新しい命
「和馬! 早く来なさい!」
部屋のドアを激しく開かれ、部屋の中に廊下の褐色の光りが差し込む。布団を雑にはがされると、前沢和馬はベッドにうつ伏せになって寝ていた。
「早くしないと、産まれるよ! あんたも立ち会うんでしょ? お父さんはもう獣医さんと馬房にいるよ。早くしなさい!」
母親の麻奈美は、怒鳴るように言い放ち、和馬のお尻を叩くと、ドタドタと階段を下り、バタン! っと、大きな音を立てて玄関のドアを閉めて外に出ていった。
「……」
和馬はお尻をかきながら、ベッドの横にある机に手を伸ばし、目覚まし時計を手に取った――時刻は、午前三時過ぎ。いつも起きる時間より二時間ほど早い。ただでさえ、他の人達より早く起きているのに――と思いながらも、ベッドから起き上がり、いつも来ているつなぎの作業着に着替え、目をこすりながら駆け足で階段を下り家の外へ出た。
ここは春の北海道早来町の、まだ出来たばかりの小さな丘がある牧場。東京で外 資系の会社の役員として働いていた父親の雅喜が、脱サラして始めた牧場だった――いつか自分の牧場を持つという夢を諦めなかった雅喜が、二年前、たまたま北海道へ旅行に来たときに、紹介してもらった牧場のオーナーが、牧場を閉めると聞き、その牧場を引き継いたのだ――かなり、銀行からお金を借りたようだった。
牧場の名前は、〟マジックファーム〝。まるで、魔法のように夢が叶ったという意味らしい。親父にしては、ファンタジーな名前を付けたなと和馬は思った。
こうして、東京でバリバリのビジネスマンとして働いていた父親が、すべてのキャリアを捨ててまでやりたいというその男気というか、夢を叶えたいという強い意志に負けて、家族四人、この北海道の田舎に引っ越してきたのだった。
長男の和馬は、高校を卒業と同時に――志望した大学に落ちたので――雅喜とともにこの牧場を手伝っていた。
とくに大学に行きたかったわけでもなく、何もやりたいことがなかった和馬には、雅喜が牧場を始めたことは好都合だった――なにせ、就職活動もしなくていいのだ。雅喜の言う通り働いていれば、生活に困ることはないのだから――それがそもそもの間違いだということを、北海道に来たばかりの和馬はわからなかった。
妹の春衣は、こちらの高校に転入し、この春卒業して、今は札幌で一人暮らししながら大学に通っている。父親譲りの動物好きで、獣医を目指して頑張っていた。
この春から父・母・息子、そして一人の女性と四人で牧場を切り盛りしていたが、小さい牧場といっても、四人でやっていくにはかなり大きな牧場だった。自宅の隣に厩舎があり、牧場内には坂路もある。ある程度の施設は備わっていた。
去年は、動物好きの春衣がいたので、仕事も負担も軽かったが――それでも、慣れない和馬には大変だったが――今年からはさらに仕事が増えた。朝も早く、力仕事も雑用も、新人を加えた四人でやるには大変な仕事だった――だけど、何よりも、雅喜の活き活きした顔を見ていたら、文句など言えなかった。
馬は、全部で二頭。二頭とも繁殖牝馬と言われる馬で、去年無事に二頭とも受胎してくれた。
一頭は、栗毛のレディーマスタング。前のオーナーが大金をはたいてアメリカから高額で購入した牝馬だったが、あまりいい仔を産めず、だが手放すにはもったいない馬だったので、雅喜がそのまま世話をすることになった。現役時代は、アメリカのGⅠレースで三着に入ったことのある馬だったようだ。
もう一頭は、芦毛のドリームバード。日本生まれのこの馬は、未出走でそのまま繁殖に上げられた若い牝馬だった。前のオーナーの口利きで、近くにある名門ユーアンンファームから安く譲ってもらった馬だ。まったくの未知数の馬だったが、この馬の父親が、メジロマックイーンという雅喜が大好きだった名馬だったので――たぶん、それが理由で買ったのだろう。この馬が牧場に来たときの雅喜の顔が、和馬が今まで見たことのないぐらい嬉しそうだったのを覚えていた。
和馬は、去年春衣と一緒に種付けを見学した。種牡馬が牝馬の上に、背後から乗りかかり、人間の助けを得ながら交尾をした。その衝撃は、素人には物珍しく、ある意味悲しい光景だった――馬たちは、機械のように淡々と交尾をしていて、まるで生き物を扱うのではなく、まるで商品を作っている作業のように感じられたのだ――もちろん、そんなつもりでみんな取り組んでいるのではないとわかっていた。
二頭の交尾が終わったとき、雅喜が無事に終わったことに安堵していた。牝馬が暴れることもあるみたいで、無事に終わったことに安心と興奮が入り混じった顔をしていた。
それよりも和馬が驚いたのが、種付け料だった。和馬が見たことも聞いたこともないぐらいの料金だった。
「こんな高いの?」
「ああ。でも命を扱ってるからな」
雅喜の淡々とした態度に、和馬は開いた口が塞がらなかった――これから、この自分が働いている牧場で、こんな大金が動くとわかると、少し馬を見る目が変わったのを、和馬ははっきりと憶えていた。雅喜は、初めての種付けに、かなりギリギリの金を使っていた。
レディーマスタングは〇四年NHKマイルCと日本ダービーの変則二冠を達成したキングカメハメハを、ドリームバードは〇四年の凱旋門賞馬バゴを受胎した。
やっと仕事にも慣れ始めた夏。北海道でも三十度を越える日が何日か続いた日、ドリームバードが放牧中に倒れた――雅喜はすぐに獣医さんを呼びに、自宅に走った。春衣はドリームバードの近くで泣き崩れ、麻奈美が春衣の肩をしっかり押さえて落ち着かせていた。和馬は、何をしていいかわからず、ただその場に立ち尽くしていた。
獣医が来ると、みんなで五百キロ近い馬体を持ち上げ車に乗せると、ドリームバードの馬房に運ばれた。
馬房に着き慎重に降ろすと、獣医の間島が診察に入った。聴診器を馬の腹に当て、心臓の音を聞いている。麻奈美と春衣は必死で暑い馬房を冷やそうとタオルを仰いでいる。和馬は、その後ろで壁にもたれかかってしゃがみ込んでいた。親指の爪を噛み、目の前で倒れている命の無事を祈っていた。
間島が聴診器を外し、腹に手を当てたとき、ドリームバードがムクッと起き上がり、ケロッとした顔で立ち上がった――まるで、何を騒いでいるんだと言わんばかりの顔だった。
「よかった……」
家族全員が、その場で泣き崩れた。間島の診断は原因不明だったが、母子ともに心配ないとのことだった。その言葉に、みんな安堵のため息をつき、抱き合って喜んだ。
「レディーを見て来る」
そう言うと、そそくさと和馬は馬小屋を後にした――でも、その顔は安堵に涙が流れていた。
そんな一事件あった夏も終わり、秋の紅葉が牧場を包んだかと思うと、あっという間に雪景色になった。家族で初めて見る一面の雪景色に感動したのは、ほんの一瞬だけだった――雪が積もった次の日、朝早くから雪かきが始まり、北海道の冬の厳しさを痛感することとなった。ほとんど一日牧場中を雪かきして回った。
学校から帰ってきた春衣が手伝ってくれると言うが、雪で遊んで全然仕事になっていなかった。
「おい、春衣! ちゃんと――」
和馬が春衣に振り向いた瞬間、顔に雪玉がクリーンヒットした。
「痛ぇ……」和馬は、その場にしゃがみ込み、チラッと春衣を見ると、春衣は腹を抱えて笑っていた。
「てめえ……」
和馬は、雪玉を作り春衣に当てた。雪玉は春衣の胸に当たり、春衣は怒りながら雪玉を投げ返してきた。
「ちょっと! 胸が小さくなったらどうすんのよ!」
「元々小さいんだよ!」
「何よ! Cカップあります!」
「Aダッシュだろ!」
二人の投げ合いは激しさを増し、その結果、二人とも疲れ果てて、雪が積もって出来たクッションの上に倒れこんだ。
「……雪って、冷たくて気持ちいいね」
「ああ……。こんなに降ることはないけどな」
二人は、大声で笑った。放牧中の馬たちは、二人の笑い声に反応し、耳をクイッと動かして、草を探して雪の中に突っ込んでいた顔を上げて、しばらくの間二人を見ていた――この人間たちは、何が楽しんだと言わんばかりの顔だった。
厳しい冬も終わりを迎えようとしていたが、まだ雪はたくさん残っていた。そんな中、春衣が高校を卒業し、札幌に旅立つ日が二日後に近づいていた。
その日は、高校の同級生が家に遊びに来て、ちょっとしたお別れ会で盛り上がっていた。雅喜と麻奈美は、一年間しか通わなかった春衣のために集まってくれた友達たちに和馬が見たこともないご馳走とケンタッキーフライドチキンを振舞っていた。
和馬は、女の子の中に入るのが照れくさいので、一人離れて厩舎で馬の体をブラッシングしていた。
「春衣な、明後日から札幌なんだぞ」
和馬は、ドリームバードの体を強く優しくこすりながら話した。
「お前たちとも、しばらく会えなくなるな」そう言うと、隣の馬房から顔を出していたレディーマスタングが低く鼻を鳴らした。
「何だよ、お前も寂しいのか?」
すると今度は、ドリームバードが高らかに鳴いた。
「そうだよな。春衣は、優しかったもんな。淋しいよな……」
和馬が、ドリームバードの首元を軽く二回叩いて一服しようと木箱に腰掛けたとき、厩舎内を歩く靴の音に気が付いた。
「すいませーん!」女の子の声が聞こえた。
和馬が、たばこをくわえたまま声のする方へ振り向くと、女の子が厩舎内をキョロキョロ見ながら歩いていた。
「誰?」和馬は、不審そうな顔で女の子を見た。
「あ、春衣のお兄さん。初めまして。同級生の浅海美空です」
「どうも……。で、何か用?」
「すいません。ちょっと馬を見せてほしくて春衣に言ったら、ここにお兄さんがいるからって言われて……。あ、この子、この子!」
美空は、ドリームバードの前に立ち、鼻筋を優しくなでた。
「この馬がどうかしたの?」
「前に一度、会ったことがあるんです」
「え? いつ?」
「ほんの一ヶ月前です。お兄さんが――」
「和馬って呼んで。お兄さんは照れくさい……」
「ごめんなさい……。えっと……、和馬さんは雪かきしてました」
「あっそう……」
「私が柵に近づいて馬を見ていたら、この子が近づいてきてそっと鼻をくっつけてきたんです」
美空は、優しく、優しくドリームバードの鼻筋をなでていた。ドリームバードは嬉しそうに唇を広げている。隣では、レディーマスタングが嫉妬しているかのように高く鳴いたので、和馬がチッチッと舌を鳴らし、首を叩いて落ち着かせた。
「何かこの子の目が優しくて……。最初は怖かったんですけど、だんだん可愛くなってきて……」
「この馬は、夏にぶっ倒れたんだ」
「え?」
「そんときは、家族みんなが慌ててさ。でも、すぐ何事もなかったかのように起き上がってさ、ホント強い馬だよ、こいつは」
「そうなんですか……」
「こいつ、妊娠してるのにブッ倒れて、ホントにビックリしたよ」
「じゃあ、産まれてくる仔も強い仔になるといいですね」
「ああ。なんせ、このマジックファームで初めて産まれる期待の仔だからな」
和馬は、レディーマスタングの口に拳を立てていた。レディーマスタングは、遊ぶように和馬の拳を噛んでいた――予想通り、痛かった。
「そうなんだ……。期待の仔……か」
美空は、そう言いながら遠くを見るように馬を眺めていた。和馬は、そんな美空の遠い目をジッと見ていた。長いまっすぐな黒髪に、猫のようなキリッとした目、その優しい口元から白く冷たい息が出て、肩を震わせていた。
「あ、これ着る?」
壁にかけていたジャンパーを美空に手渡した。
「ありがとうございます」美空は、照れくさそうにジャンパーを羽織った。
それから二人は、何も話すことなく馬を見ていた。
「ねえねえ、美空と何話してたの?」
春衣が、急に部屋に入ってきて、意地悪そうに訊いてきた。
「何にも話してねえよ。ただ、馬を見てただけ。急になんだよ」
和馬はベッドに座り直し、ちょっとウザそうに、首を回して肩を揉んだ。
「へえ……」春衣は、目を細めて和馬を見た。
「だからなんだよ?」
「だってさ、美空、嬉しそうにお兄ちゃんのジャンパー着てたからさ」
「へえ……」
無関心を装っていたが、和馬の心の中はとても華やかだった――何でかはわからないが、とてもハッピーだった。
「あの子さ、両親がいないんだ」
「え?」
春衣の言葉に、和馬は倒そうとしていた体を戻した。
「急に――どういうことだよ?」
「あの子、今親戚の家にお世話になってる子なの。だけど、進学するお金もないし、働きたくても働く場所がなくて……。ただでさえ、家で居場所がないのに……。別に、親戚の人からいじめがあるわけじゃないんだけど……あの子の性格が気使いというか……」
「そうなのか……」
和馬は、ベッドに倒れこみながら、天井を眺めた。天井に、美空のどこか悲しい表情をした残像が映し出された。
「何考えてるの?」
「うわ!」
急に春衣が、和馬の顔を覗き込んできた。驚いた和馬が勢いよく起き上がると、春衣の頭にぶつかった。
「痛~! 何すんの!?」
「それはお前だよ……ったく」
「今、美空のこと考えてたでしょ?」
「は? んなわけねえだろ!」
「ま、いいけど。早く寝た方がいいんじゃない?」
「お前がいるから寝れないんだろ!」
「そうですか。じゃあ、寝ます。おやすみなさ~い」
「ったく……。兄貴の顔が見てみたい……オレか」
和馬は、部屋の電気を消して寝た――目をつむったあとも、美空の悲しい顔が思い浮かんでしまってなかなか寝付けなかった。
春衣は、二日後に呆気な……元気よく、札幌へと旅立った。一人暮らしと言っても寮なので札幌には行かず、家族は牧場に残り、駅で春衣の友達と盛大に見送ってあげた。
汽車の後姿が恥ずかしそうに遠くへ消えて行くまで和馬は見送っていた。そして帰ろうと振り返ると、美空が立っていた。
「うわ! まだいたの?」
「あ、すいません」
「謝ることないよ。みんなは?」
「もう帰りましたよ」
「いつ?」
「もうだいぶ前に……」
「君は残ってたの?」
「はい。なんか、淋しくなっちゃって」
「そうか。じゃあ……乗ってく? 送るよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
和馬と美空は、駅前に停めてある軽トラックに乗り込んだ。
「シートベルトね」
「はい、OKです」
「うぃし、行くぞ」
和馬は、軽快に車を発進させた。
「春衣とは、よく遊んでたの?」
「遊んではいないです。春衣は、学校が終わると、すぐ家に帰って、牧場の手伝いしてましたから」
「そうだな。あいつは、楽しそうに牧場の仕事を手伝ってたわ。……たばこ吸っても大丈夫?」
「あ、気にしないで吸ってください――でも、まだ二十歳じゃないですよね」
「君は、警察か?」
和馬は、窓のハンドルを回して開けると、たばこに火をつけた。
「春衣は優しくしてくれた?」
「はい! 一番の親友です」
「あいつがねえ……」
「春衣はいろいろ相談に乗ってくれるし、いなくなると、ちょっと淋しいです」
「騒がしいから、静かになっただけじゃないの?」
「それはあるかも……」二人は、声を合わせて笑った。
「君は、高校卒業してどうするの?」
「……まだ決まってないんです」
美空は、うつむいて答えた。和馬は、やばいと思いながら、しばらく黙って車を走らせた。
「……腹減ったな。パンでも食べる? オレあそこのメロンパン好きなんだよね。寄っていい?」
「あ、はい……」
和馬は、パン屋の前に車を止め店に入り、メロンパンを二つ買って車に戻った。
「ほれ、食べな。おいしいよ」
「ありがとうございます」
和馬は、メロンパンをくわえたまま車を走らせる。
「これから、何か用事あるの?」
「いいえ、とくに何もないですけど」
「牧場寄ってかない? ドリームバードも会いたがってるよ……たぶん」
「いいんですか?」
「ああ、大丈夫、大丈夫」
「行きたいです!」
「んじゃ、行くか」
和馬は、深くアクセルを踏み込み、広い道路を颯爽と走らせた。
「おお、帰ってきたか――どちらさん?」
雅喜は、ちょうど自宅から出てくると、美空を見ていやらしい顔をした――和馬の彼女だと思っているみたいだ。
「春衣の同級生だよ」
「初めまして……ではないんですけど、橋本美空です」
「ああ、一昨日来てた子か! はいはい、こんにちは」
「春衣は、無事に行ったよ」
「そうか……。こっちも頑張らないとな」
「ああ」
「美空ちゃんも進学かい?」
「あ、いえ……」
「じゃあ、就職?」
「まだ、決まってないんです……」
「そうなのか――じゃあ、ちょっと来なさい。和馬、掃除頼むな」
「おい、おい!」
雅喜は、和馬を置いて美空と自宅に入ってしまった。美空は不安そうな顔で和馬を見たが、和馬は肩をすくめるだけだった。
「ったく、何なんだよ」
和馬は、頭を掻きながら厩舎へと歩いていった。
厩舎は、草と獣の匂いで充満していた。初めは慣れなかった馬の匂いも、今では何とも思わない。ピッチフォークで馬の寝床を作るのもお手の物だ――あまりにもうまく作れるので、たまに自分で横になることもあった。
「さて――」
和馬は、壁にピッチフォークを立て掛けると軍手を脱ぎながら、灰皿バケツに近寄りたばこに火をつけようとした。
「おお、和馬。終わったか?」
雅喜は、何か少し嬉しそうに馬房に入って来た。
「終わったかじゃ――」
和馬は、口にくわえたたばこを離すと、その場に立ち尽くした。
雅喜の後ろに麻奈美がこれまた嬉しそうに立ち、その後ろに作業着に着替えた美空が恥ずかしそうに立っていた。
「今日から住み込みで働いてもらうことになった」
「は? 何言ってるの?」
「だから、今日から美空ちゃんに住み込みで働いてもらうのよ」
麻奈美は、美空の背中を押して前に立たせた。美空は、うつむいて恥ずかしそうにお辞儀をした。
「よろしくお願いします……」
「いや、あの、え!?」
和馬は、戸惑って何から聞いていいかわからなかった――聞かなければいけないことがたくさんあった。
「だって住み込みって、どこに寝るのさ?」
「春衣の部屋が空いてるだろ? なあ、母さん」
「春衣はいいのかよ?」
「さっきメールしたら、「全然OK!」だて」
「あのバカは――お金は、雇えるのかよ?」
「まあ、大丈夫でしょ」
「美空ちゃんは大丈夫なの? いろいろほしい物とかあるだろ?」
「あまり物欲がないので……」
「ま、欲しい物があったらこいつに頼みな」
「そんな金ねえよ!」
雅喜の言葉に和馬は憤慨したが、両親ともに笑ってごまかした。
「まあ、そういうことになったからよろしくな」
「じゃあ、美空ちゃん。私が一緒に仕事教えるから。こっち」
麻奈美は美空を連れて外に出て行ってしまった。
「……いい子だな」
「いやらしんだよ」
和馬は、灰皿バケツにたばこを投げ、雅喜を置いて厩舎を出て行った。
「どこ行くんだよ?」
「練習だよ」
「ああ……行ってらっしゃい」
そう言うと、雅喜は笑顔で和馬を見送った。
馴致――競走馬を育てるために必要な訓練のこと。各牧場で行い、その後調教師のもとでトレーニングをしてレースに出走する。
まず、競走馬は馬具を付けることから始まる――馬具に慣れていないため、強く抵抗する馬もいる。そこから騎乗馴致などの競走馬に必要なトレーニングが始める。
和馬は、近くの牧場に競走馬の育成の勉強をしに通っていた。馴致の勉強をしないと、競走馬を育てることができない。その為に、体重も軽く、体型も向いていた和馬が教わることになった。通い始めてもう一年になる。初めは嫌がっていた和馬も、通っていくうちに、馬に乗れる楽しみと育てている実感が楽しくて勉強に力が入っていた。
その牧場は、車で三十分ぐらいの場所にある、ドリームバードを譲ってもらった名門ユーアンファームだ――ユーアンファームは、無敗の三冠馬や数多くのダービー馬を育成している名門中の名門。セールに出せば、高値で売買され、育成にも定評がある牧場だ。和馬は、これまた前のオーナーからの口利きで通わせてもらっていた。
「こんにちは」
和馬は、車を止めると、いつもお世話になっている育成スタッフの田中さんのもとに言った。
「お世話になります」
「はい、今日もよろしく。じゃあ、さっそく――」和馬は、田中さんとともに準備を始めた。
田中さんは、当初、素人に馬の育成を教えることに困惑していた。生き物を扱う難しさ、馬に対する愛情が強いだけに、半端な教え方ができなかったからだ。だが和馬は、メキメキと頭角を現していた。長年育成に携わっている田中さんが、「うちで働いて欲しい」と口説くぐらい、育成の腕が上がっていた。馬に優しく、しかし遊ぶと厳しく馬に競馬を教えていた。
「もう、教えることはないよ」
「僕は、どうなんですかね?」
和馬と田中が、馬から降りて馬を馬房に連れて歩いていた。
「本当にうちで働いてもらいたいぐらいだよ。自信持って」
「ありがとうございます」
和馬は初め、全然馬を落ち着かせることすらできないぐらい、馬のことを知らなかった。しかし教わっていくうちに、馬のことを理解し、馬たちの個性を掴むのが上手になっていた――これは、口で説明できることではなく、和馬の場合は天性のものだった。
「まあ、確かに一年ですべてを教えることは出来ないけど、和馬君なら大丈夫なような気がする……たぶん」
「何ですか、それ。勘ですか?」
「そうだね」田中さんは、馬の体を手入れしながら笑った。
「その勘は当たるんですよね?」
「人の勘なんて、馬券みたいなものさ」
「……当たり外れがあるってことですか?」
「そう言うこと」二人は、笑いながら馬たりの手入れをしていた――どことなく、馬たちも笑っているような気がした。
「ありがとうございました」
和馬は、田中に深くお辞儀をした。
「まあ、たまに乗りにおいで。来年まで騎乗練習はしておいた方がいいから」
「助かります」
和馬は、車に乗り込むとエンジンをかけ、車を走らせながら頭を垂れた。田中さんは、小さく手を振り、牧場へと戻っていった。
車を走らせていると、和馬の携帯に麻奈美から電話がかかってきた。
「どうしたの?」
(あんた、もう帰る?)
「ああ。今向かってるよ」
(あっそう、わかった)と言うと、麻奈美は携帯を切ってしまった。
「何だよ……」和馬は、携帯を助手席に放り投げた。
和馬が牧場に戻ると、麻奈美と美空が自宅の前で立って待っていた。
「何したの?」
「ちょっと、美空ちゃんの荷物一緒に取りに行ってあげて」
「今?」
「いいです! 自分で取りに行きますから。和馬さんも疲れてるだろうし」
「いいの、いいの。もう真っ暗だし、夜道は危ないから」
「でも……」
「乗りなよ」
和馬は、助手席のドアを開け、無愛想に美空を促した。
「いいんですか?」
「早く風呂入って、ご飯食べようよ」
「すいません。お願いします」
美空は、申し訳なさそうに車に乗った。和馬は、何も言わずに車に乗り込む。すると、麻奈美が助手席の窓を叩いて美空を呼んだ。
「あとでさっきの……」
「わかりました」
「何だよ?」
「母さん!」
「いいの。行ってらっしゃい」
麻奈美は、雅喜に呼ばれて、よそよそしく馬房に向かった。和馬は、舌打ちして車のエンジンをかけた。
FMラジオが流れる車を走らせること十分、美空の住んでいる家に着いた。
「荷物用意してきます!」美空は、急いで車から降りると、大慌てで家に入っていった。
「そんな急がなくても……」
美空が家に入ってすぐに、エプロン姿のおばさんが外に出てきた。和馬は、車から降りると、何気なく頭を下げて挨拶をした。
「初めまして。美空の叔母のです」
「あ、どうも。前沢和馬です」
「この度は、本当にありがとうございます」
「いえいえ、とんでもないです」
「美空は、私の弟夫婦の子なんですけど、二人が亡くなってから、あの子の親代わりでしたが、やっと天国の二人に安心させて上げられたかなと思います。本当にありがとうございます」
「ホント顔を上げてください」
美空の叔母加奈子は、和馬に何度も深くお辞儀をした。和馬は、まわりを見渡しながら、加奈子の顔を上げさせようとした。
「あの子は、生まれつき体の弱い子なんです。それだけが心配で……」
「じゃあ……力仕事は、僕がやるようにします」
「ありがとう……」
「お待たせしました!」美空が、大きなバッグを肩に掛けて出てきた。
「……それだけ?」
「はい」
「家具とかないの?」
「ほとんど、いとこのお姉ちゃんのを借りてたんで」
「そうなんだ……」
でも、美空の持っているバッグの大きさを見ると、かなり詰め込んでいるのがわかった――バッグの側面に、ノートパソコンの形がくっきり見えていた。
「美空……」
「おばさん……」
美空は、肩からバッグを静かに降ろすと、加奈子に向かって深くお辞儀をした。
「今まで育ててくれて、本当にありがとうございます」
「美空――」加奈子は、美空の両手を強く握り、涙を流して言った。
「あんたは、私たちの娘も同然。いつでも遊びにおいで」
「うん――ありがとう」
美空も、目の涙をふき、鼻をすすって言った。和馬ももらい泣きしそうだったので、静かに美空のバッグを車の荷台に積んで二人を見ないように車に乗り込んだ。
「頑張るんだよ……」
「うん……」
美空を乗せた車は、静かに走り始めた。
「いいおばさんだね」
和馬は、バックミラーに映る加奈子を見て言った。美空は後ろを振り返り、大きく手を振る。加奈子も角を曲がるまで手を振っていた。
「寂しいかい?」
和馬は、涙を拭いている美空にチラッと目をやった。
「おばさんもおじさんもいい人だったけど、本当の家族じゃないから、あそこに住んでいるときからどことなく寂しかったけど、いざ離れると、もっと寂しいなあって」
「これから、そんなこと感じられないぐらい忙しくなるよ」
「……あの、一つ訊いてもいいですか?」
「何?」
「私……、迷惑じゃないですか?」
「まあ、雇うって聞いたときは驚いたけど、正直、春衣がいなくなると大変だからね。助かるよ」
「そうか――よかった」
「君こそいいのかい? もっと稼げる仕事あるだろ」
「はい! 私、馬大好きなんで! それだけで十分です」
「そうか。でも、欲しい物があったらいいなよ」
「え? 買ってくれるんですか?」
「親父に一緒に頼んであげる」
車内は、二人の笑い声で溢れた。和馬も、自分では気付いていないが、なんとなく楽しかった。
牧場に戻ると、和馬が重い荷物を持って自宅に入った。美空は、ちょっとだけ和馬を頼もしそうな目で見ていた。
「そうだ!」入ろうとしたところで、美空が思い出したかのように言った。
「今日、鍋だからお肉買って来てっておばさんが……」
「もう着いたよ――ただいま!」
二人は、笑いながら自宅に入った。
こうして、妹がいなくなり、新しく家族を迎えて、マジックファーム二年目がスタートし今日に至った。