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初めての体験

 和馬は、駆け足で厩舎に入った。獣医の間島のまわりに、雅喜・麻奈美・美空と全員揃っていた――和馬が、最後だった。

 「状態は?」

 和馬は、馬房を見た。横たわっていたのはドリームバードだった。

 「破水して、もうすぐ頭が――これはまずい! ロープを用意して!」

 獣医の間島が慌てふためいた――ドリームバードから出てきた仔馬の首に、前足が絡まっていた。

 「早く出さないと、仔馬が窒息して死んでしまう……」

 間島は、急いで雅喜が持ってきたどさくさまぎれの手綱を仔馬の足に巻き引っ張り始めた。

 「和馬君! 手伝って!」

 「お、おう!」

 和馬は、間島と一緒に手綱を力強く、でも仔馬が苦しまないよう優しく――とても難しい力加減だ――引っ張った。

 「もう少しだ! もう少し……」

 引っ張るたびに、ドリームバードが高くいなないた。息も苦しそうにしている。発汗もしている。きっと全身に痛みもあるだろう。家族も、美空も手を合わせて祈っていた。そして、和馬は一所懸命に仔馬を引っ張った。

ドリームバードの力みに合わせて引っ張ること数十分、芦毛の大きな馬体から小さな命が産まれた――母と同じ、芦毛だ。仔馬は、出てきたと同時に自分の母親を探しているかのようにいなないた。その場にいるみんなが安心したかのように、ホッと胸をなでおろすと、産まれた命を見て、困難と感動を噛みしめるかのように涙していた――何とも言えない、気持ちだった。

 ドリームバードは、仔馬の鳴き声を聞き、体勢を入れ替えて、仔馬に寄り添った。和馬は、仔馬から手綱を外し、様子を見ていた。ぐったりした体は汗まみれだったが、今度は仔馬を舌で舐め始めた。

 全身をなめ回し乾かしたあと、ドリームバードは立ち上がり、仔馬の顔にそっと鼻をすりつける。すると、仔馬は、産まれたばかりでまだ踏ん張りのきかない足で立ち上がろうともがき始めた。何度も、何度も倒れては、必死で立ち上がろうともがいていた。その光景が、人間である和馬たちには、必死で生きようとしているように見えて、涙が止まらなかった――何か、この仔馬に生きるということを教えられているみたいだった。もがいて、もがき苦しんでこそ、生きているということなのだと。

 十五分後、仔馬はやっと立ち上がることができた。すると今度は、おぼつかない足取りで、ドリームバードに近づき、お腹のあたりに首を伸ばし、おっぱいを探し始めた。

 「もう大丈夫ですね」

 間島は、おっぱいを飲んだのを確認すると、安心したかのように話した。

 「大丈夫なんですか?」

 「ええ。ちょっと小柄ですが、元気いっぱいの男の子です。もう大丈夫でしょう」

 仔馬は、もの凄い勢いでおっぱいを飲んでいる。その勢いは、和馬たちが少し引くぐらいだった。

 こうして、マジックファーム初にして、期待の仔馬が産まれた。言葉では表せない、文字にも置きかえることができないほどの感動が和馬の心に刻まれた。

仔馬は、たてがみも白くて小柄だが、大きな夢を見られそうな馬だった――何か、みなに愛され、とんでもないことをしそうな予感があった。

この日のマジックファームは、みんな朝早くから起きていたが、仕事に精を出し、全体が幸せに満ちた雰囲気だった。


 その五日後には、レディーマスタングも無事出産することができた。一度経験していると、心構えも違うが、やっぱり仔馬が産まれたときには、安堵の涙が流れた。仔馬は、きれいな栗毛の牝馬だった。

 馬が四頭に増えると、仕事も増えた。そしてまた、今シーズンの種付けがやってきた。一度経験している和馬は慣れたものを見るように振舞えたが、初めての美空は、何度も手で目を覆いながら見ていた。今年は、レディーマスタングにゴールドアリュールを、ドリームバードにタニノギムレットを受胎した――どこから、そんな大金が出るのか和馬は不思議で仕方なかった。

 六月になり、美空も仕事に慣れてきたのか、馬たちと笑顔で接することが多くなった。そして、たまにユーアンファームに行って、美空と一緒に騎乗練習をさせてもらっていた――田中は、美空もスタッフに誘っていた。

 馬たちを放牧地に放している間に、和馬は美空と一緒に馬房を掃除していると、外の方から雅喜が誰かと話している声が聞こえた。

 和馬が厩舎から外を見ると、放牧地を眺める雅喜の隣に前のオーナーと、もう一人見たことのない男性が立っていた。

 「おう! 和馬君!」

 「柳さん、こんにちは」

 渋くテンガロンハットを決めて、大きな腹が特徴な柳寅吉が、笑顔で大きく和馬に手を振った。和馬は、小走りで柳に近づき挨拶をした。

 「どうだ、牧場の仕事は?」

 「大変ですけど、まあ、なんとかやってます」

 「こちらは?」

 柳の隣に立っていた男が、和馬を見て訊いてきた。

 「私の息子の和馬です。和馬、こちらは河内さんだ」

 「初めまして、河内拓海と言います」

 「あ、息子の和馬です。よろしく……」河内が差し出した手に、和馬は恐る恐る手を伸ばし、二人は握手をした――河内の力が強くて、和馬は少しびっくりした。

 「いや実はね、和馬君。この河内が今年から馬主をやるんだよ」

 「え、そうなんですか?」

 「そうなんですけど――柳の親父の牧場から馬を買うからって言ってたのに、牧場やめたって言うから……」

 河内は、柳を睨みつけたが、柳は一発河内の背中を叩き大声で笑った。

 「この老体に鞭は打てんだろ」

 「それで、うちの牧場を見学に来たっていうわけだ」

 雅喜は嬉しそうに話すが、和馬はなぜ喜んでいるのかがわからなかった。

 「まあ、オレが買ったレディーの仔がいるからな。あの仔は品があっていい馬だ」

 柳は見つめる先には、品があるという言葉とはかけ離れているぐらい、元気に走り回っているレディーマスタングの仔がいた。その後ろに、置いてかれているドリームバードの子がいる。肉食系女子と草食系男子という関係が見てわかる。

 「気が強くて、根性ありそうな仔ですね」

 「そうだろ?」

 柳は、河内の腕を肘で小突いて、嬉しそうな顔をしている。自分の買った馬の仔だけに、期待しているのだろう――なら、牧場を続ければよかったのに……。

 「でも、もう一頭のあの芦毛の仔――」

 河内の目は、マジックファームで産まれた二頭を厳しく見ていた。和馬は、二頭がどう映っているのか気になってしょうがなかった。

 「あの芦毛の仔……いいな」

 「え?」

 和馬は、河内の言葉に驚いた。

 「あの仔ですか?」

 「ああ、なんかいい雰囲気持ってるよ」

 「そうですか……」

 和馬は、ゆっくりとドリームバードの仔を見た。レディーマスタングの娘のあとを、気弱そうに追いかけていた。

 和馬は、産まれて仔たちの将来について、雅喜と話したことがあった。それは、初めて産まれた期待の仔馬たちだ。話は、夢のように膨れ上がり、笑い声とともに弾んだ。

 二人が期待していたのは、レディーマスタングの娘の方だった。負けん気が強く、体もしなやかだった。どちらかといえば、ドリームバードの仔の方が、気が弱く大人しかった。

 世間の評価もレディーマスタングの娘の方が高かった。というより、ドリームバードの仔が低すぎた。母親の評価が低いのもあるが、小柄で臆病なところが、さらに評価を下げていた。

 だが、そんなドリームバードの仔を、河内はいいと言う。和馬も、その気の弱さが気になって、手をかけているうちに可愛くなってきてはいたが、競馬になるとどうかという想いはあった――和馬は、競馬をほとんど見たことはないが。

 「この仔は、とんでもない仕事をすると思うよ」

 「どこを見てそう思うんですか?」

 「……勘かな」

 和馬は、この〟勘〝という言葉ほど、信用のない言葉はなかった。もっと、具体的に説明してほしい。和馬は、いつもそう思っていた。

 「でも、本当にそう思うよ。ほら、見てみなよ」

 和馬は、河内に言われてドリームバードの仔を見た。ドリームバードの仔は、遊んでいる最中、牧場内にある小さな丘を何度も振り返っていた。

 「あの仔、あの丘が好きみたいだ」

 「そうみたいですね」

 和馬は初めて知った。毎日世話をしているのに、そんなこと気づきもしなかった。

 「丘か……」

 和馬は、ドリームバードの仔と一緒に丘の上に立っている場面を想像した。


 遠くに見える山に沈む夕陽を一緒に見ていた。風がとても涼やかで、気持ちいい。

 和馬は、明日に期待を込めて沈む夕陽に願いを込めていた。

〟いつかこの馬がGⅠレースを勝てますように。無事に競走馬人生を終えれますように〝

と。

 夕陽の茜色が、その願いを叶えるかのように、優しくまぶしく光っていた。


 「和馬さん! 掃除!」

 美空が、大声で和馬を呼んだ。想いふけっていた和馬が、我に返り、返事をして美空の方へ行こうとしたとき、和馬の腕を掴み、止めた男がいた。

 「和馬君……、あの子は、どこの子?」

 柳は、歌を歌うように訊いてきた。その顔は、目の前に現れた美女に心を奪われたカウボーイのように顔が強張っている――カウボーイとしては、もう賞味期限が切れていそうな感じだが――その和馬の腕をつかむ力は、相当強く、引っ張っても放さなかった。

 「あの子は、春衣の友達の美空ちゃんです――放してもらっていいですか?」

和馬の言葉に、我に戻った柳は和馬の腕を放した。

 「ったく、柳の親父の悪い癖が始まった……」

 河内は、頭を押さえてつぶやいた。

 柳は、そのある意味怖い顔のまま何も話すことなく、美空の方に歩き始めた。美空は、少々怖がりながら立っていると、柳は美空の前に立ち、両手を掴んで美空の顔を直視した。

 「ソー、ビューティフォー……」

 舞台俳優のように振舞う柳に、美空はたじろいだが、柳は止まらない。

 「お嬢さん、お名前は?」

 「み、美空です……」

 「ここで働いてるの?」

 「は、はい……」

 「どうして、僕がやっているときに現れて――」

 「はいはい、今日は帰るよ」

 河内が、柳の腕を強引に掴んでふたりを引き裂いた。

 「あ、ちょっと待って! 美空ちゃん、美空ちゃ~ん!」

 「また連絡します!」

 河内は、笑顔で美空に手を振る柳を、無理やり車に押し込んだ。

 「わかりました!」

 雅喜は、苦笑いで手を振る。和馬と美空は、呆気にとられてその場に立ち尽くした。


 七月に入り、北海道も夏の気配を漂わせてきたころ、この日は珍しく大雨だった。美空も、やっと牧場の仕事が板についてきて、雅喜も麻奈美も実の娘のように可愛がっていた。だが、和馬が一つ慣れないことがあった。

 「あ」

 「あ、お風呂どうぞ……」

 「うん……、ありがとう……」

 美空のあとに入るお風呂は、いつになっても慣れなかった。

 「はい……、わかりました。ありがとうございます」

 和馬がお風呂から上がり、タオルで髪を拭きながら居間に戻ると、雅喜が電話をしていた。

 「よし!」

 雅喜は電話を切ると、小さくガッツポーズをしながら喜んでいた。

 「どうしたの?」

 雅喜は、食卓テーブルについて缶ジュースを開けながら訊いた。

 「二頭の仔馬の馬主が決まった!」

 居間にいた和馬、夕食の用意をしていた麻奈美と美空が、一斉に雅喜を見た。

 「もう?」

 「てか、デビューは再来年だぞ」

 食事の準備をしている麻奈美も、頭を拭いている和馬も、信じがたいことだった――美空は、ただ気まずそうに黙っていた。

 「ああ。セールに出そうと思ったが、ぜひと言うからな。決めてしまった」

 「そんな簡単に決めていいのか?」

 「いいんだよ。かなりの金額で売れたし、来年もこれで生活できる!」

 「でも、セールの方が高く売れるんじゃないの?」

 「その前に、売れるかどうかわからないだろ。でも、これで競走馬として一歩前進だな」

 「まあ、よかったじゃん」

 和馬は、冷静を装うが、内心はとても嬉しかった。初めて送り出す競走馬ができた。こんなに嬉しいことはなかった。

 「でも、馬主は誰なんですか?」

 「いいこと訊くねえ、美空ちゃん」

 誰でも聞きたくなるよと、雅喜以外の人間が思ったが、浮かれている真咲に誰も突っ込めなかった。

 「こないだ来た河内さんだよ」

 雅喜は胸を張って言うが、家族は大方予想がついていた――なぜなら、その人しか、仔馬たちを見に来ていなかったからだ。

 「こんなめでたい日はない!今日は、マジックファームの記念すべき日になった。母さん、ケンタッキーだ!」

 雅喜のテンションは、最高潮に達した。大はしゃぎで叫んでいる。和馬は、こんなに楽しそうな父親を見るのは初めてだった。夢を叶えたときも嬉しそうだったが、こんな子供のように喜んでいるのは見たことがない。東京にいるときは、硬く、厳しい雰囲気をかもしだしていたが、北海道に来てから表情が変わった。柔らかくなったというか、緊張が解けた感じだった。春衣も、接しやすくなったと嬉しがっていた。

 「もう、食事の用意終わったわよ!」

 「何だよ、ちょっと待ってろ! オレ買ってくるから!」

 「おいおい、外すげえ雨だよ?」

 「大丈夫だって! ちょっと行ってくる」そう言うと、雅喜は車のカギを持って出て行ってしまった。

 「大丈夫かな……」

 和馬は、窓を見ながら車が出て行くのを見ていた。

 「大丈夫でしょ。ま、それだけ嬉しいのよ。ほっとけばいいのよ」

 「そうだな……」

 と言う和馬だったが、何か嫌な胸騒ぎがしていた。

 「そんなに心配してもしょうがないから、こっち座ってなさい。美空ちゃんもこっち着て、お菓子でも食べなさい」

 麻奈美に促され、和馬たちはお菓子を食べながらテレビを見ていた。


 「何でケンタッキーなんですか?」

 美空は、差し出されたお菓子を食べながら訊いた。

 「ま、どこの家族もお祝いごととかあったらケンタッキーなんじゃない? CMでも、よくお祝いのときの映像が多いし」

 「そうなんですか?」

 「美空ちゃんところ違ったの?」麻奈美は、缶ビールを飲み干した。

 「うちは、お赤飯でした」

 「ああ、それもわかる」

 「でも、うちの場合、競馬好きだったからね」麻奈美は、二つ目の缶ビールを開けた。

 「競馬好きはケンタッキーなんですか?」

 「アメリカのレースにケンタッキーダービーっていう有名なレースがあるんだけど、それがもとで、お祝いごとがある度に、うちではケンタッキーを食べるんだよ」

 「そうなんですか」

 「ま、競馬好き全員がそういうわけじゃないと思うけどね」麻奈美は、ごくごくビールを飲んでいた。

 「飲み過ぎだよ」

 「いいじゃない。まだ来ないし……」

 「そういえば遅いですね……」

 雅喜が買いに行ってから、もう一時間以上経っていた。

 「ちょっと、遅すぎるな……」

買いに行くのに、そんな時間はかからない。今日は珍しく混んでいるのかなと和馬は考えたが、胸騒ぎがまた始まった。

 「何か余計なものも買ってるのよ。それより、美空ちゃん。北海道の人って、お赤飯に甘納豆入れるの?」

 「そうですね。わりとどこの家庭も――」

 二人がお赤飯の話をしていると、急に厩舎が騒がしくなった。

 「なんか、厩舎が騒がしいな。ちょっと行ってくる」

 「あ、私も行きます」

 「いいよ、せっかく風呂入ったのに……」

 「大丈夫です。行きましょう」

 「そう? じゃあ、ちょっと見て来る」

 缶ビールを飲んでいる麻奈美を置いて、和馬と美空は厩舎に向かった。


 厩舎に入ると、馬たちが悲しそうにいなないていた。

 「どうしたんだ?」

 「さあ。雨のせいですかね?」

 「とにかく落ち着かせよう」

 和馬と美空は、馬たちの馬房に近づき、顔をなでたりして落ち着かせようとした。しかし、馬たちは一向にいななくのをやめようとしなかった。

 「どうしたんだよ?」

 和馬が、レディーマスタングの首を叩いて落ち着かせようとしていると、バタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。

 「和馬!」

 麻奈美が、息を切らして勢いよく馬小屋に入ってきた。

 「どうしたんだよ? びしょ濡れ――」

 「今、病院から連絡があって……お父さんが、交通事故で運ばれたって……」

 「何だって!」

 和馬は、息を切らしている麻奈美に駆け寄り、肩を強く揺すった。

 「どこ、どこの病院だ!?」

 「ちょ、ちょっと和馬さん! 落ち着いて、おばさんが痛がって――」

 「これが落ち着いてられるかよ! 家族じゃないんだから黙ってろよ!」

 和馬は、あまりの動揺に、つい言ってはいけないことを言ってしまった。だが、謝っている暇はない。麻奈美もフォローする余裕はなかった。

 「とにかく、病院に行くよ」

 「オレ、車回してくる」

 「私は残って、馬たちを落ち着かせます」

 和馬と麻奈美は、和馬の車で病院に向かった。


 和馬たちが病院に着いて、通された病室には、顔に白い布をかけられ、ベッドに横たわる雅喜の姿だった。


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