制限されてわかるようになったが、手枷のついた状態というのは不便だ。
わたしの手に、小さめの良い匂いの石鹸が乗せられた。
「では、髪はわたくしが洗ってさしあげますわ。その手枷があっては、髪を洗うのは大変でしょう?」
……そうですね。
「あたしも手伝います。なんか、このまま侍女としてサリナ様と殿下といっしょに後宮に行けって言われちゃいまして……」
ミルラが半泣きの顔で言った。
多分事情を知る、性別が女だってことで、そんな役目を振られたんだろうと思う。
侍女の格好をさせられているのを見た時に、そんなことじゃないかなと思っていたから、それほど驚かなかった。
「ごめんね、ミルラさん」
「いえ……閣下に森についてくるように言われた時点で、もうこういう運命だったのかもしれないです……」
石鹸を手で泡立てながら、ミルラを見上げた。
とりあえず、お湯から肌が出ているところから洗い始める。
「サリナ様は女神様だと知らせずに後宮に行かれるのね……確かに、今行くのであれば、陛下かエドウィン殿下の御許になるものね。女神様だけは後宮が仮に代替わりしても次の主の後宮に移って残ると決められているけれど、今までご一緒にお暮らしだったのなら、サリナ様を他の方の後宮に入れることをヒースクリフ殿下がお認めにならないのも当然だと思いますわ」
そう言いながら、テレセおばさまはわたしの髪に少しずつお湯をかけて湿らせた。
それでわたしにくれたのとは違う石鹸を泡立てて、髪を洗い始めた。
「女神様であると隠して、普通の方として行くとしても、誰も侍女がいないわけにはいかないものね。コルセットを締めたり、ドレスを着付けたりをヒースクリフ殿下にさせるわけにはいきませんもの」
ヒースならそのくらいは平然としそうな気がしたけど、黙っておくことにした。
「あの、大丈夫なんでしょうか」
代わりに、当人には訊けないことを訊いてみる。
「ヒース……クリフ殿下が、王宮に戻って」
ヒースに殿下ってつけなきゃいけないんだって、今気が付いたことは秘密にしたい。
……さっき本当に王子様だったし、見慣れたら殿下って呼ぶのも自然になるのかな。
「大丈夫ですわ」
おお?
テレセおばさまの即答にびっくりした。
「大丈夫でないと、旦那様もギルバートも困りますもの」
あ、希望的観測ですか。
「ヒースクリフ殿下は人気がありますのよ」
ああ、うん、そうでしょうね……と遠い目になる。
あの美形で不人気だったら、どんだけ性格が悪いのかってことだ。
たまに、非常に限定的な場所で「この人、実は意地悪なんじゃ」という疑問が湧くことがあるけれど、平常時のヒースは間違いなく善人で優しい。
「ヒースクリフ殿下がお世継が作れないという理由で廃嫡になったことも、元より信じていない者の方が多いのよ。民は実際のところを見ていないものね」
それを信じてないとしたら、どういうことになるんだろう。
無理矢理王宮を追い出されたと思っているんだろうか。
テレセおばさまは髪を洗いながら、話を続けている。
「信じるのは難しいわね。それまで、これ以上はないというくらい完璧な王太子様だったのだもの。剣と魔法に秀で、お若くして兵団を率いて、国境を侵した隣国との戦いではほんのわずかの時と兵で押し返して勝利を納められた英雄ですものね」
そうなのか。
ああ、本当にヒースのことを知らないんだ、わたし。
「……でも、本当は、王太子様が最前線などに出るものではないわ。ずっとお命を狙われて、お気の毒だったの。兵団の長になられたのも策略によるものだったし、戦争にも計略で送り出されてしまったのよ。勝って名声を上げられてお帰りになられたから、よかったっていうだけなの。国民は結果だけを知らされるから、王太子様が最前線で民を守るために戦ったって聞いたら、それは喜ぶでしょう?」
ヒースを戦争にやった人は、戦場で殺そうとか思っていたんだろうか。
それを躱して、勝って戻ってきたから、国民にとっては英雄になっちゃったってことか。
ミルラはテレセおばさまとは逆側で、黙ってわたしの髪を洗っている。
ミルラもヒースが命を狙われて、それで転移の魔法が得意になったと言っていたっけ。
命を狙われることから逃れることで力を得て、人気も得てたなんて、皮肉な話だ……




