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爪痕ラブドール

原稿用紙枚、社会問題

 あたしは男の背中に爪痕を刻む。

 愛されることを知らないあたしはただ男に買われ生きている。金、それも必要だけれど、何よりも熱を感じていたかった。

 愛されることとはなんだろう、愛されたことのないあたしには想像もつかない。どうやらそれは、安く買われ抱かれる度に感じる熱とは違うらしい。だけれど、あたしには友達が口々に云う、只管に安っぽい恋だの愛だのとも違うように思えた。

 身体に吐き出された熱く生腐いそれに指先を触れる。これを吐き出す為にあんなに金を払うというのだから、男という生き物は救いようがない。指先に絡めて見詰めているとぞわぞわと背筋に嫌な悪寒が走り、あわててそれらを拭い取った。

 行為が終わった後に見せる男どもの顔はいつも満足気な反面で酷く鬱々としている。これが罪だと知っているからなのだろうか。

「爪、立てるなよ」

 冷たい視線を向けるその男からあたしは視線を逸らした。妻や恋人に知られたくないのならば、こんなことをしなければいい。

 男とはなんて都合のいいことを考えるのだろう。こんな愚かな生き物の熱を感じたいなんて、そんなことを考えているあたしも大概馬鹿なのだろう。

 自分の愚かさになんて随分前に気付いていた。親は一度たりともあたしを見てくれなかった。気付いた時には見捨てられていて、ひとりきりになっていた。あたしにはもう、帰る場所すらない。

「痛いじゃないか」

 痛くて当然だ、痛みを感じるくらいには強く爪を立てていたのだから。あたしは男に買われ、ひとときだけ愛される愛玩人形のようなものだ。でもそうしなければ生きていくことすらできない。だから小さな抵抗として、男の背中に爪痕を刻む。そんなほんの小さな権利すら、今のあたしにはないのだろうか。

 男の言葉を無視し、そのままシーツに包まり目を閉じる。真っ暗な闇の中、身体の奥から小さな鼓動が聞こえる。身体が小さく震えているのが分かる。必死にその身体を自分の両腕で抱き締める。震えが止まる様子はない。あたしは何をしているのだろう。

「おい、聞いてるのかっ」

 男は怒声を上げながら強引にシーツを剥ぎとり、あたしの両手首を抑え込んで身体を重ねた。だけれど、あたしの顔を見て眉をひそめる。

「何を泣いてるんだ」

 そんなのあたしにだって分からない。こんな思いまでして、どうして生きようとしているのだろう。あたしには何の夢もない。あたしには何の希望もない。この身体以外何もありはしない。何も持たないあたしには、何かを求めることすらも許されない。

 男は小さく溜息を吐くと、そんなあたしを何も言わずに抱き締めてくれた。これも愛ではない。それも分かっている。それでも今のあたしには縋ることができるものはそれしかなかった。

 そのまままた、流されるが侭に男に抱かれた。優しい言葉は何もない。だけれどあたしの身体に伝い落ちる汗と、吐き出されたそれの熱だけは虚実ではなかった。

 そしてあたしはやはり、男の背中に爪痕を刻む。刻まれたそれは罪の証、そしてこの男に抱かれたという、あたしという存在の証だから。

 吐き出されたそれを指先でなぞると、仄か残された熱が心に小さな漣を起こした。もう全ての感覚を閉ざしてしまいたくなる。

 この男とあたしは、決して重ならない線と線だ。行為が終わり興味が薄れれば、男は冷たくなる。罪悪感に浸り蔑みを隠し優しく微笑んだとしても、それも愛ではないのだから。

 横目で見下されまるで突き放すように投げられた金を拾い、あたしはシャワーを浴びると男とは別にホテルから出た。

 季節は秋から冬へと向かい始め、切るような冷たさが肌を刺す。それでも繁華街は相変わらずの喧騒に浮かれている。ここでは全てが真実であり虚実だ。信じれば裏切られ、穢され、壊され、崩される。だけれどあたしにはここにしか居場所が、そして現実がない。

 視線を巡らせると、道向かいをブレザーを着た女子高生が数人、楽しげに歩いていた。少し前まではあたしもあちら側にいたはずなのに、今ではやけに遠く感じる。

 彼女たちとあたしの現実は違う。彼女たちは今を楽しんでいて、あたしは今を苦しんでいる。遠くて当たり前なんだと俯き唇を噛み締めた。

 溢れそうになる涙を指先で拭う。

 この世界に、あたしを愛してくれる誰かなんているのだろうか。あたしはこれからも愛玩人形のように男に抱かれ、その背中に爪痕を刻みながら生きていくのだろうか。

 側にある自動販売機で暖かい缶コーヒーを買い、それを頬に押し当てる。何も、何ひとつ変わりはしないけれど、それはあたしの心に安らぎを齎してくれた。

 もう一度だけ、道向かいの女子高生を見た。もう戻ることはない、あの頃の「今」を心に刻もうと思った。

 彼女らに背を向け、あたしは繁華街の暗がりへと歩き始めた。

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