サプライズとその後のスノー
最終レースが終わったが、観客はまだ帰ろうとしなかった――なぜなら、このあとにウォーアーマメントの引退式があるからだ。
和馬と美空、美空に抱かれて寝ているすみれは、河内から連絡があるまで観覧席で待機していた。
「河内さん、まだかな……」
「どうした?」
「お腹空いちゃった……。河内さんのお店のモツ鍋が食べたい」
「もう少しで連絡が――言ってるそばから、河内さんからだよ。もしもし?」
(和馬君?)
「河内さん、泣き過ぎてお腹減りました。美空も――」
(今から外のウィナーズサークルに来てくれ! 急いで!)
「え、あ、もしもし――切れちゃった……」
「河内さん、なんて?」
「急いでウィナーズサークルに来てくれだって」
「何で?」
「ウォーアーマメントの引退式に参加できるんじゃない。とりあえず急ごう」
和馬と美空は、急いで外のウィナーズサークル――レースに勝利した馬主などの関係者を表彰する場所――へ向かった。
ウィナーズサークルは、観覧席からだとかなりの距離があった。外の冷たい空気に触れてウィナーズサークルに着いたときは、息を切らして、自然と膝に手をついていた。
ウィナーズサークルには河内とその隣に杉本が並んで立ち、その前に吉井と田所が立っていた。
「お、やっと来た?」
「美空ちゃん、待ってたでえ! この子がすみれちゃんかいな! お母さんに似て可愛いのう」
「オレには何もないんですか?」
「お、いたんかい?」
杉本の言葉に和馬は睨みで返すが、杉本は和馬に目もくれずすみれをあやしていた。
「これから何が始めるんですか?」
杉本にあやされて泣いてしまったすみれを抱き直して美空が訊くと、杉本はしょんぼりしながら河内を見た。河内は、肩をすくめて杉本を慰めると和馬に顔を移した。
「これから面白いことが起きるから、まあ期待してて」
「面白いことって、ウォーアーマメントの――」
「和馬君!」
和馬に気付いた吉井と田所が、和馬に近づいてきた。吉井と田所は、すみれに挨拶すると、すみれは泣き止んで笑顔になった――その光景を見て、杉本はへそを曲げていた――そして和馬に近づくと、和馬の手を取り激しく握手をした。
「和馬君、君の育てた馬は素晴らしいレースをしてくれた。僕の馬がここまでこれたのは、ユメミガオカの存在があったからだ。本当にありがとう!」
吉井は、吉井の目は真っ赤だった。ウォーアーマメントが吉井の夢であり誇りだった。その愛馬が引退することになり、感極まったのだと和馬は思った。
「こちらこそありがとうございます。ユメミガオカから、そしてウォーアーマメントからも勉強させてもらいました」
「僕の夢の一部に、君がいたことを感謝する」
「ありがとうございます――田所先生」
吉井と握手をしていると、田所がやってきて手を差し出した。和馬は、田所の手を握り、深くお辞儀をした。
「ユメミガオカはええ馬やわ。杉本のところもええけど、今度はわしのところにもよろしく頼むわ」
「嬉しいです! ありがとうございます!」
和馬と握手をすると、二人は関係者とすみれのまわりに集まって話していた。和馬は河内の隣に立ち、目頭を熱くしていた。
「こんなに人に感謝されたのは初めてです。河内さん、ありがとうございます」
「お礼を言うのはこっちだよ。でも、本当にお礼をしなきゃいけないのは吉井さんだよ」
「そうですね。ウォーアーマメントとの出会いが――」
「違うよ。これから起こることにだよ」
「え?」
河内の不敵な笑みを浮かべたとき、ウォーアーマメントの引退式の始まりを告げる放送が流れた。その放送に観客たちが湧き上がり、地響きがするぐらいのウォーコールが始まった。
吉井たちがすみれから離れて、関係者の立ち位置に移動すると、ご機嫌のすみれを抱いた美空が和馬の隣に立った。
「やっぱり王者ね。こんなに観客が――」
美空が突然言葉を止めた。そして、和馬も目が点になって、口をあんぐり開けて驚いていた。
その原因は、最後の勇姿を観客に見せるために、平良を乗せて出てきたウォーアーマメントの後ろを歩く一頭の馬だった。
「スノー……」
ウォーアーマメントの後ろについて歩いて出てきたのは、月崎が跨った、まるで雪のような真っ白な馬、ユメミガオカだった。
驚いた和馬は、河内を見た。河内は満面の笑みで、二頭に拍手を送っていた。その後ろにいる杉本も、関係者といる吉井に田所も、みな笑顔で拍手をしていた――逆に、驚いて拍手をしていなかったのは、和馬と美空だけだった。すみれは、馬がいるだけで手を叩いていた。
「どういうことですか!?」
「こういうことだよ」河内は、二頭を指差して、ことの成行きを説明した。
二頭の日本を代表する馬が、同じレースで引退する。吉井は、愛馬のライバルを讃えて、引退式に出るよう河内に提案した。河内はその提案に戸惑ったが、田所や杉本の後押しもあり、ユメミガオカも一緒に引退式をやらせてもらえることとなった。
「こんな名誉なことないよ。GⅠも勝っていない馬が引退式できるなんて――ま、この観客の歓声で、どれだけあの馬が愛されていたかわかるだろうけど」
和馬は振り返り、スタンドを見渡した――さっきまでウォーコールだったのが、今ではユメミコールに変わって、さらに盛り上がっていた。
これは前代未聞の出来事だった。引退式を二頭で行うなんて、誰が想像しただろうか。超有名野球選手の引退セレモニーだって、大相撲の横綱の断髪式だって、ましてや超一流騎手の引退のときだって、日にちをずらして行うものだ。だが、この二頭ほど一緒にやる意味があるライバル同士はいないだろう。
結果、ユメミガオカはウォーアーマメントに土をつけることができなかった。だがそのことが逆にファンを引き寄せたのかもしれない。世界で一番ウォーアーマメントに迫った馬、今もこうして二頭が並んで本馬場に登場する光景を見て、和馬の頭の中は想い出とユメミガオカに対する感謝でいっぱいになった。
二頭は、並んでファンたちの前をゆっくり走った。一歩一歩、想い出のターフを噛みしめるかのように首を低くして、二頭は仲良く並んで走っていた。それはまるで、お互いの競馬人生を労うかのように、想い出のレースを話しているかのように、寄り添いながら走っていた。
二頭がゴール板を駆け抜けようとしたとき、月崎がサプライズでウォーアーマメントの前にユメミガオカを走らせ、ウォーアーマメントを抜いてゴール板を駆け抜けた――これには、ファンたちが盛大な歓声を上げて盛り上がった。吉井と田所も笑顔で拍手を送り、二頭に跨ったジョッキーたちはハイタッチで二頭を走らせた。和馬は、粋な演出に河内・杉本と一緒に誰よりも強く手を叩いて二頭を讃えた――すみれも手を叩いて喜んでいた。
年が明け、一月。放牧地には、競走馬を引退したばかりのスノーが、大きな結晶雪が降る中、ゆっくりと体を休ませていた。
その体は、まだ走れそうなぐらい筋肉が盛り上がり、均整のとれた馬体だった。和馬が、すみれの散歩に付き合っていると、すみれがスノーを指差したので、口笛を鳴らし、スノーを呼び寄せた。
ゆっくり歩み寄るスノーが、すみれの前に大きな顔を近づけると、すみれは優しく鼻筋をなでた――スノーは、気持ちよさそうにゆっくりとまばたきをしていた。
「スノー、久し振りに丘に行ってみるか?」
スノーは、和馬の言葉がわかるか、嬉しそうにいななくと、子供のころ見ていた丘を見上げた。和馬は、頭絡を取りに厩舎行っている間、スノーが雪で遊ぶすみれのそばから離れることなく見守っていた。そして、スノーに頭絡をつけ、すみれをまたがせると、丘に向かって歩き始めた――すみれは、自然とスノーのたてがみを掴んでいた。
降りしきる雪は優しく、とてもきれいに雪景色を彩っている。寒い北海道だが、たまに感じる雪の温かさは、そこに住んでいる者にしかわからない。
丘から見える牧場では、スタッフたちが一生懸命馬たちの世話をしていた。斎藤と鳴が悟朗と一緒に幼駒の馴致して、美空と舞子は厩舎に牧草を運んでいた――ようは、和馬はいつも通りサボっているのだ。すみれの散歩を理由に。そんな白い牧場を見渡しながら、和馬は初めてスノーとこの丘に登ったときのことを思い出していた。
あの頃のスノーは、まだ体が華奢で、体質的にも弱い部分があった。特に夏にめっぽう弱く、よく夏バテをしていた。
だが競走馬になると、成長するにつれて、そのポテンシャルの高さをいかんなく発揮した――それは、ウォーアーマメントによって引き出された秘めたる能力であり、ウォーアーマメントによって爆発した闘争心でもあった。
スノーの競走馬生活は、馬名〟ユメミガオカ〝ように、競馬人生という丘を、ウォーアーマメントを倒すという夢に向かって駆け抜けた競走馬人生だった。
☆ユメミガオカ
生産牧場 早来マジックファーム
馬主 河内拓海
主戦騎手 月崎駿
成績 十八戦五勝
主な勝ち鞍 京都記念(GⅡ)
金鯱賞(GⅡ)
アルゼンチン共和国杯(GⅡ)
☆ウォーアーマメント
生産牧場 早来ユーアンファーム
馬主 吉井幸一郎
主戦騎手 平良稔
成績 十四戦十四勝
主な勝ち鞍 クラシック三冠
春秋グランプリ制覇
凱旋門賞(仏GⅠ)
愛チャンピオンS(愛GⅠ)
有馬記念(GⅠ)
和馬は、スノーの首に手を当てて感極まっていた。
「無事に競走馬を引退してくれてありがとう……。ありがとう……」
和馬の涙を見て、すみれはポカーンと自分の父親を見ていた。和馬が、鼻をすすってすみれを見てニコリと笑うと、すみれも笑い、スノーも鼻息荒く鳴いた。
そして二人と一頭は、雪降りしきる牧場の景色をゆっくりと眺めていた。
無事之名馬――「能力が劣っていても、怪我なく無事に走り続ける馬こそ名馬である」という格言。
ユメミガオカは、大きなケガすることなく、人々を魅了し、ライバルたちと一生懸命にターフを駆け抜けた名馬の一頭として、競馬ファンの間で長く語り継がれることとなった。
その二十年後、京都競馬場で行われている牝馬三冠レース・秋華賞(芝・GⅠ・二〇〇〇m)に出走している〟ユリノサクバショ〝に跨った一人の女性ジョッキーがいた。
「残り二〇〇mで抜け出した! ユリノサクバショと前沢すみれ! 強い! 後続を突き離す!
牝馬三冠レース最後もこの馬、ユリノサクバショ! 前沢すみれを背に、祖父ディープインパクト、父ウォーアーマメント、そして娘ユリノサクバショ! 三冠DNAはこの馬が引き継いだ!
ユリノサクバショ、史上四頭目、アパパネ以来の牝馬三冠達成!
そして、史上初女性三冠ジョッキーの誕生です!」
すみれが、日本中の競馬ファンを魅了する大活躍するのであった。




