プロローグ
「……まさか」
その日、魔術の媒介に使うための湧水を汲みに泉に向かい、そこで倒れている黒髪の彼女を見つけた。
いつからここに倒れているのか。
彼女は、本当に、そうなのか。
近付けばわかる。
血は流れていない。
そんな、まさか、と思いながら、おそるおそるそこに近付こうとして……足を止めた。
彼女がまだ生きているのなら、近付いてはいけない。
迂闊に近付いたなら、私は彼女を殺してしまうかもしれない。
しかも、理性を失って彼女を犯し続けるという最悪の殺し方で。
けれどそう思っていてさえ、彼女に自分が欲情している様は想像できなかった。
経験のないことは正しく想像すらできないのだと知った。
こんなところで知っても、とも思う。
そんなことを知る歳でもないのに、今までどうやって生きてきたのかと我ながら少し呆れた。
ああ、経験がない故に、想像できなかったのだと、改めて思う。
自分の愚かさを呪って、今どうするべきかを考える。
……人を呼んでくることはできない。
ならばやはり私が助けなければ。
自分ならば大丈夫だという思いと、やはりこのまま近づくのはいけないという気持ちと、彼女がそうならば助けなければという考えがせめぎ合い、その場に立ち尽くす。
記憶を浚って、役に立ちそうな魔術を探す。
何かないか。
罪人たる私が、これ以上、罪を重ねないために……
罪人と思って、皮肉にも閃いた。
封じてしまえばいいのではないか。
魔術師の罪人を捕らえる時のように、封じる枷を付ければいい。
隣国の、女神を生かす技術は確かそういうものだったはずだ。
彼女に近付くことはできないが、封じるものは選べるのだから自分の欲望を封じてしまえばいいのだ。
封術は得意とは言えないが、自分にかけるものならば抵抗はないし、完全に遮れなくとも理性を失わない程度まで効けばいい。
作業用のナイフを抜いて左手の甲に傷をつけ、溢れた血を右手の爪につけて、左の手首に一周輪を描いた。
血の赤に、金色の魔力が沿うように、線が引かれていく。
ここで陣を刻むことはできないから、一から詠唱する。
左手首の輪を手枷に見立てて、自分の中にあるかもしれない女性への欲望を押さえ込み……意を決して、泉の畔へと踏み出した。
手が届くところまで歩み寄ると、一瞬くらりと目眩に似たものを感じた。
引き寄せられる感覚に、頭を振って踏みとどまる。
それで確信を持った。
彼女は、そうだ。
罪悪感が心を満たし、そして完全に私は平静を取り戻した。
彼女の横に膝を突き、彼女に触れる。
温かさにホッとする。
彼女は生きている。
死してなお豊穣の女神はその力を放っていると言われるから、触れてみるまでその生死に自信は持てなかった。
揺り起こしかけて、やめた。
意識を取り戻した時、彼女が嘆くことは明らかだ。
ならそれは、僅かでも遅い方がいいだろう。
そしてこの水辺ではなくて、せめてもう少し落ち着ける場所がいい。
細く小さな体を仰向けにし、抱き上げる。
彼女の黒髪がさらりと落ちて、自分よりは色づき、南方の者よりは淡い肌に見入る。
唇が喉が艶めかしく、視線を奪う。
腕にかかる重みに胸が苦しくなった。
これさえも豊穣の女神の力なのだろうか。
何も知らなければ、この左手首に枷をつけていなければ、きっとこの歳にして初めての恋だと信じたに違いない。
この枷をつけなければ、女性に対して不能だった私でさえ理性を失ったのだろうか。
――その答は、もう永遠に知らなくていい。
この黒髪の女神がこの世界にある限り、自分が守っていく。
「誰も近付けず、誰の目にも触れさせず、誰にも傷付けさせない」
私自身にさえも。
生涯を賭ける誓いの言葉を口にして、彼女を抱いて――私は自分の暮らす塔へと戻った。
転移で戻ってしまいたかったけれど、彼女に魔力がどんな影響をもたらすかわからなかった。
塔に着き、彼女を塔の二階の自分の部屋まで運び、粗末な寝台に降ろした。
土がついて汚れた彼女の頬から、乾いた土をそっと払う。
服は汚れ、湿っていた。
脱がして、拭いてあげなくては――
彼女の着ている服のボタンに手をかける。
彼女の襟を開いていくと、喉元から繋がる柔らかな丘陵は眩しいほど甘い色をしていた。
そこに顔を埋め、しゃぶりつきたくなる。
私は湧き上がる邪な気持ちをねじ伏せて、彼女の、すべての服を、脱がしていった。