喪失ラブキラー
深夜の冷たい外気に触れている薄皮の下に内包されたそれは、汚物のように澱み腐り鼻を衝くような悪臭に満ちていることに、その女は気付いている。同時にそれは言い知れぬ呻きを漏らすほどの強い熱を孕んでいた。
愛した男の性を受け止める度に感じたようにも微か覚えている。少なくともあれには僅かであれ愛があったはずだが、この身体の中で蠢く熱い汚物にそんな陳腐で純粋なものは含まれていないようだ。
己の視線の先に愛していた男がいる。男は懲りもせずに売女を買いホテルで抱いたようだ。これでもう何人目だろう。数えることすらもう止めた。共に暮らしていた家からは出たが別に離婚した訳ではない。まだ関係は終わっていないというのに、この男はまた過ちを繰り返している。
ホテルから出て拗ねたように口を尖らし軽く睨む売女と別れた男は、降り出した雨を鬱陶しそうに見上げると小さく舌打ちをし、コートの襟を立て歩き始めた。ホテル街から裏道に入り、暗がりをのそのそと歩くその姿に愛していた頃の胸の高鳴りは欠片も感じない。今、己の目の前を歩いているのは、安く低俗な上に下衆な糞男で、自分がこの男のどこを愛していたのか、それすらももう分らなくなった。
きっとこの男の一物は数々の売女の愛液に塗れていた。汚らわしくおぞましいそれを、耳元で愛を囁きながら妻である自分にも挿入していたのかと思うと、怖気と共に強い吐き気すらも覚える。
捨てたように思わせれば、きっと追い掛けてくれると信じていた。過ちに気付き謝罪してくれたらそれで許すつもりでした。実家に戻り十日が過ぎても男から連絡は入らず、その怒りを叩きつけようと男の携帯を鳴らそうとした。だがそれが解約されていると知った時、心の中で何かが崩れ、その奥からこの汚物が溢れ出した。それは静かに過ぎていく日々の中で膨張していく。その苦しみに耐えられず、叩き付けるかのように唯一の自慢だった黒髪を乱暴に切り刻んだ。繰り返す内に、腰まであったそれは小指ほどの長さになった。そして両親が哀れみに満ちた視線を向けていることに気付いたその時、内包していたそれが弾け飛んだ。それらが肉塊となるまでにそう時間は掛からなかった。
男は自分に捨てられて、どうやら自由を手に入れたように思っているらしい。何と浅はかで愚かな男だろうか。だがこんな男を愛し何度も股を開いてたのだから、自分も相当に安っぽく莫迦な女であることは間違いないと小さく口元を歪める。
自分の尻は自分で拭く、それは社会人としての責任だ。もうこの手は血に塗れ陽の下に戻る術などない。ならばこの薄皮の下に内包した熱い汚物を思うが侭ぶちまけ、不貞を働いた裏切者に制裁を下し、その上で己の尻を拭く。まず、あの裏切者に責任を取らせれるべきだ。
懐から己の髪を切り両親を肉塊に変えた鋏を取り出す。何本もの黒髪と澱んだ血が纏わり付き鈍く輝くそれは、女が内包する熱い汚物をただ只管に強く煽る。それが理性の沸点を超えた瞬間、女は男に駆け寄るとその背中に鋏を振り下ろした。男は小さな悲鳴を上げ、足元の水溜りへと前のめりに転がる。痛みに耐えながら振り返り、女の顔を確認した瞬間、その顔は恐怖から固まった。
男の口から何か言葉が発されているように思うが、それら全ては女にとって雑音でしかなく、逃げようと這いずる男の背に跨ると、その身体に何度も何度も鋏を振り下ろした。
ふと、股間が濡れていることに気付く。恐怖からなのか快楽からなのか、それは分らない。ただひとつだけ確かなことは、これでこの男に責任を取らせることができたということだ。
男の顔を見る。輝きを失った眼は恐怖に歪み、だらしなく開いた口から涎と血が溢れ、首筋の傷からは弱いリズムを刻みながら血が流れている。己の全身が返り血で紅に染まっていた。
だが、薄皮の下に蠢くそれは消えなかった。むしろ次の獲物を求めるかのように、女の心を煽り焦がす。
ふと、女の脳裏にひとつの情景が思い浮かぶ。それはこの男の背中に爪痕を見付けた、その瞬間の情景だった。そう、こんなことになってしまったもうひとつの原因は、この男の背中に爪痕をつけた売女だ。ならばその売女にも、この男のような結末が相応しいはず。何も躊躇う必要はない。何の情けも容赦も要らない。
不意に強い吐き気に襲われ、女は膝を付き胃液を吐く。口元を押さえ震えるその姿は、無力な幼児のようにも見えた。
女は動かなくなった男の懐を漁り携帯と財布を取り出すとそれをショルダーバックに放り込み、暗闇へと歩み始める。その見開かれた眼は爛々と輝き、その手に握られた鋏は鮮血を吸い、仄か悦んでいるかのようにも見えた。
雨が止む。雲間から漏れる月明かりに照られたその姿は亡霊のようにも見えた。