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デビュー戦

 ユメミガオカとヒイアカ――スノーとマス子がいなくなった牧場は、次の世代の育成に力を入れていた。

 「スノーやマス子に次ぐ、期待の二頭は元気だな」

 「そうですね」

 和馬と美空は、初めてスノーとマス子に跨ったときのことを思い出しているに違いない――二人とも、何もしゃべらず、ただゆっくりと馬を歩かせていた。

 初めて気がついたことがあった。牧場内にある木に、リスが棲みついていた。和馬が、美空に指差して教えると、美空は満面の笑みで笑って見ていた。

 こんなゆっくり、美空を見たのは初めてだった。愛馬のスノーがいなくなってから、美空を意識することが多くなった。高校卒業からこの牧場で働き始め、三年も経つと、立派な大人に――

 「何考えてるんですか?」

 美空が、心配そうに和馬の顔を覗いていた。

 「いや、スノーがいなくなって――」

 和馬が喋っていると、跨っていたスノーの妹が激しく首を振った。

 「ゴメン、ゴメン! お前がいたな」

 「そうですよ。私だっているですから」

 美空は、ふて腐れながらつぶやいた。

 「じゃあ、ずっとそばにいてくれよ」

 「え?」

 美空は聞き返したが、和馬は何も言わずに行ってしまった。

 「和馬さん! 今何て言ったんですか? ねえ、ねえ、和馬さん!」

 「ほら、行くよ~」

 「もう一回言ってください!」

 「気が向いたらね~」


 牧場に夏が来る前の五月の初め、マジックファームに嬉しい知らせが届いた――二頭が、無事にゲート審査をクリアして、競走馬としてデビューすることが決まったのだ。

 「クラシックの登録もしているし、あとは無事に調教を積んで、デビューを待つだけだ」

 「楽しみですね!」

 河内と柳、林田夫妻を招いて、夕食を食べていた。

 「本当に皆さんのおかげです。あの人も、天国で喜んでいると思います」

 その言葉に、みんながはにかみ、雅喜のことを思い出したに違いない――とくに和馬は、あの父親の一番の笑顔を思い出していた。

 「さあ、今日は一杯食べてください!」

 美空が、麻奈美と一緒にご馳走を運んできた。

 「これ、美空ちゃんが作ったの?」

 柳が、手を合わせ、両指を波打つように動かしながら笑顔で訊いた。

 「奥さんと一緒にですけど……。お口に合うかどうか……」

 「合うに決まって――」

 「黙って食えよ」

 河内が、さえぎるように柳を黙らせると、みんなが大声で笑った。

 「そう言えば、勝負服は決まったの?」

 悟朗が河内に訊くと、河内は不敵な笑みを浮かべて、紙袋から一着の服を取り出した。

 「これです!」

 「おお!」

 その勝負服に、みんな目を丸くして見ていた。

 勝負服は、黒色・赤袖の鋸歯形模様だった。河内が言うには、まだ見ぬ山の影に、赤く燃えるように挑戦するという意味が込められているらしい――そんなことを抜きにしても、かなりカッコよく見えた。

 「すげえ!」

 和馬は興奮しながら、この勝負服を着たスノーの走る姿を思い浮かべた――かなりカッコいい!

 「どう、気に入ってくれた?」

 河内のどや顔に、誰も文句を言わなかった。みんな、この勝負服に想いを馳せながら、この日の夕食は盛り上がり、楽しいものになった。


 それから間もなく、遂に待望の知らせが届いた。ヒイアカ――マス子のデビューが決まったのだ。

 「いつですか?」

 和馬は興奮して、電話の受話器を強く握っていた。待ちに待ったこの瞬間が来たんだ。いよいよ、あのグリーンのターフに、マジックファームとして初めての競走馬が走る。そう思うと、興奮せずにはいられなかった。

 電話を終えた和馬は、走って外に出ると、ちょうど厩舎で作業していたスタッフ、全三人に興奮しながら報告した。

 「報告があります! マス子……いや、ヒイアカのデビューが決まりました!」

 「え!」

 三人は、作業の手を止めて大喜びだった。この一年間、ずっと育成から世話まで見ていた美空は、目から涙を流して喜んだ。涼子が優しく抱きしめると、その胸の中で泣いていた。和馬は、悟朗と強く握手をして、抱き合って喜んだ――美空と二人で喜びたかったのが、本音だった。

 「何の騒ぎ?」

 買い物から帰ってきた麻奈美に事情を説明すると、麻奈美は腰から砕け落ち、その場に座りこんで泣き始めた。すぐに、美空と涼子が駆け寄り、三人で抱き合って喜んだ。麻奈美は泣きながら、「ありがとう! みんなありがとう!」と叫んでいた。

 和馬は、その輪に入れず、悟朗に肩を組まれ立っていた――やっぱり、美空と喜びたい和馬だった。

 「で、いつなの?」

 麻奈美は、涙を拭きながら訊いた。

 「えっと、七月函館の二歳新馬に決まりました!」

 「距離は?」

 「芝の千二だって」

 「男馬と一緒に走るの?」

 「牝馬限定……」

 「騎手は?」

 「そこまでは……」

 「馬の状態は?」

 「何頭立て?」

 「どんな馬が出るの?」

 「うるさーーい!」

 和馬は、まだ決まってもいないことを四人から聞かれて、怒りが爆発していた。

 「もうこの話は終わり! 全員仕事に戻れ!」

 和馬の怒りの命令に、全員走って仕事に戻った。

 「ったく……」

 和馬は、馬よりも鼻息荒く、厩舎を後にした。

 

 その日の夜、和馬は最近部屋用に買った液晶のテレビで番組を見ていると、コンコンと部屋のドアをノックする音が聞こえた。

 「どうぞ……」

 「お邪魔します。起きてました?」

 美空だった。何か、下唇を噛みニヤつきながら部屋に入ってきた。美空は後ろに何か隠していたが、和馬は突然の美空の訪問に驚き、ベッドから起き上がり座り直した。

 「どうしたの、こんな遅くに?」

 「ジャーン! 一杯やりませんか?」

 美空は、隠していた缶ビールを和馬に差し出した。

 「やっぱり、こうして二人で喜びたくて……」

 「……そうだな! パーっとやろう!」

 「はい!」

 「かんぱ~い!」

 二人は、缶ビールの開け、ビールが手にかかってしまうぐらい強くぶつけて乾杯した。こんないい日に、飲むビールは最高だった。二人の顔は自然と笑顔になっていた。

 和馬と美空は、夜遅くまで飲み明かした――ビールが足りなくなると、どちらかが取りに降りて、つまみが無くなると、どちらかが取りに降りた――二頭の小さい頃の話をしては笑い、二頭の将来を語り合っては笑った。

 結局、二人はベロベロになるまで喜びを分かち合った。その結果――

 「どうしたの? 二人とも……」

 その夜のことを憶えていなかった――はっきりしているのは、二日酔いの頭痛と――

 「……」

 「……」

 「何で、二人ともあんな気まずそうにしてるんだ?」

 「さあね……。若い子には、若い子たちの事情があるんじゃない?」

 「それってもしかして――」

 「目がヤラシイ!」

 「イテテ! 耳を引っ張るな!」

 「……」

 「……」

 起きたとき、二人が裸――

 「美空ちゃ~ん!」

 美空が柳につかまっている間に、和馬は厩舎を後にした。


 それから、また暑い夏が来ようとしている七月。ついに、マス子がヒイアカとして、競走馬デビューをする。馬主の河内は、柳を連れて函館にいると、昨日の夜電話がかかってきた――柳は、温泉に浸かり過ぎてのぼせたらしい――マス子は、先週函館に着いたが、長旅の疲れもなく元気いっぱいで、初戦からかなり楽しみだと、 杉本も話していたと言う。いやがうえにも期待してしまう和馬だった。

 「和馬さ~ん! 始まりますよ!」

 と大声で叫ぶと、美空は走って自宅に戻った。

 「なら、手伝えよ!」

 和馬は、浮かれている美空の分まで、仕事をしていた。美空は、朝から落ち着きがなく、心ここにあらずの状態だった。

 「さ、一休みしてレースを見に行きましょう、牧場長!」

 「牧場長?」

 悟朗の呼び方が、和馬を戸惑わせた。

 「僕は、牧場長では――」

 「もう立派にこの牧場から競走馬を送り出したんですから、そろそろ責任も持ってもらわないと」

 涼子が、軍手を脱いで腰を叩きながら言った。

 「でも、僕はそんな器じゃ……」

 「お父さんの夢を継いだんだから! そんなの当然だろ? 一緒に頑張ろう、牧場長!」

 「……はい!」

 このときから、自分が牧場を背負っているという自負が、和馬の中に芽生えた。それは、大きくも、やりがいのある仕事に巡り合えた証だった――これが、オレの天職なんだ! そう、和馬は確信した。

 午前十一時、家に戻った和馬と林田夫妻は、居間で興奮して新聞を見ている美空に近寄った。

 「少し落ち着けよ」

 「落ち着けるなら、落ち着いてますよ!」

 「す、すいません……」

 興奮して鬼の形相になっている美空の迫力に、和馬はたじろいだ。

 「どうだ、マス子の様子は?」

 「ちょっと、興奮してるみたい」

 「美空ちゃん、そっくりじゃん――イテ!」

 和馬のつぶやきが聞こえたのか、美空は新聞を丸めて、和馬の頭を叩いた。和馬も、新聞を奪い、美空の頭を軽く叩いた。二人は睨み合っていたが、麻奈美に止められ、やっと落ち着いた――気のせいか、パドックで落ち着きのなかったマス子も、落ち着いたように見えた。

 「新聞見せて」

 悟朗は、和馬からももらった新聞を、食い入るように見た。和馬も横から新聞を覗いた。

 レースは、一〇頭立ての一二〇〇m、牝馬限定戦。新聞には、予想より印が付いていた。

 「何か期待できそうな感じだな」

 「父親がいいからね。ファンも期待するよ」

 和馬たちは、それぞれテレビの近くにイスに腰掛け、固唾をのんでテレビを見ていた。


           函館五R  サラ系二歳新馬


 一枠 一番  コスモモモ

 二枠 二番  シシオドシ

 三枠 三番  ロードザクイーン

 四枠 四番  サニージェンゴ

 五枠 五番  ヒイアカ

 六枠 六番  クリスタルミント

 七枠 七番  アクエリオン

    八番  クローディア

 八枠 九番  ダイヤダイヤダイヤ

    十番  シーサムシング


 本場馬入場も終わり、もうすぐ発走時間になる。スターターが赤い旗を振り、ファンファーレが鳴った。


 「函館第五レース、牝馬限定の新馬戦。一二〇〇mで争われます、一〇頭。順調にゲート入りが進んでおります。最後に十番シーサムシングがゲートに入りまして態勢完了。

 スタートしました。九番のダイヤダイヤダイヤがちょっと立ち上がったが、その他の馬はきれいなスタート。コスモモモとサニージェンゴが、押して押しての先頭争い。

 先頭を奪ったのは、一番コスモモモ、果敢に先頭に立ちました。その直後にサニージェンゴ、一馬身差で三番ロードザクイーン、内からシシオドシ、外からまくり気味でシーサムシング、その直後にヒイアカとクリスタルミントが並んで、八番クローディア一番人気はここ。七番アクエリオン、ポツンと離れた最後方に九番ダイヤダイヤダイヤという態勢。最後方以外は、ほぼ固まった状態で進んでいます。

先頭は、早くも三コーナーから四コーナーへ進んでいきます。まだコスモモモがリード、その半馬身後ろにサニージェンゴの手が動いている。さらにその後ろにシーサムシング、鞭が入った。直後にヒイアカ、抜群の手応えで上がってきた。クローディア、クリスタルミントも上がってきている。

 さあ直線に入りました。コスモモモが逃げる! 馬場の真ん中を通ってヒイアカが来た! 外からシーサムシング! サニージェンゴは後退! クローディア、クリスタルミントも来ている。内を割ってシシオドシ。

 ここで、ヒイアカがコスモモモをかわして先頭に立つ! クローディアも来る! シーサムシングはちょっと後退!

 先頭はヒイアカ! クローディアも凄い脚で迫ってきた! その後ろにクリスタルミント! 内でコスモモモも粘る!

 しかし先頭は、ヒイアカ! ヒイアカが逃げる! クローディア、ちょっと届かない! ヒイアカが一着でゴールイン! 二着にクローディア。三着は逃げたコスモモモと追い込んだクリスタルミントの争い。しかし勝ったのは、五番ヒイアカです!」


 ヒイアカが先頭でゴールした瞬間、居間にいる全員が立ち上がり、歓声を上げて喜んだ。麻奈美は泣きながら崩れ落ち、和馬と悟朗と涼子は抱き合って喜んだ。美空は、ソファーに座りながら、両手で顔を覆いながら泣いていた。

 歓喜の瞬間だった。マジックファームの初戦を勝利で飾ることができた。こんな出来過ぎた結果があっていいのか、苦労して育てた甲斐があった、親父は喜んでいるのか、喜んでいるだろう、頭の中はグチャグチャで、もう言葉もでない――出るのは、「うぉー!」とか「よっしゃー!」だけだった。

 そんな中、泣き声を上げて美空が泣いていることに気が付いた。こんなに泣いているのは、この牧場に来てから初めてのことだった。春衣や親戚と別れるときも、雅喜が亡くなったときも、出産のときも、二頭が旅立つときも、こんなに声を上げたことはない。人目をはばからず泣くほど、美空は嬉しかったのだろう。

 和馬はそっと美空に近づき、美空の頭に手を置いた。美空は、手を顔から放し、和馬を見た。

 「やったな!」

 和馬の笑顔と言葉に、美空はさらに顔ぐしゃぐしゃにして、和馬に抱きついた。

 「よかった、よかったよ……」

 「ああ、美空ちゃんのおかげだよ。ありがとう……」

 「マス子がやったよ……。本当にうれしいよ……」

 「ああ、オレも嬉しいよ……」

 いつの間にか、抱き合って喜んでいる和馬と美空を見て、悟朗も涼子も、そして麻奈美も涙を流して二人を見ていた。

 その日の夜は、前沢宅では宴会が開かれた――が、和馬も美空も、この前のないように気を付けたのは言うまでもなかった。


 ヒイアカの勝利から一週間後、河内から和馬に電話がきた――ヒイアカのことだった。

 ヒイアカの次走が、一ヶ月後の函館二歳Sに決まったとのことだった。

 初めは、三週間後のラベンダー賞を使うプランもあったが、新馬戦の走りが良かったので、ここは一気に函館チャンピオンを狙うとのことだった。その間は函館に滞在し、万全の状態で臨めるように調整していくと、杉本も鼻息荒く話していたみたいだった。

 「――とのことです」

 ピッチフォークにもたれて、和馬は美空に報告した。

 「そうか……。マス子も頑張ってるな。私も頑張らないと!」

 「そうだな。あ~あ、スノーはまだかな……」

 「すぐですよ。スノーは、マイペースな仔だから」

 「マイペース過ぎんだよな、スノーは」

 「でも、杉本さんは本物でしたね。会ったときは詐欺師かと思いましたけどね」

 「ああ。しかもかなりのスパルタらしいよ。揉まれすぎて、ケガしなきゃいいけど……」

 「大丈夫! 二頭とも丈夫ですから。今よりも、もっと、も~っと、強くなりますよ」

 「そうだといいな!」

 「二人とも! そろそろ、二頭の運動の時間だよ」

 「はい! 今、行きます! じゃあ、行こうか」

 「あ、あの――」

 「どうしたの?」

 「今日の夜、ちょっと相談に乗ってくれませんか?」

 和馬は、何か感じたものがあったが、嫌なことなのか嬉しいことなのか判断できずに、小さくうなずいて息をのんだ。最後に見せた美空の顔が、笑顔から心配の顔になっていたのが、和馬は気掛かりでしょうがなかった。


 その日の夜、予告通り美空が和馬の部屋を訪ねてきた。和馬は、美空を中に入れ、部屋のドアから顔を出して、麻奈美が寝静まったことを確認すると、静かに部屋のドアを閉めた。

 「ま、そこに座って」

 和馬は、美空にベッドに座るよう促すと、自分は机のイスに腰掛ける。美空も、静かにベッドに腰掛けると、二人の間にしばしの沈黙が流れた。耐えきれなかった和馬が、たばこを一本取り出し、イスを回転させ窓を少し開ける。夏の生温かい風が入ると、静かにたばこに火をつけ重い口を開いた。

 「で、どうしたの?」

 美空は、うつむいたまま何も話さなかった。昼間の元気のよさとのギャップに、和馬は緊張した面持ちで問いかけた。

 「どうしたの? 何か相談があるって言ってたけど……」

 「実は――」美空は小さな声で話し始めた。

 「生理が来ないんです」

 「へ?」和馬は、まったく意味がわからなかった。

 「どういう意味?」

 「妊娠したかも……みたいな」

 和馬は、空いた口が塞がらなかった――突然の告白に和馬は動揺を隠せなかった。美空ちゃんが妊娠。相手は誰なんだ? そもそも、なぜそんなことを自分に言うのか? 和馬は、身に覚えが――

 「あ!」

 あった。でも、まさかそんなドラマみたいなことがあるわけがない。美空は、顔を伏せたままずっとうつむいている。和馬は、なぜか自然と笑い始めた。

 「まさか、あの日じゃないよね?」

 「……」美空は答えない。

 「マジかよ……」和馬は、手で顔をなでると、天井を見上げた。

 「でも、まだ妊娠したか確認してないので――」

 その様子を見た美空が慌てて否定したが、和馬は小さくうなずいて呆然としていた。

 「私、やっぱり病院行って検査してきます」

 「……」

 「検査してちゃんと調べて――」

 「調べてどうするの?」

 「おろそうかと……」

 また二人の間に沈黙が流れた。和馬は、どうしていいのかわからず、美空もどうすればいいのかわからなかった。

 「こんなこと和馬さんに相談するのが、間違いですよね。自分で――」

 「とりあえず、明日オレも一緒に病院行くよ」

 「え、でも、牧場の方は――」

 「悟朗さんたちもいるし、少しの間なら大丈夫だろ」

 「すいません……」

 「何で謝るのさ」

 美空は、またうつむいて黙ってしまった。和馬も、どう声をかければいいのかわからなかった。

 「今日はもう遅いし、ゆっくり休んで、明日二人で病院に行こう」

 「……わかりました」美空は、静かに立ち上がり、部屋を出ようとした。

 「ちなみにさ――」和馬の声に美空が振り向いた。

 「あのとき以外で、男の寝てないよね?」

 「最低……」

 美空は、踵を返して部屋を出ていった。


 なぜあんなことを言ってしまったのか、和馬は暗い部屋の中、ベッドに横たわって考えた。

 美空ちゃんが妊娠したと告白したとき、何とも言えない感情が和馬の中から湧いてきた。驚いたというよりは、ショックだった――どこの誰が美空の相手なのか?その男に無性に腹が立った。でも、毎日和馬と会って仕事しているし、というより、一緒に住んでいる男は自分しかいない――そういう行為にも、酔っ払っていたとしても覚えがある。そう考えたときに見た美空の顔が、いつもと違うように見えた。いつも近くにいすぎて、自分の気持ちに気付かなかっただけだった。

 初めて会ったときから、美空に惹かれていた。どこかで、美空の気持にも気付いていたのかもしれない。話しても楽しいし、仕事も一生懸命だし、何よりみんなから愛される美空がまぶしかった。だから、自分の気持ちから逃げていたのかもしれない――そう考えると、さっきの最後の一言がとても悔やまれた。


 和馬は、決心した。



 次の日、二人が車に乗り込もうとしたとき、麻奈美が近寄ってきた。

 「どこ行くの?」

 「あ、あの――」

 「病院だよ。ちょっと美空ちゃんが具合悪いみたいだから」

 あたふたしてしまった美空の代わりに、和馬が淡々と麻奈美に答えた。

 「そうなの? 大丈夫?」麻奈美は、美空に近づき、おでこに手を当て、顔を触って熱を測った。

 「大丈夫です……」

 「和馬、何やってるの! 早く行きなさい!」

 「いや、おふくろが止めたんじゃん」二人は車に乗り込み病院に向かった。

 車中、二人とも何も話さなかった。また、気まずくなった和馬は、たばこに火をつけ窓を開けた。

 「昨日はゴメン……」和馬がボソッと言う。

 「何がですか?」

 美空は、和馬を見向きもしないで訊いた。明らかに怒っていた。それでも和馬は、気にしなかった――気にしなかったというより、もっと考えることがあった。この状況からどう切り出そうか、それだけを考えていた。

 「いや、最後にひどいこと言ったなって思って……」

 「……私、初めてだったんです」

 「え?」

 「でも、好きな人に初めて抱かれて、酔っ払ってたかもしれないけど、すごく嬉しかったんです」

 「……本当にゴメン」

 「もういいです。過ぎたことだし……」

 それから病院に着くまで、二人は黙ったままだった。

 病院に着くと、待合室で不安そうにしている美空のそばにいた和馬は、どういう結果が待っていようがある決心を固めていた――車中の話からも美空の気持ちはわかった。そして、自分の気持ちも確認できた。

 「浅海美空さん~」

 美空が呼ばれてビクッとした和馬を置いて、美空は診察室に向かった――美空が振り返ると、その顔は不安で目に涙がにじんでいた。


 牧場へ戻る道中に、和馬が美空の方へチラッと目をやると、美空はうつむいたまま何も話さない。

 結果は、妊娠八週目。胎児が美空のお腹の中にいるのが判明した。その結果を聞いた二人は、黙って車を走らせていた。

 「……これからどうしようか?」和馬は、さりげなく美空に訊いたが、美空は答える気配がなかった。

 「オレの子で間違いないよね?」

 「……はい」

 「正直、美空ちゃんはどうしたいの?」

 「どういう意味ですか?」

 「いや、産みたいとかさ、やっぱり下ろしたいとかさ」

 「和馬さんはどっちがいいんですか?」

 「オレ? オレは、美空ちゃんの好きなように――」

 「それって、どうでもいいってことですか!?」

 「違う、違うよ!」和馬は慌てて否定し、自分の気持ちを正直に話した。

 「オレは、美空ちゃんが産もうがおろそうが、オレの気持ちはもう決まってる。でも、産むのは美空ちゃんだ。だから、美空ちゃんの気持ちを大事にしたいってこと――ゴメン。オレ、バカだからうまく言えなくて」

 「じゃあ、和馬さんは産んでほしいですか?」

 「オレは、自分の子を見たいな――でも、顔はオレに似ないでほしいけど」

 「……何ですか、それ」

 車内に笑い声が響いた。それが、美空の返答となり、二人は子供の話で盛り上がった。


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