—20— 過ぎし日の面影
山頂付近に着いたウィルは血や臓物、糞便の匂いがする戦いの跡を見渡していた。そこには無数の大型の獣の死骸が転がっていた。デリスの心配していた仲間の姿は見当たらない。おそらくこの獣達と交戦した後にここを去ったのだろう。
肉や岩、木の焼け焦げた臭いが鼻の奥を突く中、周囲を警戒しつつも原型を辛うじて留めている一際大きな獣の死骸へと歩み寄る。
「どこの誰かはわからないけどとんでもない怪力だな…」
その死骸を近くで見たウィルから呆れたような声がこぼれた。その獣は全身を強い力で殴打されたかのように、至る所の骨が砕け、肉ごとへこんでいた。それらの傷跡は特に武器を使った形跡が見当たらず、直接手や足で付けられたもののようだった。ただ、よく見てみると無数の打撃痕の中に混じっていくつか鋭利な刃物で斬られたような傷跡があった。ウィルはそれに気付くと、その傷跡をなぞるようにして確認した。
「この斬り跡は……」
ウィルが触れたその傷跡は断たれた肉の繊維が非常に整っていた。一般的に使用されている剣は鋭利な刃を思い切りぶつけることによって対象を切断する。そのため刃が肉や骨にぶつかった際にその衝撃で暴れてしまい、このような綺麗な断面にはならない。大きく変形する程の力で殴りつけられている巨大な獣、そしてその整った切断面…それだけの情報ではどのような者がこの獣を倒したのか推測することは難しい。しかし、ウィルにはここでこの獣と戦って、そして打ち勝った者が誰であるのかを確信していた。それは勘や願望によるところも大きかったのかもしれない。
「よかった…生きて、いたんだな」
まるで懐かしい人と再会したかのに言葉を漏らす。ウィルはどこか安心したような表情を浮かべ微笑みながら、しばらくの間ただ傷跡を眺め続けていた。やがて、本来ここに来た目的を思い出すと、デリスの仲間が敵を撃退したことを伝えるために登ってきた崖を降りていった。
「よう、どうだった?」
戻ってきたウィルに対してクラウが尋ねた。デリスとイゾルテは不安そうな目をウィルに向ける。
「もう既に戦闘は終わっていたようでした。デリスさん達が交戦していたと思われる獣の死骸はありましたが、人の姿はありませんでした。そこまでひどい人の血痕等も見当たらなかったので、保証はできませんがおそらく皆さん無事だと思います」
その言葉を聞いたデリスは力が抜けたようにぺたっと地べたに座り込んだ。イゾルテも着地して羽を畳みながら息を深く吐く仕草をした。
「本当に良かったですの…本当に…」
「よかったな、嬢ちゃん。しっかしここだけの話、嬢ちゃん達を見つけたときの様子と話からして駄目なんじゃねぇかって思ってたんだが…。さすがアガートラムの傭兵達ってところか」
「はは、そうですね。きっととっても優秀な傭兵でもいたんでしょう」
「なんでお前がそんなに嬉しそうなんだよ」
「気のせいじゃないですか?」
デリス達が一通り落ち着いたところで、ウィル達は出発の支度をしていた。デリスの話によると、デリスの仲間達はすぐ近くのヨトゥンヘイムという村で待機している可能性が高いとのことだった。そのため、ウィルとクラウは北の大地へと向かう前にデリスとイゾルテをその村まで送っていくことにした。
とりとめもない話をしながらしばらく雪山を歩いていると、遠くに小さな村が見えてきた。
「あそこがヨトゥンヘイムですの!」
「ぎょふっ」
ウィルとクラウを案内するとばかりに先頭を歩いていたデリスとイゾルテが得意げに説明する。
「おーっ、ちゃんとした村だなー」
「ふふっ、きっとお二方のことも話したらきっと歓迎してくださると思いますの!是非一緒に食事でもどうでしょう?」
「お、いいねぇ!ラス達の弁当切らしてから単調な味の携帯食しか食べてなかったからなー。そろそろまともなメシが食いたいって思ってたところだ」
「よかったですの!じゃあ行きましょうですの!」
そういってデリスが村の方へと歩き出す。
「おう!よし、俺たちも行くぞ。…ウィル?」
クラウはデリスに付いていこうとしたが、ウィルがその場から動こうとしなかったため足を止めて振り返った。
「俺は遠慮しておきます。ちょっとその辺で修行でもしながら過ごすのでクラウさん達だけで行ってきてください」
「おいおい、いい加減野宿は疲れただろ!いくらお前でも休む時に休まないと身体がもたねぇぞ?」
「そうですの!私ももっとウィル様とお話したいですのー!」
「ぎょふっぎょふっ」
クラウ達が必死に説得するも、ウィルは困ったような、そしてどこか悲しそうな表情を浮かべながら断り続けていた。普段と違って頑なに自分を貫き通すウィルに苦労していると遠くの村の方からこちらを呼ぶ声が聞こえてきた。
「…リス!イゾ…テ!」
距離があったため風の影響で全て聞き取ることができなかったが、自分を呼ぶ仲間の声に反応したデリスは素早く村の方へと振り返り大きく手を振った。
「アヤメちゃーーーーん!みんなー!」
村の入口で待つ仲間達の姿を確認するとデリスとイゾルテはそちらの方へと駆けていき、先程名前を呼んでくれたアヤメへと抱きついた。
「アヤメちゃんっ!ただいまですのー!」
「デリスっ…!心配したんたぞ……。本当に無事でよかった」
「もー、本当に心配したんですからねっ!ゾルちゃんも!」
「けっ、あんぐらいでくたばるようじゃアガートラムじゃやってけねーよ」
「おやおや、そういながら血が出るほど拳を木にぶつけるほど冷静じゃなくなってたのは誰でしたかねー?」
「えへへっー。皆、ごめんですの」
「ぎょふっ!」
いつものデリスの和やかな表情に安堵しながら仲間達は再会を喜んでいた。
「あれ?シンクレアはいないんですの?」
デリスは迎えに来てくれた仲間達の中にシンクレアの姿がいないことに気付いた。
「ああ、ベスティアから受けた傷が少し酷くてな…。今は村長の家で安静にしているところだ」
「そっか、じゃあ皆無事でよかったですの!」
「そういえばあんな崖から落ちてよく無事だったな。イゾルテなんか腹に穴が空いてたと思ったが」
不意に疑問に思ったアヤメがデリスに尋ねた。
「あそこにいる方々が私とゾルちゃんを助けてくれたんですの!ウィル様、クラウ様―!」
仲間との再会に浮かれて忘れていた二人の存在を思い出したデリスはウィル達に向かって手を振った。それに気づいたクラウは微笑みながら大きく手を振り返した。
だが、ウィルは微動だにせず冷静な表情でただ一点を見つめていた。その視線の先をデリスが追っていくと、そこには先程まで再会を喜んでいた表情と変わり、ウィルと全く同じ表情を浮かべているアヤメの姿があった。
「アヤメちゃん…?」
急に雰囲気が変わったアヤメを不思議に思い、デリスは抱きついている彼女の顔を覗き込んだ。アヤメはそんな彼女の肩を掴んでそっと押しのけると、ウィル達の方へとゆっくり歩いて行った。その様子をデリスと同様に不思議に思った仲間達は声をかけることもなくただ見つめていた。
ゆっくりと一歩ずつアヤメが雪を踏みしめながら緩やかな坂を下っていく。その間もアヤメとウィルは瞬きもせずに互いの瞳の奥を見続けていた。そして、確実に声が届きそうな程近くに来てからアヤメは静かに立ち止まった。
アヤメの履いている袴が強風に靡いてバタバタと音を立てる。そして彼女の美しい長髪が風に流されて顔を覆うが、それに全く動じずにウィルの瞳をただ見続ける。周囲にはなんとも言えない沈黙がひたすら続く。表情は一切変わらないが、溢れ出る様々な感情を必死に抑えようとしているのか唇が微かに震えていた。
どれくらいそうしていたかはわからない。それは一瞬だったかもしれないし、とても長い時間だったかもしれない。しかし、遂にアヤメが腰につけていた刀を抜き、ウィルの頭上から思い切り振り下ろした。ウィルも同様に腰につけていた刀を鞘ごと取り外して一切表情を変えないままその刀を受け止めた。
ずっと見ていた周囲の人間がアヤメの行動に驚きを隠せずにいるのに対し、刀を受け止めているウィルは至って冷静だった。二つの視線が刀越しに交差する。拮抗した力が押し引きを繰り返し、刀を押し付けるアヤメの両手が小刻みに震える。やがて、ウィルが強く押し返すとアヤメは後ろに跳んで再び刀を構えた。