小野篁の井戸
「人の身でありながら父上の代に補佐官をしておった男がおってのう。そやつが地獄と現世を行き来するのに使っておった井戸があるのだ。わしが封印を一時的に解き、使えるようにしてやるからそこを通って帰るがよい」
そんな経緯もあって俺たち姉弟は補佐官が通ったという井戸の中を進んでいる。水の中に飛び込むのはもうこりごりと思っていたが、幸いなことに井戸の中は空洞だった。井戸の底に降りると、先がまるで見えない一本道の洞窟が続いていた。手にしたカンテラの灯りが壁面を青白く浮かび上がらせる。ひたすら不気味だ。
「ううっ。暗くてじめじめしてやな感じだよぅ……。お化けが出たらどうしよう」
「姉ちゃん自体がお化けみたいなもんだろ」
「ひっどーい。音羽はお化けじゃないもん。幽霊だもん」
「違いがわからん。だぁーっからっひっつきすぎだって!」
「だって怖いんだもん」
姉ちゃんはよりいっそう強く俺の腕をぎゅっとつかんだ。健全な男子高校生にとって――たとえ血の繋がった姉と弟だとしても、姉ちゃんの胸は威力絶大な理性破壊兵器となりうることを自覚してもらいたい。切実に。
「それにしても、地獄の底で閻魔大王の補佐官をするなんて変わり者もいたもんだよな」
「泣く涙 雨と降らなむ わたり川 水まさりなば かへりくるがに」
姉ちゃんが唐突にすらすらと歌を読み上げた。
「小野篁だったかな? いま読んだ歌は古今和歌集のものなんだけど、たしか百人一首の十一番も小野篁だったはずだよ」
姉の博識ぶりに俺は舌を巻いた。あまりにボケを連発するから疑い始めていたが、成績優秀だったことを思い起こした。
井戸に入った最初の頃こそ他愛のない会話を続けていたが、歩みを進めるうちにどちらからともなく言葉は少なくなっていった。別れが近づきつつあることを知っていた。
永遠に続くかと思われた通路、そして沈黙にも終わりのときが訪れた。眼前に蒼い月を連想させるような燐光を放つ巨大な扉が出現した。
「ここが現世と地獄を結ぶ境界か」
扉は堅く閉じられている。その中央には『封』と書かれた札が貼り付けてあった。
ためしに扉を押してみる。
「うおおおおっほほぉう!」
ばちばちとはじける強力な静電気に似た目に見えない力で身体が弾き飛ばされた。慌てて姉ちゃんが近寄って「生きてる?」と気づかう。
「どちらかというと死んでる。ちょっとびっくりしたけど平気、平気」
びりびりと痺れる手を地面につき俺は立ち上がった。
「閻ちゃんが言っていた封印を解くというのはどうやらこいつのことらしいな」
「……うん。そうだね」
姉ちゃんは力なく返事した。明らかに元気がない。
「どうしたの姉ちゃん」
俺も姉ちゃんと同じ気持ちだったから元気がない理由はわかっていたけれども、聞かずにはいられなかった。姉ちゃんは問いには答えず、紅玉色の瞳を潤ませながら俺の手を握った。自身の胸がどきりと高鳴ったのがわかった。




