清純ラブドール
もう歩くことすらも大変だ。産婦人科の先生によると、お腹の赤ちゃんはすくすくと育っているそうだ。仕事で歩くことが多い為なのか、運動不足にはならずにすんでいる。ちょっとした出来事で知り合ったお婆ちゃんが、色々と世話を焼いてくれていることも、正直助かっている。
お婆ちゃんはあたしの過去に一切触れない。一日に一度か二度、必ず姿を見せて美味しいご飯を作ってくれたり、掃除や洗濯を手伝ってくれたりして、時折自分の母親のように錯覚してしまいそうになる。
久しぶりの休み、お弁当を作ってお婆ちゃんと二人、家から三十分ほどの大きな公園に向かった。最近は寒さも和らいできて、仄かにあたたかい陽が気持ちいい。
あたしの視線の先で、厚着をしたよちよち歩きの女の子と、その両親が幸せそうに遊んでいる。それはあたしにとって、あまりにも眩しい光景だった。この子が生まれたとしても、この子には父親がいない。覚悟を決めて産む決意をしてというのに、それを実感する度に不安になってしまう。
ふと、脳裏に皮肉めいた笑いを浮かべる、無愛想な男の顔が浮かんだ。
「もう会えないのかなあ」
「あらあら、恋する乙女みたいなこと言って」
思わず漏らしてしまった本音。それを聞いたお婆ちゃんはさも楽しげにころころと笑う。あたしはそんなお婆ちゃんを軽く睨みながら、唇を尖らせた。
「そんな相手じゃないって。ただ、不思議と頼りになる奴だからさ」
視線の先の女の子が小石に躓いて転んでしまった。厚着をしていたから痛くはなかったみたいだけど、びっくりしたしまったのか目を丸くして泣き出してしまった。父親は慌てた様子で女の子を抱き上げ、頭を撫ぜながら優しく揺れる。それを母親が優しい目で見詰めていた。
「この子には父親がいないの。それでこの子が苦しむのは嫌だなあ」
「父親がいないと幸せになれない、そんなことはないのよ」
「でも、この子にとってはハンデじゃない」
「そう思うならば、あなたが父親の分も愛してあげればいいの。それだけの話なのよ」
その言葉に思わずお婆ちゃんを見詰めてしまう。その目からは大きな優しさとあたたかさが溢れていた。
「大切なのは無くしたものじゃないし、手に入らないものじゃないの。手元に残ったそれも、とても大切なのよ」
あたしの手元に残ったもの、それって、この子のことなのかな。両親に捨てられ、生きる為に、いや違う、ただ誰かに愛されたくて安く身体を売り、存在の証として相手の背中に爪痕を付けた。。
でも、あたしの手に入ったのは浮かれた熱と僅かな金と蔑みだけだった。本当は分かっていた、そんなことをしても何も変わらないってこと。刹那抱かれた熱に浮かされても、どれだけ男の背中に爪痕を付けても、それはずっと欲しかったものではないってこと。
そのまま死ぬことすら考えていたのに、あたしのお腹にはこの子が宿った。
視線の先の眩しい光景。無くしてしまったものと手元に残っているもの。大切にすべき何か。
父親が女の子を肩車してあげると、女の子は瞳に涙を溜めたままけたけたと笑ってしまう。調子に乗った父親はそのまま身体を大きく揺らし始めた。するとさすがに怖くなってしまったのか、女の子は父親の頭に縋り付いてまた泣き出してしまう。母親は半ば呆れながら女の子に手を取り上げ、優しく抱きしめた。
「あんな風に、この子も笑ってくれるかな」
「きっと大丈夫。傍であなたが笑っていれば、その子もきっと笑ってくれるわ」
あたしには何もない。強さも賢さも金すらもない。そんなあたしがこの子を笑わせてあげられるのだろうか。
不意に、哺乳瓶や粉ミルク、おむつを持ってきてくれた、あいつの無愛想な顔が浮かんだ。
思わず俯いてしまう。
「その子の為に生きることは正しいわ。でもね、あなた自身の幸せも求めていいのよ」
「でも」
「さあ、お弁当を食べましょう」
あたしはもう一度、視線の先の親子を見詰めた。
あたしは弱い。あたしは汚い。あたしは馬鹿だ。でも、あたしはもうすぐ母親になる。全てを認め受け止めたて、精一杯笑ってみよう。
お婆ちゃんの握ってくれたおにぎりを頬張ると、具がとても酸っぱい梅干で思わず顔を顰めてしまった。
それを見たお婆ちゃんは、不思議と幸せそうに笑っていた。