35話
物音一つ無く、不気味に静まり返った街で中村は荒くなった息を整えていた。
うだる様な暑さの中、須賀謹製の鎧を纏い、鼻がひん曲がるかの様な臭気の中で、中村は1体のゾンビを手にしたハンティングナイフで倒した。
迫るゾンビを左前腕の須賀の鎧に噛みつかせて動きを止め、下顎から脳天に向かって一気にナイフを刺し入れる。手に何とも言えない気持ちの悪い感触が伝わる。その感触に思わずナイフを手放しそうになるが、グッと堪えて最後まで突き入れる。
山本達と一緒に銀行を出た中村は山本からゾンビの倒し方をレクチャーしてもらい、実践に移した所だった。
中村の初めての獲物は同い年位の女性で、胸から首への損傷が激しい個体だった。
両の乳房は露わで片方は白く綺麗なのに対し、もう片方は千切れかかっている。一歩一歩、歩く度にブルンブルンと大きく揺れる乳房は、生前は男性達からの熱い視線を感じていただろうと思われるが、今は見るも無残な有様であった。
女性にとっての乳房は母性の現れで、それが無慈悲にも半分程噛みちぎられているのは、同じ女性の中村としては少々堪えるものだった。
死してなお徘徊する事を止める事が出来た事は、中村にとって相手に対する一番の供養と思えた。
中村は倒したゾンビに軽く頭を下げると目的地に向かい歩みを進めた。
饐えた匂いの街を、建物の影から影へ移動し、時折手にした地図で現在地と目的地へのルートを確認する。
電気が止まった街ではスマートフォンは使えない。GPSからの信号を受信出来ても、肝心の地図データは地上波を受信出来ないと当たり前だがダウンロード出来ない。電気が止まっているため各基地局が電波を出せないためだ。
それでも混乱直後は自家発電を備えた基地局がいくつかあり、受信出来てはいたが、現在ではその燃料も尽きたのか通信出来ない。もちろん検索もだ。公衆電話のタウンページから目的地の住所を見つけ、自ずと昔ながらのの地図を見ながらの移動となる。
山本達の様に車での移動が出来れば良いのだが、中村は免許を持たない。法もマナーもクソもない世界で免許は必要無いのだが、一人で行動している以上、事故が怖かった。
一人で索敵、警戒、移動と繰り返すため、その歩みは遅々として進まない。集団は大きく避け、撃破できる状況でもなるべく戦闘を避けて進む。どうしても倒さなければならない個体だけ倒し進むうちに、中村のゾンビに対する撃破スキルもあがってきた。
朝に出発してから10体目を撃破したところで腕時計を見やると丁度正午だった。現在地は目的地までに1/3をやっと過ぎたところだった。
「ここで引き返すか、突き進むか…。今無理しないで、いつ無理するの?」
ゾンビからナイフを引き抜きつつ、そう独り言を
溢す。その時、中村の腹がグーと鳴った。風も無く酷い臭気が漂う街の中でも身体は正直だった。
食事休憩のため、5F建の雑居ビルに中村は入ると屋上を目指した。電気が通っていないビルの階段は薄暗く、踊り場にある明かりとりの窓だけが外部からの薄らボンヤリと光を取り込んでいた。
中村はリュックからLEDの懐中電灯を取り出すとスイッチを入れる。薄暗い中で懐中電灯から伸びる光線に照らされた場所だけがハッキリと浮かび上がる。明暗のコントラストがハッキリし過ぎて、逆に照らさない方が良い様に感じられたが、そこは忙しなく懐中電灯を動かして見えない部分をカバーする。
見えない部分は中村の想像力を掻き立て、いつも以上に恐怖を感じるが、たかが5F建、屋上まで直ぐだ、屋上に上がって臭気漂う街の空気とは違う空気を吸いたいという思いで足取りが早くなる。
屋上の扉に着く頃には中村はほぼ駆け足に近いペースだった。
屋上にたどり着くとそこは地上とは違い風が流れていたが、臭気はやはりあった。それでも地上よりは幾分かマシに感じられた。
中村はリュックを降ろすと須賀に作ってもらった弁当を取り出してがっつき始めた。誰が見てるわけでも無い。お淑やかに振る舞う必要も無い。掻き込む様に弁当を平らげるとお茶を飲みゲップをした。
その時、屋上のドアがギィィと開いた。
もしも屋上の扉がオートロックだった場合を警戒してドアに空のペットボトルを挟んでいた事が悪い方へ作用した。
ゾンビは基本的にドアノブを回してドアを開ける事が出来ない。押すか叩くだけだ。さらに、一刻も早く臭気から逃れたいと思い屋上へ向かったため、各階をチェックする事を怠った。その結果が中村を追って現れたゾンビだった。
スーツ姿の男性ゾンビに続き、OL女性ゾンビが2対、更にその後にも続いている様だった。
中村は腰に下げたナイフを素早く引き抜くとゾンビに向かい走った。中村に直線的に近づくゾンビを掴まれる直前で身を翻しゾンビを躱すと逆手に持ったナイフを頭から振り下ろす。相変わらず嫌な手ごたえがし顔を顰めかけるが、その後ろにはOLゾンビがすぐに迫ってきている。バックステップで少し距離を取ると、また回り込んで頭部へ一撃を食らわす。
出発した頃とは中村の動きは随分と違っていた。出発して数体目のゾンビを左前腕で受け止めて倒した際に脱力したゾンビに覆いかぶされ、そこから抜け出そうと踠いていると別のゾンビが現れ冷や汗をかいた為、現在のヒットアンドアウェイの動きになった。ベットされているモノが自分の命なだけに、短期間でその動きは洗練されていった。
中村が2体目のOLゾンビに視線を向けた時、更に別のゾンビが続々と屋上にリングインしてくるのが見え、中村は絶望がヒタヒタと忍び寄って来るのを感じ始めていた。




