……一体ここはどこですか。
「ふぅ……」
朝から大学にいって、それからバイトをして夜遅くになってやっと帰宅。更に、提出が明日までの課題を片づけて家の用事を済ませた。
そんな私は只今、一日の疲れをとるべく、入浴中であります。
今日はラベンダーの香りがする入浴剤をいれたお湯の中に身体を沈めて、何も考えずにただぼーっと時間を過ごした。この時間は、私の中で三番目くらいに好きなものにはいる。ちなみに一番は、眠りにつく前に布団の中で、他愛の無い考え事をしている時間である。
——そうして、ひたすらぼーっと過ごした時間は進むのが早い。
ふと、タオルに包んで持ち込んでいた置き時計に目をやると、入りはじめてからおよそ三十分が経とうとしていた。あんまり長湯をしても身体に毒なので、そろそろ出ようかと身体を起こす。
軽くシャワーで身体を流した後、浴室のドアを開けて脱衣所へと進んだ。
バスマットの上に立って床が濡れないようにしながら、タオルで身体を拭いていく。湯冷めをしない内に、パジャマという名の使い古したジャージを着た。
……喉渇いたし、水でも飲もうかなぁ。
そんなことを考えながら、スリッパに雑に足をつっこんだ。そして、肩にタオルをかけて脱衣所を出るべく、ドアを開けたのだ。
ああ、お風呂に入ったら少し眠くなってきたなと、あくびをして目をこすりながら足を踏み出した。
——そこには、当然住みはじめて2年目になる、見慣れた部屋があるはず“だった”。
しかし、足を踏み出した時に感じる違和感。なにかが擦れて、ザっという音を立てた気がした。
不思議に思って瞑っていた目を開けてみると。
——目の前には、見渡す限り、青々と茂る木々が立ち並んでいたのだ。
「え……なんで?」
思わずそう呟いていた。そしてあまりの出来事に状況が理解が追いつかず、私は目をぱちくりさせていた。
そうだ。これは、夢だ。と思っても、ゆるく吹いていく爽やかな風や、それに伴って、わさわさと鮮やかな緑に色づいた葉を揺らす木々、動物の鳴き声。それら全てが妙にリアルで、とても夢だとは思えなかった。
そろそろ思考を放棄しようとした頭で、そういえば私は脱衣所から出た筈だと思い出し、後ろを振り向いてみたものの、あったのは木だけ。ぐるりと周囲を見渡してみても、あるものは木、木、木。
どうやら、ここは森のようだけれど、この場所を私は知らない。そもそも、虫が大の苦手な私は、こんな自然のあふれる場所には近寄らない。
それからしばらく、私はその場で立ち尽くしていた。
けれど、いくらそうしていても、状況はなにも変わらなかった。しいていうならば、ここにきた時には青かった空の色が、少し赤く染まりはじめていたことくらいだ。きっと夜が近づいているのだ。
夜の森は危険だと、そんなことをどこかで耳にした覚えがある。なにかするなら、まだ明るい内にした方がいいだろう。
そう考えて、私はとりあえず、歩いてみる事にした。
何も理解できてないけど、運が良ければ、誰か人が見つかるかも知れない。そしたら、なにか分かるかも知れない。前向きに、希望をもって進みはじめる。お風呂あがってから何も飲めていなかったから、さすがに喉が渇いたとは思ったけれど、それはこの状況だし、スルーしておいた
この状況下においての不幸中の幸いは、自分がスリッパを履いていたことだった。
ここの地面は主に土と、木の根と、石。もしなにも履いていなかったら、外を裸足で歩くなんて、そんな野生的な事をした事がない私の足がすぐに悲鳴を上げていたことだろう。
一体どれくらいの時間がたったのだろうか。
ふかふかで水色だったスリッパが、土にまみれてすっかり薄汚れ、空の色がすっかり赤から藍に染まり、疲れがピークに達していた頃。
私は森を抜けていた。
森を抜けた先にあったのは、町のようだった。
多くの人が行き交い、にぎやかな話し声やお店の呼び込みの声が聞こえてくる。
そこをきょろきょろと辺りを見回しながら進んでいた私は、行動的にも服装的にも、多分怪しかったのだろう。実際に、いろんな人からの視線を受けた。恥ずかしいのやらなにやら複雑で、なんともいえない気持ちになった。
きょろきょろしてしまうのは、今までにみたことが無いような場所で、純粋に興味があったのもあるし、ここがどういうところなのか観察をしていたというのもある。驚く事にここにいる人達、皆そろって髪の色と目の色がカラフルだった。日本人にはおおよそあり得ない色。染めているにしてもあまりに綺麗すぎた。目も、カラコンを入れているにしては違和感が感じられなかった。ここは……日本ではない別のどこかなのかもしれないと、先程から薄々、そんな気がしていたことを、改めて感じた。
そして服装の方は、うん。周りの人が着ている服が多分一般的で、私の服装は異端なのだろうというのは分かる。でも、1つ言い訳をさせてもらうとすれば、私だってこの格好——ジャージ、スリッパ、肩にタオル——で外に出る気はなかった。というか、出たくない。
これでも一応は、人並みに身だしなみに気を使う女子な訳でして。普通の服だったら、そこまでうくことはなかった——いや、ここの常識はわからないけど——筈。だけど、もう今日は寝るだけだ!と思ってジャージを選択したんです。何度も着てボロくなっているジャージを。なのになんで、自分はこんな訳のわからない場所に来ているのか……。
まあ、考えてもどうしようもないことはひとまずは置いておこう。いや、全く良くないけど、今はそれよりももっと重要なことがある。
さっきからそこらを飛び交う言葉を聞いていて思ったのだ。
なにかを話しているんだろうな、ということは分かるけど、何を言っているのか、が全くもって意味不明だと言う事を。
声は聞こえる。でも内容が分からない。それつまり、私がこの人達の話している言葉を理解できないと言う事。
そもそも英語で話せと言われても、せいぜい自分の名前と年齢を言うくらいしかできないのに、他の言葉なんて分かるはずがない。それでもかろうじて感じ取れるのは、この言葉が、英語ではない“なにか”だということである。
——これって、やばくないだろうか。
たとえば、言葉が通じるのだとしたら、ここについてなにか情報が聞けたり、親切な人がいたら、現在無一文な私も今夜一晩どこかに泊めてもらったりできるかもしれない。
けれど言葉が通じないとなると、私が言いたいことは当然相手に伝える事ができないし、相手がなにかをいっても私にはそれを理解する術がない。
すなわち、万事休すである。
そう考えて、この状況がどれだけ大変なのかをやっと本格的に理解しはじめた。
お金もない、夜寝れる場所もない、言葉も通じない。加えて帰り方もわからない。あるのはボロいジャージと、土汚れが酷いスリッパと、スポーツタオルのみ。
頼れる人も、物も、なんにもない私は、一体これからどうしていけばいいのか。
脳裏に、行き倒れという言葉が浮かんだが、頭をふってごまかした。
……まだ、まだなんとかなる。喉も渇いたし、お腹だって空いてる。正直疲れてもいる。でも。きっと大丈夫。というか、どうにかする!
空元気にも似た気合いを胸に、まずは縮こまっていた背を伸ばして、きびきびと歩いてみた。暗くなっててもなにもはじまらない。
そう気持ちを持ち直した時。
恐らくは女の人、の悲鳴にも似た叫び声のようなものが響き渡った。それに続いて、なにかを脇に抱えた男がこちらに向かって走ってくる。伴って、先程までは明るく賑やかだった周りの雰囲気がガラリと変化し、どこか険悪な雰囲気のざわめきになっていた。
正直な話、言葉がわからないので今なにが起きているのか、ほぼ理解できなかった。でもなんとなく、あの、今こちらに走ってきている男がなにかをやらかしたのではないかということは感じ取れた。
と、そんなことを悠長に考えていたら、いつの間にか男はすぐそこまで迫っていた。私に向かって何やら叫んでいる。表情からして、それはあまり良い言葉ではなさそうだった。同時に、男は脇になにも抱えていない方の手を乱暴に振り回してきた。
ちょ、危ない、危ないって!当たるから!
私は咄嗟の自己防衛で男の腕を掴んで——そのまま華麗な一本背負投を決めていた。