Believable Object
「信じられるものがみつからないの」
「信じるられるもの?」
「そう、心から、頭の芯から信じられるものが」
「僕のことは?」
「そうね、信用できる人だとは思うわ。だからこうして会っているのだし。ごめんね、気を悪くしないで。でもね、そういうことじゃなくて、なんていうか、確固たるもの。これだけは絶対だ、っていうものが見つからないの」
「だから、君という存在は不安定?」
「そう。だから私は強くなりきれない」
「強く?」
「強く」
「そうか、君は強くなりたいんだね」
「そう……私は誰よりも何よりも強く、安定した存在になりたいの」
「悲しいね」
「ええ、悲しいわ」
毎日鬱陶しいほどに暑かった夏の日も終わりかけ、夕方の空気は少しだけぬるく、川辺のススキのような匂いを含んでいた。
メイは、ビルの隙間から見え隠れする橙色に染まる夕日を横目で追いながら、一人暮らしのマンションへとゆっくりと足を運んでいる。
誰も待つ者のいない、2LDKの自宅。
かつてはメイの帰りを心待ちにしている男もいた。
しかし去年の春ごろだったか。男は他に好きな女ができたとかで、メイの元を去っていった。
メイはもちろん悲しかったし、たくさん泣きもした。しかし心の片隅では安堵していたことも確かである。
「誰かに頼るのも、誰かに頼られるのも嫌なの」
これはメイが男と別れて半年ほど経った後、メイがヨウに言った言葉である。
「だから一人になって安堵したってこと?」
「そう」
「まあ確かにあの男は、ヒモっぽい感じがしたしね。メイに頼りっぱなしだったんじゃない?」
「確かに稼ぎは少なかったわね。私の半分以下。それにね、料理も洗濯もへたくそ。結局私が全部やってたっけ」
「そんな男と一緒にいたら、頼られるのはもう嫌、ってなるのもわかるな」
「それはそうなんだけど。なんて言えばいいかな、それだけじゃなくてね。こう、精神的にべったり張り付かれるっていうか、そういうのが嫌だったの。いつも一緒にいたい、とか、今日は何してた、とか。どんな事でも共有したがるの。私ね、心と頭の中には、私だけが知る、秘密のスペースを持っておきたい。土足厳禁、立ち入り禁止区域っていうのかな」
「まあ、それはわかるよ」
「わかってくれる?」
「ああ、とっても」
「……こういう風にね、誰かに共感を求めて、そして共感を得て安堵してる自分って、凄く弱いと思うんだ。こういう馴れ合いみたいなのも嫌だから、あれから誰とも付き合ってないのにな。まだまだ修行が足りないわ、私」
「馴れ合い、なのかな」
「そうだよ、馴れ合いだよ」
自宅に辿り着いたメイは、手を荒いうがいをすると、冷蔵庫からライトビールの缶を取り出した。予め冷やしておいた透明のグラスも一緒に冷蔵庫から出す。
コポコポとグラスに注がれるビールの音が、耳に心地よい。
赤ワインの小さな染みが残るベージュのソファーに腰掛け、ミュージック端末をスピーカーにセットする。昔流行ったポップミュージックが、電子音を刻みながら流れ出す。
乾いた喉に勢いよくビールを流し込むと、一日の疲れが少しだけどこかへ落ちていく気分になる。
テーブルに置いた携帯電話が振動した。
グラスを持っていない方の手で着信履歴を確認する。ヨウからのメッセージだ。
(宗教に入信してみたら?一神教なんて、唯一の絶対神がいるんだから、これ以上確固たる存在ってないよね?)
メイは思わず顔をしかめる。
(何?突然。何かの冗談?それともヨウって何か宗教に入ってたっけ?)
ビールを口に運びながら、片手で返信を打つ。
すぐに返信が入る。
(いや、冗談じゃないよ。僕は特に宗教に入ってないし、多分無心論者に近い立場だと思うよ。でもさ、日本人って、宗教に偏見がありすぎると思うんだよね。神様を信じて、その存在と教義に絶対の信頼を置くって、全く悪いことじゃないと思うんだ。それで自分の心の安定が得られるなら、至極健全なことじゃない?)
メイは台所に向かい、つまみになりそうなものを物色する。
冷蔵庫の奥の方に、チーズがひとかけら転がっていた。それと数日前に作りおきしていた野菜の煮物を取り出す。煮物は電子レンジへ入れる。
煮物が温まるのを待つ間に返信を打った。
(宗教に入信するって、私も考えたことがあるのよ。でもさ、この歳になっていきなり、イエスキリストを信じろ、って言われても無理なのよ。キリストの存在なんて全く気にしないで、人生の半分近く生きてきちゃったんだよ。それなのに今更、キリストが自分のことを救ってくれる、彼は全ての中で唯一絶対の存在だって聞かされても、全く響かないんだよね)
(まあ、そうだろうね)
間髪入れないヨウからの返信に、メイは軽いため息をつく。
そして返信を打ち、携帯の電源を落とした。
(でも、ありがとう)
メイのありがとうに対するヨウからの返信は、未読のまま残された。
「両親のことは尊敬してるよ。私という人間をこの世に生み出して、過不足なく育てあげてくれたんだから」
「愛情をもって、大切に?」
「そう、金銭的苦労もなく、暴力を振るわれることもなく」
「それって完璧な両親だよね。そういう存在って、絶対的に信じられるものじゃない?」
「ヨウはどう?両親は完璧で両親に絶対の信頼を寄せてる?」
「僕の両親はさ、お世辞にも完璧とは呼べる人たちじゃないからさ」
「例えば?」
「例えば、父親はアル中で母親をよく殴ってた。僕も姉もよく殴られた。母親はそんな父親に抵抗することもなく、僕達を庇うこともなく、ただいつも黙って殴られてた」
「そんな......」
「でもさ、そんな両親でもやっぱり僕は好きなんだよね。最近は父親も歳のせいか、酒の量が減って丸くなったし、母親も頼りなかったけど、料理洗濯掃除はきっちりやってたから、そういう面では苦労したことなかったし。正直昔は憎んでたこともあったけど、今はそういう気持ちはかなり減ったかな。親子はどんな時でも、何があっても親子なんだよ」
「だから絶対的に両親のことを信じてるってこと?」
「信じてる、というよりも、両親は永遠に僕の両親であって、それ以外のものではなくて。だから唯一絶対の存在っていうのかな。そこに人としての良し悪しは関係してなくて、もう両親であるってことが確固たるものなんだよ」
「......」
「だから、両親よりも先には死ねないな、なんて思ったり。ねえ、メイ。メイの両親が愛し合って、結果としてメイがメイのお母さんのお腹から生まれてきた事は事実なんだよ。そのことは絶対的に信じられるって思えない?つまり両親のことは絶対的に信じられる存在だって思えない?」
「......わからない」
「苦しいね」
「うん」
月が見える。
メイの部屋は三階にある。狭いベランダに身を乗り出すと、ビルと電柱のシルエットの上部に、満月になりかけの、端の少しかけた月が青白く光っているのが見えた。
メイが月を見上げると、つられて月を見上げたメイの周りの人たちは、月なんて見るのは久しぶりだ、とよく言う。
メイはよく月を見上げる。
夜の街に浮かぶ金色に光る月も、朝方の薄もやの中、白く透けるように輝く月も好きだ。
メイと言う名前には月という漢字が含まれる。そのせいもあるのかもしれない。メイは幼いころから月が好きだった。
「絶対的な存在は、常に善である必要がある?」
ベランダから見える月を背に振り向いたメイは、リビングのソファーに座るヨウに話しかけた。
「否」
「全身全霊ををかけて信じるものは、完璧に善である必要がある?」
「否」
「それは何故?」
「愛する人が、常に善人とは限らないよ。誰から見ても悪人という人を好きになることもあるし、殺人を犯した人を好きになる人もいる。つまり自分が何らかの強い感情を向ける対象と、その対象自体の性質は無関係ということ。善人だから好きになる訳ではない。好きな人が善人だった場合は、好きになった人がたまたま善人だったと言う方が正確だと思う」
「その理屈が“信じるもの”にも当てはまるということ?」
「そう」
「つまり、私が信じるものは、完全な善である必要はないということ」
「そう。揺らぎ、は必要だよ」
「揺らぎ?」
「バリエーション。変化。差異」
「でも私は“確固たるもの“が欲しいの」
「......月は、今君の背に光る月は、常にそこにあるね」
メイは振り返り、端の少しだけ欠けた月を見上げた。
「君の名前にも月がある。君と言う存在は、僕が消えろと言ったら消えてしまう存在かい?」
「いいえ」
「月も君も、今ここにある。それは確かなことだと言えないかい?」
「言えるわ」
「月は欠ける。君は揺らぐ。しかし月も君もここにある。それは確固たるもとだと僕は思うよ」
「つまり自分自身を信じろ、ということ」
「そう。君自身は、君が信じるものに値するだろう?」
「......ええ」
「君自身を君が心の底から信じられたら、君は君の望む通り、強くなれるはずだ」
「強く」
「そう。強く、安定した存在に」
「ヨウ。だからあなたは強く、安定しているのね」
「そうかもしれないね」
ヨウの瞳が三日月のように三角になる。
優しい笑顔はメイに向けられたもの。
満月のように大きく開かれたメイの瞳が、ヨウの瞳をまっすぐに見つめた。
強さとは。
安定とは。
自分を信じることは、他人を信じることよりも難しいかもしれない。
二つの選択肢から一つを選ぶ、自分の判断。
十の出来事から、一だけを正しいことだと選りすぐる決断。
横にいる誰かが決めてくれたら、もし間違っていても後でその人を批判できる。
彼がそう決めたから。
両親がそう言っていたから。
学校ではそう教えてくれたし、会社の上司もそうだと言っている。
だから私は悪くないし、私は間違っていない。
しかしそうやって他人に責任を押し付けていると、徐々に他人が信じられなくなり、自己が緩やかに不安定になっていく。そして新たにすがるものを求め、その対象が見つからない苛立ちから更に他人を責め、そしてそんな他人を責めてばかりの自分に嫌気がさしていく。
自分で決めたのなら、誰のことも批判できない。自分で自分を糾弾するしかない。
自らの手で自らに向けた鋭い刃を、受けて切り返すだけの強さ。
自分へ向けられた言葉や感情は、それはとてつもなく深く自分自身を傷つける。自分へ向ける分だけ容赦がない。そしてその傷を癒せるのは、本当の核心部を癒せるのは、誰の手でもない自分自身だけ……
強くなりたい。
メイは心の底からそう思った。