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疼痛ベアマリア

 身に沁みる寒さの中、寂れた道筋を老婆が杖を付きながら歩いていた。右膝が悪いのか、それを軽く引き摺り、時折痛みからか顔を顰めている。表情に陰があるのは、例年よりも冷えるからだけではない。

 今年ももうすぐ終わるというのに、二人の息子達は仕事が忙しいのか帰省どころか電話すらも寄越さない。便りがないのは好い便りとは言うものの、せめて声だけでも聞かせて欲しいと思う。それすらも我侭なのだろうと深く溜息を吐いた。

 前を向いて歩かなくなりもう久しい。前を見るよりも足元を見なければ危ないのだと、数年前に小さな段差で躓き右膝を骨折して思い知った。それから前を向くことは止めた。

 期待しても何も変わらない。じっと時を数え待てば春は来るのだと知っている。ただ積み重なる毎日に何も求めるものがない、それが妙に哀しかった。無事に春が訪れれば日向で桜を愛でることもできる。

 右膝に重たい痛みが走り、また顔を顰めた。身体が思うように動かない。芯から冷えてしまった。

 老いは恥ではないと誰かが言った。それはその者の人生が輝いているからだと思った。老いても尚、背筋を伸ばし真っ直ぐ前を向ける強さもなければ希望もない。ただそれが間違いだとは思わない。老兵は去るのみという言葉もあるのだから。

 何ひとつ変わらない毎日の繰り返しは穏やかでもある。老いの前にひとつずつ何かを諦めていく。それは穏やかに死を迎え入れる為だと聞いた時、それに順ずることが楽だろうと思った。

 だがまだそこまで達観できるほどに絶望もしていない。その狭間に漂いながら、己の小さな欲望を希望としているだけだ。それらを諦めてしまった時、きっと全てを受け入れられるだろうと思っている。

 近所の小さな食料品店が郊外に建った大型スーパーの煽りを受けて潰れてしまった為、買い物に片道三十分も歩く羽目になった。バスやタクシーを利用したくとも、そんな金はない。年金として入る僅かな金だけでは生活していくだけで精一杯だ。

 歩くことに疲れてしまい立ち止まる。頭を上げて周囲を見回すと先に小さな公園が見えた。ひとつだけだがベンチはあった筈と、痛む右膝を引き摺りながら公園に入った。

 ベンチには先客がいた。安物のダウンジャケットを羽織り薄汚れたジーンズとスニーカーを穿いた若い女だった。大きなお腹を抱えているところを見ると妊娠しているらしい。頬を涙が伝っている。その身体は小さく震えていた。

 何が彼女を哀しませているのか、それは分からない。あの身形では生活するにも困っているのだろうと想像は付く。伴侶がいる女はあそこまで身形に無頓着にはならない筈だ。

 女は唇を噛み締め握り拳を太ももに押し付けながらただ震えるように泣いていた。彼女から哀しさだけでなく、悔しさや情けなさ、そして自分の不甲斐なさへの怒りが伝わってくる。不意に握り拳を解くと、その両手でその大きくなった下腹を優しく撫ぜた。

 その姿に遠い昔の自分が重なった。夫が若くして死に、幼い息子二人と立ち尽くしたあの頃。自分を支えてくれたそれを失い、ただ食べるということすらも困難になった。強くなろうと心に誓ったが、不意に押し寄せる哀しみを振り払うことはできなかった。

 老婆はすぐ側にあった自動販売機であたたかいココアとお茶を買うと、それを人肌まで冷まして、ゆっくりとベンチに向かい、震えながら泣く女の頬にあたたかいそれを押し付けた。突然のことに驚いた女は小さな悲鳴を上げて老婆を見詰める。老婆は小さく微笑みながらココアを女の手に握らせ、女の隣に腰を下ろす。そして何も言わず、微笑みながらただ女の髪を優しく撫ぜた。

 彼女が欲しいのはきっと、押し付けではない優しさとあたたかさ。どんな素晴らしい言葉も力にならない時がある。ならばただ優しく抱きしめてあげればいい。きっとそれだけでいい。

 老婆を呆然と見詰めていた女は、抱き締められた瞬間、声を上げて泣き崩れた。老婆は女をただ優しく抱き締め続けた。

 こんなことしかしてあげられないのだとしても、それが彼女の心を支えてあげられるのならばそれでいい。

 老いは恥ではないと誰かが言った。それはどうやら本当のことだったらしい。

 春はまだ遠い。だが必ず春は訪れる。身を切る寒さもいつか和らぎ、あたたかい陽も射すだろう。

 それまでは梅でも愛でればよい。

 泣き続ける女を優しく抱き締めながら、老婆はただじっとまだ遠い春に思いを馳せた。

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