第1話
一日複数回の更新です。ブクマの方は途中話を飛ばさないようにお気をつけて。
わたしの記憶が確かならば、大学の卒業式を終えて、もう誰も住んでいない昔の家を見に帰るために峠道を歩いていた時に、後ろから来た車に煽られて峠の斜面に落ちた……はずだった。
崖というほどの急斜面ではないけれど、樹に引っかからなければ結構下まで転がり落ちたはずだ。
まあ、交通事故だと言っていいだろうけれど、走ってきたのは峠をレース場と勘違いしているタイプの暴走車だったから救急車を呼んでくれたかは怪しい。
でも、誰かには助けられたようだ。
少なくとも気が付いた時には、山の斜面ではなかった。
半円に近い丸みを帯びた部屋には、素朴な木板の天井と、とってもナチュラルな木の幹をそのまま利用したような梁、石の壁、小さな窓には色褪せたカーテンがつけられて端に寄せて縛られており、木製の戸が付いていて、それは光を取り込むためか開けられていた。
一つだけある出入りできそうな扉はやっぱり木製で、板っぽくて手作り感にあふれている。
わたしが寝ていたベッドは台の上に藁かなんか敷いて、その上に厚みのある布を敷いただけに思える。
木製の大きくはないテーブル、壁際にもっと重そうな机、本棚っぽい棚には紙束っぽいものが積み上げてある。
いわゆる電灯らしきものはない。
電化製品と思われるものはない。
ものすごくナチュラル嗜好の部屋だ。
だいぶ時代を遡った感じだけれど、日本っぽくはなく、外国の建物の雰囲気を醸している部屋。
その部屋の、簡素なベッドの上で、わたしは眠っていた。
……全裸で。
起き上がって、胸で抱いて押さえていたシーツというか布を、ぺらっと捲って中を見た。
……全裸だ。
斜面を落ちた時、服は着ていたはずだから、誰かに脱がされたことになる。
もう一度、ぺらっと布を捲って中を見た。
情事の痕っぽいものは見当たらない。
体はどこも痛くない。
だから脱がされただけで、何もされてはいない。
経験はないけど、逆に初体験だから無理矢理ヤられてたら色々と痛いんじゃないかと思う。
それが痛くないってことは、やっぱりヤられてはいないんだろう。
さて、貞操は無事だとして。
ここはどこだろう……
小さな窓を見た。
開いている窓に、ガラスは見当たらない。
なのに寒くない。
三月の上旬で、昔の家は低いけれど山の上の方で、窓を開け放していられるほどの気温じゃなかった。
気温は、春というより初夏のようだ。
爽やかで、暖かい。
全裸でいて寒くないんだから、気温がだいぶ違っている。
なんだか、ドキドキした。
認めたくないけれど、季節が違う。
ずっと意識がなかったにしては、ここは病院じゃない。
その矛盾した事実が、昨日までの現実から離れていることを示している。
暇つぶしに読んでいたネット小説を思い出して、少し途方に暮れた。
読むのは好きだったけど、自分で実践したいと思ったことはなかった。
「目を覚まされましたか」
窓ばかり見ていて、扉の方への注意が散漫になっていた。
びっくりして振り返れば、天使がいた。
……翼はなかったけど、顔は天使だと思った。
長い、さらっとした感じの淡い金髪が多分ゆるいハーフアップで後ろでまとめて止められている。
瞳は深い碧で、白皙の美貌だ。
顔は女性と見紛うような、でも男性だとわかる美貌だ。
なんだそれは、と言わないでほしい。
女性っぽい男性の顔と言うか、男性っぽい女性の顔とでも言うのか、中性的とも違う……とにかく美貌だ。
男性だと思った理由の一つは、背が高そうだったからだ。
ベッドで座っているから見上げる感じなんだけど、多分百八十は越えている。
後、見える限り、胸に膨らみがない。
生成りのシャツを着て、濃い茶のズボン。紐で締める革の膝までのブーツで、腿丈くらいのマントだかローブだかって感じの上着を着ている。
服装は時代がかっていて、でも質素で、薄汚れてはいないけど、豪華な感じではない。
でもそれを補って余りあるほど顔と髪が天使だった。
こういうの、洋画の時代ものやファンタジーの映画の中でなら見たことがある。
ぽかんと見とれてしまった。
「入ってもよろしいですか」
「は、はい!」
もう一度はっとした。
わたし、全裸だ。
……ああ、うん、これは何もなかったわ。
この美貌の前には、わたしの全裸なんぞカカシのようなものだわ。
この天使様が脱がしたのか、そうじゃないのか、それはわからないけれど、何もなかったことには確信を持てた。
この天使様なら自分より遥かに劣るわたしに欲情するとは思えないし、他の人でもこの天使様を見慣れていれば、やっぱりわたしに欲情するとは思えない。
ここにこの天使様以外に人がいるとしたら、天使様の貞操の方が心配だ。
このレベルなら、男でもイイって人がいそうだし。
あ、そうだ、いけない。
天使様がわたしの服を脱がしたんなら、わたしの全裸は鑑賞され済みだと思われるけど、とは言え、お見苦しいものは隠すに限る。
すすすと布を上げて喉元近くまで体を隠した。
天使様は部屋に入ってきて、どこか痛ましいものを見るような眼差しでわたしを見た。
その同情に満ち溢れた眼差しの意味を訊きたくなったけれど、その前に。
「どこか、お痛いところはございませんか」
……あれ?
天使様、日本語喋ってる?
じゃあ、やっぱりここは日本で、天使様は美形コスプレイヤー?
ああ、いやいや、異世界ものの小説では言語チートって鉄板だったじゃない。
言葉が通じるからって、ここが日本だって早合点はいけない。
逆か。
言葉が通じるからって、小説ばりの異世界転移に言語チート持ちだって早合点はいけないね。
落ち着いて、見極めなくちゃ。
そこまで思ってから、異常な状態の予想にも自分が意外に落ち着いていることに気が付いた。
自分が自分の住む世界に執着が少なかったんだと、改めて知ったような気持ちだ。
不幸中の幸いで、ここが別の世界で、帰れなくても悲しむ家族はわたしにはもういない。
友達はちょっと寂しがってくれるかもしれないけど、大学に親友というほどの人はいなかった。
高校の友達は、家族を失った時に自分から疎遠にした。
高校の幸せだった時とは家族がいた時で、それを思い出すのが辛かったからだ。
親が遺してくれた生命保険で大学を出て、やっともう一度向き合おうと思い立ったその日に、転落してしまったわけだ。
やっぱり縁がなかったのだと思えば……
ああ、なんだかやっぱり、ここが日本じゃない前提で考えている。
そう……空気が違うからだ。
あの道から転落する前の日本の空気と、今いるこの場所の空気は違うのだ。
この感覚的なものは、きっと、正しい。
「女神様」
ちょっとぼんやり考えすぎたか、天使様は深刻な表情になってベッド脇に跪いた。
……女神?
やだ、本当にこの人、天使なのか?
「どこかお加減が悪いのであればお教えください。外傷はございませんでしたが……すべてを探ったわけではありません。見えぬところに何か」
え、待って。
「わたし?」
女神ってわたし!?
ああっ、しかもこの天使様に脱がされたって確定した!?