—17— 覚醒
「おい!奴の様子が変だぞ!」
急に距離を取って動きを止めて呻く獣に対し、傭兵としての勘が働いたのかカデル達は深追いをせずに攻撃を止めてその様子を伺う。唾液を口から垂れ流して時折痙攣するその獣の目は赤く染まり瞳の位置がわからなくなっていた。そして身体は低く鈍い不気味な音を立て始めると徐々に肥大化していった。
――このままではまずい!
何が起きているのかわからない状態で仕掛けるのは危険だが、放っておく方がまずいと判断したアヤメは瞬間的にベスティアへと駆けていった。
「はぁっ!」
動きが止まっている獣に対し、深々と地面を踏み込みながらも左下から右上へと抜ける渾身の逆袈裟斬りを放つ。静止している相手に対しては如何にして当てるか等を考える必要がない。アヤメは出せる限りの力で刀を振り抜くことだけに集中した。その渾身の力を込めた一撃はベスティアの胴体を間違いなく両断すると思っていた。しかし、その考えとは裏腹に刀は僅かに皮膚に傷を付けただけでその下の硬質化した筋肉に弾き返されてしまった。
「ぐっ…」
渾身の力を込めた攻撃の反動が刀の柄を通してアヤメの手へと伝わり鈍い痛みとなる。その痛みと痺れのあまり握る力が弱まり、刀を落としてしまう。痺れを必死にこらえながら刀を拾い上げようとすると、今まで動きが見られなかったベスティアの首が屈んだ状態のアヤメへとゆっくりと向く。
「ベスティア、こっちだ!」
動きが鈍くなっているアヤメに奴の攻撃が及ぶと思ったシンクレアは咄嗟に風牙を放ち注意を引きつけた。風の牙は硬質化した身体に損傷を与えることはできなかったが、その意識をこちらに向けることには成功した。
「外側からの攻撃は効かないか…。では、これならばどうだ!」
シンクレアは手にマナを集中させると同時にベスティアの懐へと潜る。先程奴らのうち一体を葬ったときと同じように獄炎を直接体内に撃ち込むつもりだ。そして手を獣の頭へとかざすと魔法を発動するためにその名前を告げようとした。
「ふっ、捉えたぞ。ごくえ…」
しかし、シンクレアの言葉はそこで止まり獄炎が発動することは無かった。あと少しで魔法が発動しようとしたときに、ベスティアの前足がシンクレアの体を横から強く打ち抜いたのである。硬質化した上に肥大化した前足は、鍛えているとはいえ華奢な彼女の身体をミシミシと軋ませる。咄嗟に庇った左腕と左足の骨が砕け、使い物にならなくなっていくのがわかる。そして衝撃により肺の中の空気も全て外へと吐き出してしまった。そのまま遠くの方まで吹き飛ばされたシンクレアは地面へと力なく横たわり動かなくなってしまう。
「シンクレア!」
自分を庇って動かなくなってしまった彼女の名をアヤメは叫んだ。
「よくもっ!」
刀を拾い終えたアヤメはベスティアへと再び斬りかかる。それが合図となり、それまで呆然と見ていた残りの者達も加わり一斉に攻撃を仕掛け始める。体が肥大化したベスティアはその見た目に似合わず俊敏さも持ち合わせていた。5人と1匹が様々な角度、距離から攻撃するもそれらを巧みに躱し、受け止め対処していた。
「もうっ、そんなにちょこまかと動き回らないで…よっ!」
雪を上を縦横無尽に駆け回るベスティアになかなか狙いが定められず、小光輪の砲撃が当たらない。リノンは少し他の者達から離れた位置で砲撃による補助を行っていた。敵が素早く動き回る上に、味方と入り乱れて戦っているためなかなか標準を定めることができなかった。それでもじっと小光輪を構えて撃つ機会を伺っていると、ベスティアは突然向きを変えてリノンの方へと向かってきた。
「えっ、うそ?」
元々遠距離からの補助を主な役割としている彼女はその突然の出来事に反応できずに体を動かすことができなかった。
「リノン!何をしてやがる!早く避けろ!」
妹のみを案ずる兄がベスティアを追いかけながらも必死に声を荒らげて呼びかける。
「そ、そんなこと言っても足が動かないの…!」
「そっちに行っちゃ駄目ですの!」
なんとかデリスが鞭を前足に絡ませてその動きを鈍らせる。あまりにも体重や力に差があるため当然その進行を止めることはできないが足に絡まる鞭に苛立ちを感じたのかベスティアは歩みを止めて前足を振り、鞭ごとデリスの体をその眼前に引き寄せた。そしてもう片方の前足の爪先をゆっくりと引き寄せられたデリスの胸元へと向ける。
「デリスさんっ!」
「うぁ…」
鈍い光を放つ鋭利な爪が確実にデリスの胸を貫こうとその距離を縮める。実際には短い時間だが、その場にいる者達にはその光景がとてもゆっくり動いているように見えた。その攻撃をなんとか止めようとするも間に合わない。そしてその次の瞬間、肉体を貫いた爪が周囲に鮮血を散らし、その先から血の雫を滴らせて雪を赤く染めた。
「う、嘘でしょ…?」
「そ、そんな…」
ベスティアの爪に腹部を貫かれた肉体が力なくその四肢をだらりと垂らした。
「イゾルテーーーーーー!!!」
胸を貫かれて動かなくなっている小さな竜の真の名を少女は大きな声で叫んだ。咄嗟にデリスを突き飛ばしたイゾルテが代わりにその爪の犠牲となっていたのである。
「ぎょ…かふっ」
爪は肺にも到達しているのか、呼吸しようとした際に咳込み吐血した。
「あ…ああ…」
ずっと小さい頃から一緒だった竜の変わり果てた姿に少女は感情の制御ができなくなり言葉を失った。そんな少女の精神を更に痛めつけるように、ベスティアは爪の先に付いた邪魔なものを振り払おうとその前足を宙でばたばたと動かす。そして思いっきり前足を前後に振ると、爪の先から小さな竜の体が抜けた。勢いよく放り出されたイゾルテの身体は宙に弧を描き、そのまま山の崖へと落下していた。
「あぁあああああああああああああああああああああ!」
声帯を壊してしまうかのような、雄叫びのような悲鳴のような声をあげると、瞳を濡らしたデリスは力なく落ちていくイゾルテの体を跳躍して抱きしめ、一緒に崖下へと消えていった。
「デリスさん、ゾルちゃん!」
崖下へと落ちていった仲間を必死に呼ぶ面々の気持ちをよそに、ベスティアはまるで何事もなかったかのように爪に付着した血と僅かな肉片を舐め取っていた。その様子に怒りが限界に達したのかアヤメはベスティアの方へと一歩、そして一歩と足を寄せる。
「おい、やめろよ。それは食い物ではないだろう」
目の前まで歩いてきた少女が何かを言っているようだが、別に意識を向ける必要も無いと思ったのか、ベスティアは無視して爪を丁寧に舐めとる動作を続けた。
「やめろと言っているだろう」
次の瞬間、アヤメは跳躍してベスティアの脳天目掛けて頭上から拳を振り下ろした。すると、今までびくともしなかったベスティアの頭が地面に勢いよく叩きつけられた。そのあまりの衝撃にまるでベスティアは土下座しているかのような格好になった。自分より格下の相手にひれ伏しているかのような格好になっている、そのことに苛立ちを覚えたベスティアは大きな方向と共に前足を大きくアヤメに対して振り下ろす。しかし、アヤメはベスティアの目を睨みつけ微動だにしないまま、肩から先だけを動かして逆にその前足を殴りつけた。すると振り下ろされたはずの前足がその逆方向へと弾き返された上に関節ではないはずのところが折れ曲がっていた。急に前足を襲う激痛がその獣に大きな声を上げさせる。
「な、何が起きている…?」
ベスティアによる攻撃でずっと気絶していたシンクレアが目を覚ますと、そこには先程まで自分達を苦しめていた敵を圧倒しているアヤメの姿があった。見たこともない眩い赤い光を体の周囲に放ち、激しい怒りの表情で刀も使わずに一方的に相手を殴り、蹴りつけているその姿はまるで怒りに身を任せた鬼のように見えた。リノン達もそのアヤメの豹変ぶりに、先程までの仲間を失った悲しみを忘れただ怯えていた。
「おお!まさにこの力はあの守護者と同じ!多少内側に秘めている力が確認できればと思っていましたが、それ以上の収穫がありましたねぇ。さぁさぁ、いいですよ!その調子でもっと私に力を見せてください!」
その様子を上空から見ていた男が思っていた以上の収穫があったことに歓喜していた。その男の眼下では今もなお、勢いよくベスティアの頭を横から殴りつけて吹き飛ばすとそれを追いかけ、今度は逆側へと蹴り飛ばし、そして上から勢いよく地面へと叩きつけるアヤメの姿があった。ベスティアの巨体が鞠とでも思っているかのように激しく転がし、打ち続ける。
「ふふふ、これはうまくいけば星の守護者同士で丁度いい具合に潰しあってくれるかもしれないですね。邪魔な星の守護者さえいなくなってしまえばもうこの星が堕ちるのは目前!そろそろ私も気合を入れて動く必要がありそうですね。ははははははははははははははははははっ」
男はそう言って気味の悪い笑い声を上げるとアヤメ達の戦いを最後まで見届けずにどこかへと姿を消した。