1話
目が醒めるとそこは真っ青な空間だ。海の青とは少し違う淡い青。トシローは夜明けと共に訪れるこの淡い青の空間が好きだ。
「さぁ、今日も稼ぐか!」
トシローは傍らで眠っていた相棒の犬に声を掛ける。声を掛けられた犬は何も答えずただ黙ってトシローを見つめ返すだけだった。
トシローは何枚も重ねた毛布を気合い一発、ガバっと蹴り、少しヒヤリとするダンボールの床に素足で立ち、体の至る所からポキポキ音がする程の大きな伸びをした。
2㍑焼酎ペットボトルに入れた水でうがいをしながら玄関ドア、もとい玄関シートを捲り上げ外に出る。周りはトシローの家と同じ素材のビニールシートを基本として出来た手作りの家が並ぶ。
黒い革のライダースジャケットにフリルのついたエプロンをかけた不思議な格好をした隣人は既に起きていた様で一斗缶のコンロで味噌汁を作っていた。
「おはようシェフ!今日も美味そうな匂いだな。」トシローはビっと右手を挙げて挨拶する。
「今日は伊勢海老の味噌汁だ。トシローさん食ってくかい?」
「朝から豪勢だなぁ。」
「あんまり身はないが、いい出汁は出てる。」
「シェフが来てから少し太ったぞ。夏に向けてちょっとダイエットするかぁ?」
「誰もトシローさんなんか意識してないぞ!」
「わかんねーぞ?金持ちのババァあたりが俺の色気に狂い咲くかもしれんぞ。そん時は専属のシェフとして雇うからな覚悟しとけよ。」
「はいはい。冷める前に早く食えよ。」
シェフはぶっきらぼうに椀に注いだ味噌汁をトシローへ渡す。
「シェフ。指入ってるぞ!」
「大丈夫。熱くない。」
「食堂のオカンか?まぁいい、ありがたく。」
トシローは受け取った椀をお辞儀をしながら頭の上に掲げ感謝の気持ちを伝える。
ここは大きな川の河川敷。社会からはみ出した人が流れ着く最終地点だ。
中でも一等地は川に架かる橋の下だ。トシローは最初に橋の下にブルーシートの小屋を立てた古株で、このコミュニティーの長老的存在だった。
気がつくと一軒また一軒と増えて今では20軒ほどのブルーシート製外壁の素敵な小屋が並んでいた。中には無理矢理電柱から電線を引っ張りテレビとエアコンを完備した小屋もあった。
トシローの小屋にも電気を引いてあげるという提案がその小屋の主からあったが、トシローは「ただでさえ社会に対価を払わず。ぶら下がって自由にさせてもらっている身分だ、これ以上を望むと手が後ろに回る」と断りと同時に遠回しに注意をしていた。
そんなコミュニティーに半年程前にシェフは仲間入りしたのだった。
ある日、何日も動かず川面を見つめ続けるシェフをトシローが見つけ、ちょうどトシローの隣の主が小屋を残したまま行方不明になったので、行く所が無いのならその小屋に泊まると良いと声をかけ、それからトシローの良き隣人になったのだった。
「じゃぁ、今日も行ってくる。味噌汁ありがとう。美味かったよ。」
「トシローさん、行ってらっしゃい。あぁ、そうだ帰りに包丁買ってきてくれないか?」
「あぁ、いいぜ、あんまり良いやつは無理だから期待するなよ。その代りエサよろしく。 」
「どんなもんでも今のやつよりはマシさ。」シェフは所々錆の浮いた包丁を指差して溜息混じりにトシローに訴える。
トシローは返事の代わりに片手を挙げて相棒の犬を小屋の前に番犬として残し出掛けた。
トシローの稼ぎは主にゴミ箱漁りだ。食べ物を探しているわけではなく、雑誌を集めて廻っていた。もちろんゴミ箱巡回中に遭遇する自販機の釣り銭口のチェックも怠らない。早朝から駅に向かい電車に乗り、各駅で降りてはゴミ箱の雑誌を収集する。
午前中いっぱい始発から終点の各駅で同じことを繰り返し、昼飯前にオフィス街へ赴き歩道にブルーシートを敷いて拾った雑誌を販売する。値段はどれでも¥100で、これが意外によく売れる。その理由はほとんどが当日もしくは前日に刊行された雑誌に的を絞っているからだ。
ゴミ箱漁りは雑誌の他にも売れる物が見つかる事がある。領収書、中身の無い財布、ビニール傘等、トシローの商品はサラリーマンにはウケるラインナップだ。この日はランチタイムに¥3,000を稼ぎ出した。仕入れ値は電車代だけ、それも改札を出ていないので、最寄りの駅からオフィス街までの電車代だけ。原価はほとんどタダに近い。
午後からは自転車で住宅街に出向き、空き缶を集めて廻る。「空き缶無料で引き取りまーす!」そう声を掛けてゆっくり歩くと主婦がこぞって集まりだす。
トシローさんのお陰で不燃物のゴミ袋を買う事が少なくなったとか、空き缶だけじゃなくて他の不燃物も引き取ってくれないかとか、集まった主婦は気さくにトシローに声をかけてくる。これは主婦節の節約精神から集まるだけではなくトシローのコミュ力の高さのお陰でもあった。
集まった主婦に頭を下げて空き缶を回収して廻ると今度は井戸端会議が始まる。外国の伝染病の話から夕飯の献立、どこそこの奥さんの不倫話。
さすがに付き合って居られんと、そっと主婦達の輪から抜け出し公園で空き缶を足で潰し45㍑のゴミ袋に一杯になると地金屋に売りに行く。
この日は空き缶だけで¥1,000を稼ぎ出した。
「シェフ、ただいまー。ホイ包丁。」
「何だこの程度の低い包丁は?」¥100均一で購入した包丁のブリスターパックの裏表を何度もひっくり返しながらシェフは口を尖らせる。
「いらねーなら返せ。」トシローが右手を差し出すとシェフは大事な物を取られてなるものかと両腕で抱え込む。
「いや、有り難く使わせてもらいます。」
「今日の晩飯は何だ?」
「今日は鯛のアラ潮汁と鯛の炊き込みごはんと鯛のカルパッチョだ。いつものスーパーで鯛が一匹処分されるってんでもらってきた。」
「おぉ、美味そうだ。では、有り難く。」
「そう言えば土建屋が怪我したとかで、小屋に篭って唸ってるみたいだぞ。」
「また高校生の仕業か?」
「分からん。」
「後で土建屋に話を聞こう。」
土建屋は戦後長く続いた政党が政権交代した後に、新しく与党となった政党が、事業仕分けと称し、無駄の削減を大正義に掲げ、国民の為を思って行った政策が、結局公共事業を屋台骨としていた民間企業の粛清になってしまったというなんとも手際の悪い、関わるもの全てを不幸せにする政策のせいで仕事を無くしトシローのコミュニティーに来た古参組のうちの一人だった。