星屑チープレノン
お前を見掛けた時、以前との落差に驚いた
。あの頃から濃い化粧をしていた訳ではなかったことがお前だと気付かせてくれた。
お前はあの日、俺の背に爪痕を刻み哀しげに泣いた。どうして爪を立てるのか、その理由は分らなかったが、ただ少なくともお前が絶望していることだけは分った。お前が部屋から出た後、俺の心に残ったのは仄かに暗く酷く苦い感情だった。
お前の爪痕は俺の人生を狂わせた。翌日、それに気付いた妻は俺を見限り、手紙を残して姿を消した。妻が残した手紙には「さようなら」とだけ記してあった。
あの爪痕を刻んだお前を探し、その罪を償わせようとも思った。だが償わせたとして、それにどれだけの意味があろうか。償わせたとて時は戻らない。
お前に惹かれていた訳ではない。金を払っているというのに愛想も悪く顔を背け喘ぎ声も押し殺す。若いというだけで際立って可愛い訳でもなければお洒落という訳でもない。ただ爪だけが綺麗な女などに惹かれるはずがない。だがそれでも、お前が見せたあの哀しげな表情が心に焼き付いていた。
それから幾日が過ぎても、その重い感情が晴れることがなかった。お前はどうして泣いていたのか、お前は何を苦しんでいたのか、お前は今、生きているのか。それを知りたいと思った。
お前はきっと俺のことなど覚えてはいないだろう。いや、覚えているはずもない。むしろ覚えていて欲しいとは思わない。
あの時、お前のことを俺は見下していた。身体を売って金を稼ぐ下衆な女だと思っていた。それは間違いではない。だがそれを買って愉しんでいた俺もやはり下衆なのだ。
繁華街でお前の姿を探したのは、もしかすると同じ下衆の悪臭いを嗅いで安心したかったのかもしれない。
だが繁華街にはお前の姿はなかった。元々居場所も知らず連絡する手段もない相手を探すこと自体が無茶な話だった。
だが一ヶ月ほどが過ぎ、諦め掛けていたある日、お前を見つけた。お前は地味なトレーナーにジーンズとスニーカーにショルダーバッグという若い女とは思えない格好で、額に玉の汗を浮かべながら、寂れた住宅街を歩いていた。
何をしているのか気に懸かりつけてみると、新聞代の集金をしていた。面倒臭そうに顔を顰める糞婆や払おうともしない中年男に必死に笑顔を向け頭を下げ、懸命に働いていた。
お前に何があったのか、それは分らない。ただ、お前は今、少なくとも前を向いて歯を食い縛り歩いていることを知った。
遠目で見てもやはりお前の爪は綺麗だった。もう俺の背中にはお前の爪痕は残っていない。何ひとつとしてお前との繋がりはない。ふと、それが寂しい気がした。
お前はきっと、大切にするべき何かを見つけ絶望の淵から立ち上がったのだろう。ならば余計に俺はお前の前に姿を見せるべきではない。
爪痕はお前の絶望だった。それは俺にも絶望を齎した。お前を恨むことも憎むこともできる。だが仮にお前を殺したとしても、妻が戻ることはない。だがそれが俺への罰なのだとすれば、それは甘んじて受けるべきだ。
お前も何かを償う時が来るのだろうか。
お前への手紙を記し、深夜、それをおよそ人が住めるとは思えないほど古く荒れた、お前の住む部屋のポストに入れようとした。
だが背後に人の気配を感じその手が止まる。振り返るとそこにはひとりの男が立っていた。鬱屈とし尖った眼、への字に曲げられた口には煙草を咥えている。
「ここの地味女に何か用か」
その手の買い物袋から、哺乳瓶や粉ミルクが姿を覗かせていた。思わず笑ってしまう。頭を小さく横に振ると、俺はゆっくりとその場を後にした。
「あれ、誰かと話してなかった、あんた」
「いや、何でもねぇ」
背後から明るいお前の声が聞こえた。
お前が手に入れた希望が何なのかが分った。それがきっとお前を強くしたのだな。お前にとってのそれは償いであり、そして希望なのだろう。
冬の夜空は澄んでいる。深夜、寂れた街は静寂に包まれている。星座なんぞ知らないのだからそれらに意味を持たせることはできないが、美しいと思うことはできた。手紙を破り、それを空に放り投げる。
ふと、右手を背に回す。ここに刻まれていたお前の苦しみと悲しみ、そして希望。きっとお前が誰かの背に爪痕を刻むことはもうないのだろう。
ポケットに手を突っ込み、ゆっくりと歩き出す。耳が痛くなりそうなほどの静寂の中、星空を見上げながら。