第1話 クラスメイトの尻を見たら終わっていた
あいうえ
人生、金がないとろくなことを考えない。
これはたぶん、真理だと思う。
「成人向け動画って、顔出さなくても売れるらしいぞ」
「へえ」
「月十万とかいく奴もいるって」
「へえ」
「相沢、お前やれば?」
「なんで俺なんだよ」
十月上旬。
大学の昼休み。
俺――相沢悠人は、学生食堂の隅で百八十円のかけうどんをすすりながら、友人の田中から非常にありがたい副業情報を授かっていた。
「だってお前、金ないじゃん」
「否定はしない」
「動画編集もできるじゃん」
「講義で触った程度な」
「じゃあ決まりだな」
「何が?」
「デビュー」
「誰が俺の裸に金払うんだよ」
「確かに」
「そこは否定しろよ」
自分で言っておいてなんだが、ちょっと傷ついた。
俺は大学二年生。
二十歳。
一人暮らし。
仕送りなし。
奨学金あり。
そして先週、愛用していたノートパソコンが死んだ。
修理見積もり、八万六千円。
俺の銀行残高、三万二千円。
見事な詰みである。
「でも男一人じゃなくて女と撮ればいいじゃん」
「その女をどこから連れてくるんだよ」
「大学」
「犯罪者の発想なんよ」
「いや、ちゃんと同意取って」
「それでも昼の学食で話す内容ではない」
俺は周囲を見回した。
幸い、こちらを気にしている人間はいない。
昼休みの学食なんて、誰もが自分の飯と友人との会話に夢中だ。
――と思ったのだが。
一人だけ。
斜め後ろの席で本を読んでいた女が、ゆっくりこちらを見た。
「……」
「……」
目が合った。
白石凛花。
同じ必修クラスの女子だった。
肩より少し長い黒髪。
整った顔。
細身で、いつも服装もきっちりしている。
成績は上位。
教授からの評判もいい。
サークルの男に何度か告白されて、その全部を断ったなんて噂まである。
早い話が、高嶺の花というやつだ。
その白石が。
俺たちを見ていた。
「……聞いてた?」
「さあ」
田中が小声で答える。
「聞いてたよな」
「終わったな」
「お前も共犯だろ」
「俺は午後から講義あるから」
「俺もあるわ」
白石は何も言わず、再び本に視線を落とした。
その横顔には何の感情も浮かんでいない。
まあ。
どうせ普段ほとんど話さない相手だ。
変な奴だと思われたところで、人生への影響は少ない。
そう考え、俺は残ったうどんをすすった。
この時の俺に一つ教えてやれるなら、こう言いたい。
その考えは甘い。
砂糖漬けのドーナツより甘い、と。
◇
「相沢君」
五限終了後。
「はい?」
教室を出ようとした俺を呼び止めたのは、白石だった。
終わった。
昼の話だ。
セクハラで学生課にでも突き出されるのだろうか。
「昼休みの件なんだけど」
「白石さん。あれは誤解なんだ」
「まだ何も言ってないけど」
「……どうぞ」
白石は少し周囲を気にしてから、俺の側まで寄ってきた。
そして。
「その……動画って、本当にお金になるの?」
「…………はい?」
「だから、昼休みに話していたやつ」
予想外すぎて言葉が出なかった。
「顔を出さなくてもいいって言ってたよね」
「言ったのは田中だけど」
「どれくらい稼げるの?」
「いや、俺も知らない。やったことないし」
「そう」
白石は少しだけ残念そうな顔をした。
なんなんだ。
この会話。
「もしかして白石さん、金に困ってる?」
「……少し」
「意外だな」
「相沢君にだけは言われたくない」
「それはそう」
そこから奇妙な話し合いが始まった。
場所を移して、大学近くのファミレス。
俺はドリンクバー。
白石は水。
「注文しないの?」
「節約」
「思ったより深刻そうだな」
「相沢君は?」
「ドリンクバーだけ」
「人のこと言えないじゃん」
「仲間だな」
「嫌」
即答だった。
ひどい。
話を聞いてみると、どうやら白石にも急にまとまった金が必要になったらしい。
詳しい理由は教えてくれなかった。
俺も無理には聞かなかった。
そして話し合うこと、およそ三十分。
一つの結論にたどり着いた。
「……本当にやるの?」
俺が聞く。
白石はしばらく黙り、
「一回だけ」
と答えた。
「顔は映さない」
「うん」
「本名も出さない」
「当然」
「嫌になったら即中止」
「分かった」
「撮ったものは二人で確認して、どっちか一人でも嫌だと思ったら消す」
「それも分かった」
白石は両手で水の入ったグラスを包み込む。
耳が少し赤かった。
「……相沢君」
「ん?」
「変なことしたら警察呼ぶから」
「撮影相手に対する信頼ゼロじゃねえか」
「当たり前でしょ」
「じゃあなんで俺なんだよ」
「……知り合いの中では、一番どうでもいいから」
「泣いていい?」
こうして。
なぜか俺は、ほとんど話したこともない大学の美少女と、成人向け動画を撮ることになった。
◇
三日後。
俺の部屋。
「…………」
「…………」
気まずい。
死ぬほど気まずい。
俺はスマホを三脚に固定しながら、今日だけで十七回目くらいの後悔をしていた。
やっぱり断ればよかった。
八万六千円くらい働いて稼げばいい。
一か月食パンだけで生活すればなんとかなる。
「相沢君」
「はい」
「緊張してる?」
「そりゃするだろ」
「……私も」
白石は俺のベッドの端に座っていた。
大学では見たことがないくらい落ち着かない様子で、何度も自分の指先を触っている。
いつもの澄ました顔はどこへ行った。
「まだやめてもいいからな」
「やる」
「無理しなくていいぞ」
「相沢君」
「何?」
「八万六千円」
「覚えてたのかよ」
「私はもっと必要だから」
「……そうか」
強い。
金の力は強い。
俺はカメラの角度を確認する。
「顔はここから上なら映らない」
「うん」
「とりあえず最初は……その、いきなり全部じゃなくて」
「分かってる」
「本当に?」
「何度も確認しないで。余計恥ずかしくなるから」
「すみません」
なぜ俺が謝っているのだろう。
白石が一度、大きく息を吐いた。
そして立ち上がる。
「……じゃあ」
「おう」
「後ろ、向いてて」
「おう」
俺は壁を向いた。
背後から衣擦れの音。
心臓がうるさい。
やばい。
今になって急激に現実味が出てきた。
俺は何をしている?
三日前まで白石凛花とは挨拶すらしたことがなかったんだぞ。
「……いいよ」
「お、おう」
振り返る。
白石はこっちを見ていなかった。
顔が真っ赤だった。
俺もたぶん似たようなものだろう。
「じゃあ……カメラ確認するから」
「早くして」
俺はスマホの画面を見る。
フレーム。
明るさ。
角度。
問題なし。
「もうちょっと右」
「こう?」
「逆」
「こっち?」
「そう」
「……相沢君」
「何?」
「なんで急に冷静なの」
「カメラ触ってる方が気が楽なんだよ」
「変な人」
「今この部屋で一番まともな奴を探すのやめようぜ。誰もいないから」
白石が少し笑った。
初めて見る笑顔だった。
意外と普通に笑うんだな。
そんなことを考えながら、俺は画面を見る。
「じゃあ、もう少しだけ姿勢変えて」
「どうするの?」
「ちょっと後ろ向いて――」
白石が言われた通りに動く。
俺はカメラを確認する。
そして。
「…………」
止まった。
「相沢君?」
「…………」
「何?」
俺は画面を見る。
白石を見る。
もう一度画面を見る。
見間違いではない。
「……白石」
「な、何よ」
「ちょっと待って」
「だから何?」
「お前……」
言っていいのか?
いや。
でもこれは。
撮影どころではない。
「病院行った方がよくない?」
「は?」
「いや、その……」
「何よ」
白石が不安そうに振り返る。
俺は人生で初めて、言葉を選ぶことの難しさを知った。
「たぶん」
「たぶん?」
「痔」
「…………」
「しかも一個じゃない」
「…………」
「結構ある」
沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
白石がゆっくりこちらを見る。
「……痔って何?」
「そこから!?」
俺の声が部屋中に響いた。
学部でも有名な美少女。
成績優秀。
品行方正。
男を寄せ付けない高嶺の花。
白石凛花。
そんな彼女の最大の秘密を。
俺は今日。
本人より先に知ってしまった。
――クラスメイトの尻は、痔だらけだった。




