幸福ラブリーベイビー
春の訪れに気付いたのは桜が咲いてそれを揺らす風があたたかいと気付いてからのことだった。意識しないようにしながらも、視線の端でいつもあいつの姿を探していた。
別にあいつに想いがある訳じゃない。ただ何となく、近くにいて欲しいと思った。もしかするとそれは、ただあたたかさを求めているだけの依存のようなものなのかもしれない。でもそれでも、と思ってしまう。
臨月になり働くことが難しくなってきた頃、あたしの部屋のポストにぼろぼろの封筒が放り込まれていた。封筒には三十万円近くのお金が入っていて、紙幣だけでなく一円玉のような小銭まで入れてくれていて、それはずっしりと重かった。その重さに封筒を胸に抱いて泣いていると、部屋に来ていたお婆ちゃんは微笑みながら「いいひとね」と言ってくれた。
姿を見せないのは何かの理由があると分かっている。あいつが普通の生活を送ってきた男ではないことくらいは理解しているつもりだ。新聞代を取り立てようとあいつの部屋の扉を叩いたあの日、新聞代の為にあいつが質屋に持ち込んだのは数本の金歯だったのだから。
オムツや哺乳瓶などの育児用品を買ってきたのもあいつだった。新聞屋だけの収入では足りず、少ない空き時間でもできるアルバイトを探している時、あたしみたいな女に理解のある弁当屋の募集チラシをポストに入れてくれたのも、きっとあいつだ。
姿は見せないくせに、いつもどこかで見守っていてくれていた。
春先の陽気に誘われて、いつもお婆ちゃんと散歩に来る公園へと来た。満開の桜の花はとても綺麗で、思わず見惚れてしまう。
びっくりするほど大きくなったお腹の中で、赤ちゃんはとにかく元気だ。先日診察してくれた産婦人科のお医者さんは、「少なくとも運動不足だけはなかったから、そのせいではないでしょうか」と笑っていた。
ベンチに座りながら、視線の先で楽しげに遊ぶ女の子連れの夫婦を見詰める。まだよちよち歩きの女の子は、少し離れた場所で手を鳴らす両親のところへ、にこにこと笑いながら歩いていく。そんな我が子をとても愛しげな優しい目で見詰める夫婦。
なんてあたたかい光景だろう。以前のあたしなら、こんなことを考えるなんて決してなかったと思う。欲しても絶対に手に入らないと思っていた。諦めていた。だからいつもそれは冷たく色褪せていた。だけれど、今のあたしにとってそれはとても大きな意味があった。
別にあいつに想いがある訳じゃない。それでも、どうしても視線の端であいつの姿を求めてしまう。愛だとか恋だとか、そんな言葉なんて口が裂けてもいえない。小さな溜息を吐いて頭を掻くと、嫉妬したかのように赤ちゃんがお腹を蹴った。思わず笑ってしまって、お腹を見詰めて優しく撫ぜる。
「お前、こんなところまで出歩いて大丈夫なのか」
唐突にあたしの耳に届いたその声はとても無愛想で、でもどこかあたたかかった。視線を向けると、目の前に安煙草を咥えたあいつが両手に大きな買い物袋を提げて立っていた。
「適度な運動はしないとね」
「片道三十分歩くってのは適度とは言わねぇだろ」
「集金で毎日歩いてたあたしにとっては適度なんだよ」
「そうか、元気そうだな」
軽口を叩き笑うあいつを軽く睨む。やっと会えたというのに、以前と何も、何ひとつ変わらない。
「どこ行ってたのよ、あんた」
「面倒臭ぇ用事を済ましてきた」
「ふぅん」
「それと、ちっと金稼いでた」
「真っ当な仕事なんでしょうね、それ」
「当たり前だ、バカヤロ。おら、食いモンやら何やら、色々買ってきてやったぞ」
「何よ、その恩着せがましい言い方ぁ」
軽く眉を顰めて唇を尖らすと、あいつは照れ臭そうに苦笑いしながらあたしの隣に腰を下ろす。不意に吹いたあたたかくて優しい風が、あたしの頬を撫ぜてくれる。
「腹のガキのパパの席はまだ空いてんのか」
「そんな相手、探す暇があるはずないの知ってるでしょ」
「なら俺がなってやるよ、そいつのパパ」
その言葉が耳に届いた瞬間、あたしは言葉を失った。あたしはこいつのことを何も知らない。こいつもあたしのことをどれだけ理解しているのかは怪しい。それでも伝わっていることも、伝わってくるものもあるのだと思う。
俯きながら唇を噛み締めて、零れそうになる涙を堪えた。それでも頬を伝う涙を見たあいつは、何も言わずに肩を抱いてくれた。
あたしは愛玩人形のように男に抱かれてきた。そんなあたしに宿った命、それが齎してくれた幸福。
あたたかく優しい陽の光と風が、あたしとあいつを包み込んでくれた。