あの人の涙。 遥
まるで魔法にかかったみたいに、僕は花音さんに恋をした。
でも、花音さんには、好きな人がいたみたいで。
まるでいとも簡単に、それが分かってしまったのだ。
僕が、秋雨デパートへと足を運んだ、一月四日。
そこで、見てしまったのだ。
弟の葉音君と楽しそうにデパートを歩いている。
「あ」
宮野さん、と呼ぼうとした瞬間。
「あ、蒼井静香!」
蒼井静香?
蒼井静香とは、塾で一緒の、あまり目立たない女の子のことだろうか。
僕は、慌てて柱に隠れた。
そして、蒼井さんを探す。
いた。
今日は、赤紫色のコートの下にタイツを履いている。学校の女子がよくやってる、冬御用達の服装だった。
何故か怯えきった表情で、花音さんを恐れているようだ。
彼女達の間に、何かあったのだろうか。
そんなことを考えているとき、蒼井さんは、逃げ出そうとしていた。
「待ってよ!」
蒼井さんの手を握り締める花音さん。と同時に、葉音君を離した。
葉音君は「お姉ちゃん、僕トイレ!」と言って逃げ出した。
※葉音君はトイレではありません。
逃げ出してしまった葉音君は、こちらにあるトイレに駆け寄った。
僕は慌てて、観葉植物へと駆け寄る。
逃げ出すんじゃなくてマジでトイレ入るつもりだったのか。
じゃなくって!
僕は、観葉植物から出て、二人のやり取りを見た。
「何ですか?」
蒼井さんは眉をぴくぴくさせて花音さんを見据えている。
「何ですかじゃないわよ」
ここからだと、蒼井さんの表情も、花音さんの表情も、よく見える。
花音さんは、今まで見せたこともないような、怒りに染まった表情をしていた。
飛び出したい感情を必死に抑える。
恐らく、僕が入っていいような問題じゃない。
花音さんは、蒼井さんを見据える。だが逆に、蒼井さんは花音さんが怖いのか、すっかり怯えて、目を逸らしている。逃げ出そうとしているのかもしれない。
「あんたさ、久我先輩の好きな人知ってる?」
すると、蒼井さんはちょっと花音さんを見て、首を捻った。…だが、次の瞬間。
「し、知らないです」
首を横に振る。
だが、花音さんは、逃がすまいと、叫んだ。
「そうよね。だって、あの人の好きな人は、超意外な人だもんね」
やめて。こんなの、花音さんじゃないよ。
そんなに、蒼井さんを追い詰めないで。
お願いだから、いつもの、爽やかで可愛い、花音さんに戻ってよ。
「そ、そんな事、人前で話しちゃってもいいの?」
蒼井さんは周りを見渡す。けれども、二人に注目する客は一人もいなかっ…。
いた。
背が低い、童顔の男の子。
目を見開いて、しかも足が固まっている。
花音さんから二十メートルぐらい離れている。
花音さんと真正面から対立している蒼井さんならその姿は見えるはずだが、よくよく考えれば、そこは蒼井さんからとって見れば死角だった。
それが、話の中心人物である久我広樹だと、遅れて確信した。
だが、そんな事は露知らず、花音さんは、いつの間にか俯いていた蒼井さんを見据えて、突き放すように喋っていた。
「人なんて私達の事気にしてないんだからいいんだよ。…久我先輩の好きな人は」
お願い。花音さん。
あんなに可愛くて、大人しくて、優しかった花音さんはどこへ行ったの?
何で、そんなに蒼井さんを傷つけたりするの?
「あんたよ」
その瞬間、その話が聞こえていたのだろうか、久我さんなる人が、ゆっくりと歩き出した。
花音さんの方に向かって。
「あんたのことが気になってるって久我先輩が言ってたわよ!」
「え…?」
俯いていた顔を上げた蒼井さんは、後ろへ一歩下がった。
多分、向かってくる久我さんを見付けたはずだ。
「そんな、…有り得ない」
蒼井さんはバッグを落とした。
久我さんがいることに、蒼井さんは驚いているようだった。
こんな話をしているときに話の張本人が現れたのだ。誰だってこんな反応をすると思う。
「嘘でしょ? だって、そんなこと…」
「あんたは、遥君が好きなんでしょ? 知ってんだよ! なのに、あんたが久我先輩に好かれてるって聞いて、ショックだったよ。静香の恋が、叶わなきゃいいのに…」
最後は、あまり聞こえなかった。
花音さんは、涙を流している。
後ろには、立ちすくんでいる久我さん。
花音さんの後ろに、久我さんがいることを知っていて、それに驚いている蒼井さん。
自分の後ろに、久我さんがいることを知らずに、蒼井さんは自分の発言に驚いていると思っている花音さん。
話が全く噛み合ってないけれど、ちゃんと会話は成り立っているようだ。
「どうしてって思ってるでしょ? 有咲との話聞いてたわよ! だって、私…」
もう、分かった。
花音さんが、誰を好きなのかを。
花音さんの好きな人は、久我さんだ。
「…でも、だからって、こういうのはないんじゃない?」
次の瞬間、蒼井さんは、冷めた声で言った。
「は…? こういうのって何よ! アンタは遥が好きなんでしょう? 遥のこと、ずっと想ってたらいいじゃない!」
花音さんは、何も知らない。
これからどうなるのかを。
「でも残念ね、遥君には好きな人がいたのよ! 大事に想ってる人がね!」
もしかして、花音さんは、加奈さんのことを言っているのだろうか。
でも違う。
僕の好きな人は…。
宮野花音さん。
「違うよ。後ろ」
蒼井さんは、冷めていた。
「は? 何、後ろ…? !!!!」
後ろを振り返って、花音さんは愕然とした。
久我さんは、花音さんを見据えていた。
「く、久我先輩…?」
花音さんは、慌てている。
僕の恋は、何か、終わった気がする。
「ど、どうしてここに…」
すると、今までずっと黙りこくっていた久我さんが、口を開いた。
「花音、君は…」
僕は目を見開いた。
久我さんは、花音さんを呼び捨てにしたのだ。
もちろん、友達として、なのだと思うが、僕は無性に悔しかった。
呼び捨てで呼ばれれば、花音さんは親近感を抱く。
僕は、ステップアップ出来なくて、馴れ馴れしいのはちょっと苦手だと思っているから、花音さんをまだ「花音ちゃん」と呼べないままだった。
「君は、思いやりのない人なんだね…」
その瞬間、花音さんは深く、深く傷付いた表情をした。
好きな人に、思いやりがないなんて言われれば、花音さんは傷付くに決まっていた。
「そんな、でも、久我先輩…」
「僕は、君のことも、いい人だと思ってたよ」
わずかに僕は、ドキドキした。
これは、所謂四角関係なんじゃないか?
僕は一人の女の子に恋をしている。だけどその子はある男の子に片想い中。だけどその子は別の女の子が好きで、その別の女の子は、恥ずかしながら、僕のことが好きだった…。
恋物語、とかそんな感じだったけど、今ときめく要素は一つもなかった。
「でも、君は、僕の恋を、終わらせた。…そのことについてはひどいと思ってる」
「く、久我先輩…」
花音さんは、泣き出していた。
泣かせるなんて、やめてよ! って叫びたかったのに、何故か叫べなかった。
いつの間にか、周りの人がひそひそ、と話している声が聞こえた。
「あら、何あの子。女の子泣かして」
「顔は可愛いのに、性格は何一つ可愛くないのね。女の子を泣かすなんて」
久我さんは、言った。
「僕はね、君のことが嫌いになったよ」
僕は、我慢出来なくなって、飛び出した。
「ちょっと、おま…!」
言い出したその途端、花音さんは走り出した。
慌てて蒼井さんも追いかける。
そして、いつの間にかトイレから出たのか、葉音君も追いかけた。
僕は、おずおずと引き下がる。
久我さんは、僕を気にする様子もなく、独り言を呟いた。
「嫌われたね…。静香にも、花音にも…」
見つめる後姿が妙に寂しくて、僕は、後ろを向いて歩き出した。
「さぁて、帰るか…」
かすれた声が、後ろから聞こえた。




