問題発生?!
牧場に着くと、心配した麻奈美が車の音に気がついて駆け寄ってきた。麻奈美が車に近寄るのを見ていた涼子が悟朗を呼び、牧場スタッフが全員和馬たちの前に集まった。
「美空ちゃん、大丈夫かい?」悟朗が、手袋を脱ぎながら近寄ってきた。
「大丈夫です」美空は笑顔で答えた。
「ちょうどみんないるから、報告があります」
和馬の襟を正し、改めて全員を見た。変に改まった和馬を見て、全員が和馬を白い目で見た――だが、和馬はまったく気にしなかった。
「今日病院に行ってきましたが、美空ちゃんのお腹の中に子供がいます」
全員の目が点になっていた。突然の報告に、頭が真っ白になり何も言葉が出てこない、そんな状態に見えた。
「ホントなの? 美空ちゃん」
麻奈美が今にも泣きそうな声で訊くと、美空はうつむきながら小さくうなづいた。
「で、父親はオレです」
「は!?」
この報告には、言葉が出て全員が和馬を睨んだ。牧場のアイドルに何してくれてんだと、批難の目はある程度予想していた和馬も、こんなに怖いものとは思わなかった。
「あんた! ここで預かってる人様の子供になんてこと――」
「 ちょっと、話を聞けって」和馬は、麻奈美を落ち着かせて話を続けた。「で、美空ちゃんの気持ちも聞いて、この子を産んでもらうことにしました」
「あんた、そんな簡単に――美空ちゃん、いいのかい、それで?」
「はい!」美空は、力強く答えた。
「そして、この場でもう一つ大切なことをしたいと思いますので、立会人になってください」
というと、和馬は美空に向き直り、大真面目に美空を見た。美空も緊張した面持ちだった。
「初めて美空ちゃんを見たときから、ずっと美空ちゃんの顔が頭から離れなかった。一緒に働くってことになったときも、恥ずかしくて言えなかったけど、すごく嬉しかった。一緒に働いてからも、美空ちゃんが――」
「長いな……」
ボソッと悟朗がつぶやいた。涼子が恐い顔で悟朗を肘で小突くと、悟朗は慌てた表情で口を押さえた――和馬は、一つ咳払いして話を続けた。
「お腹の子供の助けもあったけど、やっと正直に気持ちが言える。オレと結婚してくれませんか?」
美空は、和馬の言葉に目に涙を溜め、笑顔で大きくうなづいた。その返答に和馬も笑顔がこぼれた。
「いや~、こいつはめでたい! 今日は、宴会だな!」
「おめでとう、二人とも!」
悟朗も涼子も、自分の子供のように二人の結婚を喜んでくれた。
「おめでとう……」
麻奈美は、美空の手をしっかり握り、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら泣いていた。美空も、溜めていた涙を我慢できずに流して喜んだ。
「いい子を嫁さんにして、浮気したら大変だぞ」悟朗が、和馬の肩に手を回し耳元でつぶやいた。
「愛する家族は何人いてもいいけど、愛する人は一人でいいです。残りの愛は、馬たちに――」
「かっこいいねえ!」
和馬は、人生で一番の喜びを感じていた。
祝福を受けた次の日、仏壇父親に改めて結婚の報告をしていた和馬に、一本の電話が届いた――河内からだった。
「もしもし」
(結婚おめでとう!)
「ありがとうございます――ていうか、何で知ってるんですか?」
( 春衣ちゃんから聞いたよ。美空ちゃんからメールきたって)
「え、春衣が何で河内さんと?」
(春衣ちゃん、この春からうちの店で働いてるんだよ)
「え、そうなんですか?」
(そうなんだよ――あ、柳の親父がもうそろそろ行くと思うからよろしくね。おめでとう!)
と言うと、河内は電話を切った。それと同時にインターホンが鳴った。麻奈美が出ると、大きな声が聞こえる――柳だ。何てタイミングだ!
「和馬君!」
柳の声に、隠れようとした和馬だったが、押し入れに頭を突っ込んだところで柳に見つかり、強引に引っ張り出された。
「和馬君――」柳は、鬼の形相で和馬に詰め寄った。和馬はその迫力に後ずさる。
「君っていう男は、君っていう男は――」柳の顔が迫ってくると、和馬の顔がどんどん引きつっていった。
「君っていう男は……何て羨ましいんだ!」
「へ?」
和馬は、脱力して柳の顔を見た。柳は、顔をグチャグチャにして泣いている。よほど、美空を取られたことが悔しかったのだろう――真っ赤に目が腫れている。
柳が、泣きながら美空のいいところを言っていると、和馬の携帯電話が鳴った――春衣からだった。
「はい……」
(手出すなって言ったでしょ! 気持ちの整理するのに一晩かかったじゃないの!)
「お前もかよ……」
春衣の説教が十分ぐらい続き――その間も、柳は、和馬の直さなければいけない点を力強く語っていた――やっと終わったかと思うと、今度は杉本から着信があった。
(お前、どういうこっちゃ!?)
「勘弁してくれよ……」
やっと電話も終わり、柳も帰った頃には昼になっていた。
「人気者と結婚すると大変ね」
美空の悪戯な笑顔が、和馬はある意味恐かった。
そのあと、二人は加奈子に会いに行き、結婚と子供のことを報告すると、加奈子は泣いて喜んでくれた。
そして、一ヶ月後。和馬と美空の結婚話が落ち着いてきた日曜日。マジックファーム初の重賞挑戦の日だ。美空は休みを取り、春衣と一緒にヒイアカのレースを観戦しに函館に行っていた――そして、またしても朝から落ち着きのない美空から電話がかかってきた。
「美空、落ち着けよ」
(落ち着けないよ! マス子が重賞に挑戦するんだよ、これが落ち着いていられますか?)
「お前、重賞ってわかってる?」
(わかってるよ! すごいレースでしょ?)
「……間違ってはいない」
美空のアバウトな返答に、和馬は、電話の向こうで苦笑いだった。
「春衣は、元気なの?」
(うん、元気だよ。今日の朝、二人で朝市行って、おいしいご飯食べたよ)
「そうか、よかったな。ちょっと春衣に代わってくれる?」
(は~い)
何か電話の向こうで、春衣が美空に怒っているのがわかる。何か、怒鳴られそうな雰囲気で春衣は電話にでた。
(何よ!?)
「何怒ってるんだよ?」
(何急に夫婦みたいにイチャイチャしてさ)
「全然してねえよ……」
(で、何?)
「まあ、何だ……。美空のこと頼むな」
(わかってるわよ!!!)
和馬は、思わず受話器を耳から離した。春衣は、和馬の耳をつんざく声で叫んだあと電話を切った。
「……ったく」
和馬は、耳を押さえながら受話器を置いた。和馬は、美空の体も気になっていたが、もう一つ気になることがあった。
三時二〇分。いよいよ函館二歳Sが始まる。パドックでは、ちょっとイライラしていたが、気になるのは馬体重だった。
「マイナス六キロか……」
ゲート裏で発走を待つヒイアカを見て、和馬がつぶやいた。
「和馬君も気になった?」
「悟朗さんも?」
和馬が気にしていたことを、悟朗も気に掛けていた。
「いや、前走もそうだったんですけど、ちょっと馬体が細いような――」
「そうなんだよね。腹周りもちょっとね……」
テレビに映っているヒイアカが、他の馬に比べて一回り小さく見える。
「何もなければいいけど……」
和馬は手を組んで、祈るようにテレビを見ていた。
函館十一R 函館二歳S(GⅢ)
一枠 一番 フェニシング
二枠 二番 モンスターハンター
三枠 三番 マイネコクーン
四番 クローディア
四枠 五番 ミンナノチカラ
六番 コスモモモ
五枠 七番 アドマイヤゾーン
八番 バロンドールピサ
六枠 九番 ヒヒマント
十番 トールヘイロー
七枠十一番 ローレルモンテリオ
十二番 サザンローズ
八枠十三番 エアウォーク
十四番 ヒイアカ
「八月に入り、夏本番になって函館最後の開催となりました、函館二歳S。雲一つない青天の下、函館二歳チャンピオンが決まります。来年のクラシック候補十四頭が争う一二〇〇m。だんだん、スタンドのボルテージも上がってまいりました。
一番人気は、一三番エアウォーク、二・四倍。二番人気は、七番アドマイヤゾーン、三・九倍。三番人気は、八番バロンドールピサ、五・二倍となっております。
解説の三村さん、二歳馬の初めての重賞となりましたがいかがですか?」
「そうですね、ややテンションの高い馬もいますが、ある程度落ち着いてはいると思いますよ」
「三村さんの本命は、十三番のエアウォークですが」
「短距離でも活躍した父親のタイキシャトルの体つきにそっくりですからね。短距離向きな馬体と、洋芝でもいい走りを見せたので本命にしました」
「さあ、レースも近づき、ゲート入りが始まっていますが、その他に気になる馬を何頭か挙げますと」
「七番のアドマイヤゾーンの馬体の張りがいいですけど、ちょっとうるさいんですが、十四番のヒイアカも、前走いい走りしてましたからね、穴として注目したいです」
「さあ、大外にそのヒイアカが収まってゲート入り完了なんですが、ちょっと嫌がって入りませんね」
「ちょっと、テンションが上がってましたからね」
「ジョッキーが尻尾を持って、なんとか収まりました。ゲート入り完了。
スタートしました。二番のモンスターハンター好スタート。その他の馬も出遅れなくスタートしました。
さあ、熾烈な先頭争い。二番のモンスターハンターは好スタートを活かして先頭に立ちました。それにコスモモモとローレルモンテリオが加わっていきます。その直後に、フェニシング、外ヒヒマント、間に挟まれてバロンドールピサ、半馬身離れてアドマイヤゾーンとトールヘイロー、その外に持ってかれ気味でヒイアカ、ちょっと折り合いを欠いている。一馬身離れて五番ミンナノチカラ、マイネコクーン、クローディア。ここにいました、一番人気の十三番エアウォーク、後方から二番手あたり、そして最後方に十二番サザンローズです。
やや縦長の展開で、早くも三コーナーから四コーナーに入ります。先頭は、ここでコスモモモに変わりました。モンスターハンターはここで一杯か。フェニシング、クローディアもその直後に来て、後方集団も迫ってきます。
さあ、早くも先頭の馬が直線に入る。先頭は変わってコスモモモ。だが、後方集団の手応えがいい! 内からアドマイヤゾーンが並びかける! 大外から、エアウォークとヒイアカがいい脚だ! しかし先頭は、アドマイヤゾーン、真ん中からローレルモンテリオ、バロンドールピサも伸びている! 大外からヒイアカがすごい脚! エアウォークはちょっときつい!
アドマイヤが抜けた! 体半分のリード! 二番手、バロンドールピサ! ヒイアカがきた! ヒイアカがきた!
だが、アドマイヤゾーン! アドマイヤゾーンが先頭でゴールイン! 二着は、粘ったバロンドールピサと追い込んだヒイアカ! これは写真判定。一番人気のエアウォークは着外。
勝ったのは、アドマイヤゾーン! 函館二歳チャンピオンに輝きました。いや、しかし――」
一着の馬がゴールすると同時に、和馬たちは深いため息をついた。
手に汗握る一戦だった。男馬相手に、あそこまで追い込んできたヒイアカを見て力が入り、勝てそうな気もした。しかし、写真判定の結果、三着。あっぱれでもあるが、やっぱり負けてしまうと悔しかった――たぶん、一番悔しがっているのは、美空だろう。今頃、春衣と一緒に悔しがっているのが想像できた。
「あと一〇〇mあれば……」
悟朗も悔しそうだった。テレビの前にいる全員が、力が入り過ぎたのか、いたる所に座って脱力し悔しがった。
「一〇〇mあればとか、もう少し前にいればとか、折り合いがつけばとか、馬体だとか運とか、なんだかんだいいわけしても結果は変わりませんよ。頑張ったマス子に拍手だよ。次も頑張ってもらいましょう! さ、仕事に戻りましょう!」
和馬は、手を叩いてみんなを促した。みんな、悔しさを払拭することはできなかったが、マス子を讃えるように笑顔で仕事へと戻っていった。
レース後、和馬が厩舎から自宅に戻るとき、ふと小さな丘を見た――スノーが、デビューするのがとても待ちどうしかった。
次の日の昼過ぎ、美空が両手にお土産を抱えて帰ってきた。帰ってくると同時に、みんなにあのレースの興奮、マス子の頑張った姿を熱く語り――みんなは、その熱弁に圧倒されて、ほとんど内容が入っていなかったが――疲れたのか、その日は、早めに寝てしまった。
「もう寝たのかよ?」
「ええ、よっぽど疲れたんじゃない」
美空の部屋を覗きに行った麻奈美が、微笑みながら戻ってきた。
「まあ、マス子がいい走りしてたからな。一番悔しかったのは、あいつだからな」
「そうね……」
「ああ、オレも早く興奮してぇな!」
「何、マス子のレースは興奮しなかったってこと?」
「違うよ! スノーだよ、ス・ノ・ー!」
「ふふふ、あんたたちは、似た者同士ね」
「……どういうこと?」
そして、ついにスノーの――ユメミガオカのデビューが決まった。
「九月の二週目の日曜日、札幌の新馬戦に決まったって、今河内さんから連絡がありました」
「九月か。スノーにはちょうど涼しくなってきていいんじゃないか」
「スノーは暑さに弱いからね」
林田夫妻も、スノーのデビューが決まり嬉しそうだ。麻奈美と美空も、手を叩いて喜んだ。だが和馬には、気になることが二つあった。
「だけど問題が発生したんだ」
和馬の一言に、みんなの顔から笑顔が消え、心配の表情となった。
「何だ、問題って? やっぱり、本気で走らな――」
「それもあるらしいですけど、もっと深刻な問題です」
「何なの?」
麻奈美の心配そうな顔を見て、和馬がゆっくりと話し始めた。
「本気で走っていないのは、おいおいなんとかするって言ってたけど――どうにかなるのかな――もっと深刻なのは、騎手なんです」
「騎手? どういうことだ?」悟朗が、不思議そうな顔で和馬を見ていた。「馬が、人の言うこと聞かないなら、ちゃんと調教すれば大丈夫じゃ――」
「いえ、そうじゃないんです。調教助手が乗っても、本気じゃないにしろ走るんです。人の言うことは聞くんですが、騎手を背にすると、何を考えているのか、その場から動かないんです」
「そんなことあるの?」
「悟朗さん、訊いたことある?」
美空も、疑い深い目で訊いた。麻奈美も、にわかには信じられないといった表情をしている。
「うん……、調教が嫌いな馬は、なかなか言うことを聞かないとか、レースになってゲートを嫌がって入らない馬もいる。緊張してゲートを出なかった馬もいるし、馬にも人と同じく性格があるからね。でも、スノーはそういう馬じゃないし……。和馬君ならわかるだろ?」
「はい。スノーは、本気にはならないけど、とても優しくて賢い馬です。もっと、違う理由があると思うんですよね……」
「馬はしゃべれないからね……。スノーが何を考えているのか……」
涼子の言葉を最後に、しばらく誰もしゃべらなかった。悟朗も天井を見たまま、涼子もソファにもたれ、美空と麻奈美もうつむいて動かなかった。そんな中、和馬が重い口を開いた。
「オレ、札幌に行こうと思います。札幌に行って、スノーに会ってきます」
「……それがいいかもな。スノーの気持ちを一番理解しているのは、和馬君だしな。行ってきな、牧場長!」
「牧場は、私たちが見てますから」
和馬は、心から思った――本当に林田夫妻は、心強く、頼りになる。美空と麻奈美も笑顔で了承してくれた。和馬は、みんなに感謝し、次の日札幌へと向かった。
「一人なの?」
「ええ、みんなは牧場の仕事がありますから」
「そうなんだ」
札幌に着いた和馬は、電話をかけて河内と合流した。さすがに、札幌という北海道一の都会の駅は人が多く、東京に住んでいた頃を思い出した――東京の方が人は多かった気もしたが、長い間人混みから離れると、人に酔ってしまいそうだった。
「急にすいません。迷惑じゃなかったですか?」
「とんでもない! あの馬のことを一番理解している和馬君が来てくれるのが、何よりも頼りになるよ。和馬君こそ大丈夫なの、牧場は?」
「僕より頼りになる人もいますから、問題ないです。牧場長と呼ばれているのに、恥ずかしいですが……」
和馬は、顔を下に向けて恥ずかしそうに話した。和馬は、自分が本当に牧場長でいいのかと、密かに悩んでいた。父親の死で、受け継いだ牧場のため、必死で頑張ってはいたが、人の上に立つ人間としての器は自分にはないと思い、誰にも言えない悩みとして、和馬の中で悶々と晴れない霧のように存在していた。
「そんなことはないよ。オレも飲食店を経営してるけど、オレより料理出来る奴もいるし、オレより経営に向いてる奴もいる。だけど、オレにしか出来ないことがあったから、今こうして代表取締役ができるんだ」
「自分にしか出来ないこと?」
「そうだよ。オレは、人に雇われるのが嫌だった。安定っていう言葉も嫌い。損しても、嫌われても、自分がやりたいように生きる。これが人と違うところだよ。自分の信念というものを曲げないってことさ」
「河内さんはすごいですよ。だから、みんな河内さんについていくんですね」
「ま、カッコいいこと言ってるけど、オレも怒られてばかりだからね、他の幹部に」
「オレの〟自分にしか出来ないこと〝って何ですかね?」
「それは自分で見つけないと。自分で見つけてこそ、信念になるんだよ」
「……そうですね。あ、改めまして、春衣がお世話になってます」
二人は、笑顔で話しながら駅の北口を抜け外に出た。
外に出ると、夏最後のまぶしい日差しが、和馬たちを照らした。光りが照らす札幌の町並みはとてもきれいで、早来とは違い、大勢の人が忙しなく行き来していた。
「今日泊まる所は?」
「まだ決めてないんです。こっちにきてから探そうかなと」
「なら、うちに泊まりなよ。部屋は開いてるから」
「ホントですか? 助かります」
「それじゃあ、荷物置いて札幌観光でもするかい?」
「え、馬には会わないんですか?」
「明日の朝、調教の前に会えるよ。ちょうど、杉本先生も札幌に来てるから」
「杉本先生も札幌に?」
「札幌というか……すすきのに」
「ああ……そんな感じがします」
和馬と河内は、杉本がすすきののキャバクラで女の人と飲んでいるところを想像したのだろう。二人とも、目を合わせて苦笑いだった。
「とりあえず、荷物を家に置きに行こう」
「わかりました。ここから近いんですか?」
「そこ」
「え?」
和馬は、河内が指差した方へ顔を移した。
「これ……ですか?」
「そうだよ」
河内が指差した場所に立っていたのは、駅からほど近い高層マンションだった。
「マジ……」
「ほら行くよ」
「は、はい!」
和馬は、先を歩く河内を追いかけた。
観光を楽しんだ和馬は、その日の夜、合流した杉本と厩舎のスタッフとともにすすきのを楽しんだ――キャバクラにも行ったが、河内と和馬はすぐ帰ってきた。なんとなく後が怖いので……。
次の日の朝早く、和馬は眠たい目をこする河内と一緒に札幌競馬場にいた。
「河内さん、オレ競馬場初めてなんです」
「へえ……、そうなの……?」河内は、まだ眠たそうだ。
「向こうに、もっと眠そうな人がいますよ」
和馬が指差した方に河内が目を向けると、帽子を深くかぶって、調教助手に指示を出している杉本だった。
「スノーだ!」
和馬は、思わず声を上げて、スノーに駆け寄り、首に抱きついた。声に気付いたスノーも、和馬を華奢な体で受け止めた。
「元気か、スノー?」
スノーは、和馬の顔に鼻をすり寄せて答えた――僕、頑張ってるよ。そう和馬には聞こえた。
「少し細くないですか?」
「夏バテしてたからな。それでも、他の馬と同じメニューをこなして、頑張ってたからやろ。この馬は根性あるで。それでも、ケロッとしてたからな」
「あの、気になったことがあるんですけど……」
「何や?」
杉本は、二日酔いがひどいのか、かなり機嫌が悪かった。それでも、和馬は言っておきたいことがあった。
「ヒイアカもそうなんですが、まだこの馬たちは成長途中です。体もこれから大きくなるのに、こんな細い体で大丈夫なんですか? オレは、この馬たちの健康面が心配なんです。あまりにも細すぎますよ」
「大丈夫やって。調教をこなしてる証拠や。オレの調教はスパルタやからな」
「それが心配なんです。ヒイアカは、頑張り屋なんです。頑張り過ぎて、故障とかに――」
「大丈夫、大丈夫! オレがちゃんと管理するから」
面倒くさそうに話す杉本に、和馬は信用することができなかった――一番この馬たちのことを理解しているだけに、和馬の心に不安だけが積もっていった。
和馬は、杉本と河内と一緒に、スノーの調教を見た。体は細いし、走りに力が入っていない。こんな状態で、本当にデビューできるのか?
「まあまあやな」
ストップウォッチを見た杉本は、ボソッとつぶやくように言った。本当に、この人に任せて大丈夫なのか?
「全然、走りになっていませんよ」
「騎手が乗ったら変わるがな。その騎手が問題や」
本当に、騎手だけで走りが変わるのか?
「なあ、あの馬を本気にさせる騎手知らんか?」
「知りませんよ」
「誰もダメなんですか?」
「誰もダメや。声掛けたリーディング上位の騎手も、期待の新人たちもダメや」
解決策が見つからない三人は、黙ってトラックを走っている馬たちを見ていた。
すると、ある騎手に目が止まった和馬が、突然何も言わずに立ちあがった。二人は――杉本は大きなリアクションで――和馬を見上げた。
「何やねん、突然?」
「あの人、月崎騎手ですよね?」
「ああ、あのツキダシか?」
「ツキダシ?」
「そうや。一番人気を裏切る、穴馬は穴で終わらせる通称ツキダシや。昔は、GⅠも勝ったことのあるええ騎手やったんやけどな」
河内に説明している杉本の目は、とても冷たい目をしていた。
「あいつのせいで、なんぼ負けたと思ってんねん」ただの妬みだった。
「オレ、ユーアンファームで騎乗の勉強しているとき、田中さんから言われたことがあるんです。「名騎手の月崎騎手の乗り方に似てる」って」
三人は、調教をしている月崎駿に目をやった。
その乗り方は、お尻を他の人より高くつき上げるのが特徴だった。小さな体をかばう仕草なのだろうが、それが月崎のトレードマークになっていた。今は、G1どころか、重賞も勝っていない。地方の競馬場を回る、いわばローカル騎手となっていた。
「あの人に乗ってもらいましょうよ」
「何でや?」
「何でって、騎手が決まってないんですから。あの人には乗ってもらったんですか?」
「いや、乗らせへん。あいつのせいで、なんぼ負けたと――」
「あなたは今、調教師ですよ」
「そうですよ。馬主として、あの人に乗ってもらいましょう」
「……好きにせえ」
ふて腐れる杉本を置いて、和馬と河内は厩舎へ向かった。
和馬は、ちょうどトラックから帰ってきた月崎を呼び止めた。月崎は、突然現れた男二人に驚いていた。
「初めまして。馬主の河内と言います」
「ああ、どうも……」
「突然ですが、お願いがあるんですが――」
「うちのスノー……じゃなかった、ユメミガオカに乗っていただけませんか?!」
和馬は、興奮気味に頼み込んだ。月崎は突然の騎乗依頼に少々戸惑っていた。
「和馬君、興奮しすぎだよ。すいません。実は、杉本厩舎に預けている僕の馬に乗ってもらいたいんです」
「杉本厩舎……? ああ! あの馬ですか? 騎手を乗せて走らない?」
「走らない?」
「ええ。騎手の中で有名ですよ。〟西のユメミ、東のウォー〝って」
「〟東のウォー〝?」
「ユーアンの馬だよ」
「あの黒い馬ですか?!」
和馬は、驚いた。あのスノーと走っていた黒い馬が、スノーと同じ問題を抱えていたなんて――和馬は、ちょっとした二頭の宿命を感じていた。が、それと同時に、騎手の中で騎手を乗せて走らないっていう噂で有名なのが悔しかった。
「確か、〟ウォーアーマメント〝って言う名前だったかな」
「そうです。僕も見たことがあるんですけど、あの馬はちょっと次元が違いますね。あの馬は、来年の〟クラシック三冠馬〝だと言う人もいるぐらいです」
「〟ウォーアーマメント〝……」
和馬は、あの黒い馬体を思い出していた。確かに、あの馬は強い。それは併せたことのある和馬が一番わかっている。だけど、スノーも負けてない! 和馬は、自信があった。
「で、なんでしたっけ?」
「ああ! 月崎さん、ユメミガオカに跨ってほしいんです。お願いします!」
「僕がですか? 無理ですよ! だって、みんなダメだったんですよね? 僕じゃ――」
「大丈夫です! 僕が、保証します!」
「ところで、あなたは?」
「あ、すいません。マジックファームの牧場長をしている、前沢和馬です」
「ユメミガオカの生産牧場の長です」
「ええ?! こんなに若いのに?」
「いろいろありまして……」
和馬は、恥ずかしそうに頭をかいた。自分で自分のことを、〟牧場長〝と言ってしまった――和馬は我に返ると、耳が赤くなったことに気付いた。
すると、ちょうど、調教助手を乗せたユメミガオカが戻ってきた。
「あの馬ですか?」
「そうです。お願いできませんか?」
「……乗るだけですよ。ダメだと思いますけど……」
河内の丁寧なお願いに、月崎が渋々だがユメミガオカに乗ることになった。
ユメミガオカに月崎が跨ろうとしたとき、憮然とした杉本が戻ってきた。
「無理やろ?」
「まだ乗ってませんよ」
和馬の冷たい言葉が、杉本の機嫌をさらに悪くした――だが次の瞬間、そんな杉本も、そして和馬と河内、厩舎スタッフも驚いた。
ユメミガオカが、自分からトラックへと歩いて行ったのだ。その場にいる誰もが驚き、跨っている月崎は、突然のことに困っている。
「どうしますか?!」
「とりあえず、トラック馬なりで回って来い!」
さっきまでふて腐れていた杉本が、慌ててスタンドへと走っていった。
「さっきまで、あんなに機嫌悪かったのに……」
「まあ、いいじゃない。オレたちも行こう」
納得のいかない和馬を、河内はなだめながら、二人は杉本のあとを追いかけた。
「来た!」
息を切らした三人がスタンドから見つめる中、ユメミガオカは月崎を乗せて走っていた――その走りは、助手が乗っているときも軽やかで、脚の出方がスムーズだ。全身を使って、推進力ある走り方に、三人は驚きながらも手応えを感じた。
「全然ちゃうな」
「これが、ユメミガオカの走り……」
「でも、この走り方は牧場のときと変わらない。本当の走りではないですよ」
「でも、これでもいいとこまでいくんじゃない?」
「そうや。もう重賞クラスやで!」
厩舎に戻ると、ユメミガオカをなだめている月崎がいた。
「ご苦労さん。どうや、この馬は?」
「どうもこうもないですよ! こんなすごい馬初めてです」
「じゃあ、この馬の主戦、お前に頼むわ。ええやろ?」
「馬主として、何も問題ありません」
「牧場長としてもです」
「僕が……主戦? いいんですか、僕で?」
「いいんですかも何も、あなたしか乗れないんですよ。この馬」
「オレの勘は当たっていた……」
「たまたまやろ――だけど、オレの目に狂いはなかったな」
「乗せないって言ってたじゃねえかよ……」
「何や?」
「別に」
「……わかりました。よろしくお願いします!」
月崎は、和馬でも杉本でもなく、河内に頭を深く下げて了承した。
「一緒に頑張りましょう」
河内は、月崎と強く拍手している光景を見て、和馬は一件落着と、問題解決に一役かえたことを満足して早来へと帰っていった――杉本は、月崎と河内が握手しているのを面白く思ってはいなかった。
「と、まあ、こんな感じで問題解決さ」
「和馬さんは、キャバクラに行ったの?」
「行ってないよ!」
「……」
「行ってません……」
「……」
「行くわけないじゃない……」
「……」
「……行きました」
「最低……」
「 行ったけど、すぐに帰ってきたよ。全然、面白くないんだもん。ホントだよ!」
「ま、今回はスノーの問題を解決したから許してあげましょう!」
「さすが、美空さん!」
「でも――」美空は、そっと和馬に顔を近づけ耳元でささやいた。
「今度キャバクラに行ったら――殺す」
そう言うと、美空は和馬の頬にキスをして自分の部屋に戻っていった。
閻魔女王のキスは、しばらくの間、和馬を凍らせていた。
「美空ちゃんがヒステリーにならなくてよかったね」
麻奈美は、笑って和馬を見ていた。