わたくし犬を飼ってますの。毛並みが良くて、可愛い子で、とても従順ですわ。
「ねえ殿下、わたくし犬を飼ってますの。毛並みが良くて、可愛い子で、とても従順ですわ」
そんなマルスリーヌの言葉に、カジミールは少し驚く。
だが、それも当然かと自嘲した。
カジミールはこの大陸でも随一の大国の、第二王子にあたる。兄である王太子たる第一王子はとても優秀で、兄さえいれば王家は安泰だと言われている。歳の離れた兄には、すでにカジミールと歳の近い立派な跡取り候補である子供達もいる。カジミールに出る幕はない。カジミールは王位継承権を返上して、侯爵家へ婿入りすることが確定路線だ。
特に突出した才能があるわけではない、ただ王家に兄と歳が離れて生まれたからと可愛がられるだけの運のいい子。
それが自他ともに認めるカジミールの評価だ。
しかし、婚約者であるマルスリーヌは違う。彼女は美しく聡明で、まさに女侯爵になるのに相応しい。この国でも相当な領地と地位と権力と武力を持つ侯爵家の一人娘である彼女。何もかもが完璧な淑女にして、絶対の「女主人」。カジミールは、この婚約が成立する以前から彼女に惹かれていた…それに気付いた兄が、侯爵家との結びつきのためにという言い訳でカジミールとマルスリーヌをくっつけたのである。
だから、そんな彼女が愛人を囲うのも無理はない。
カジミールには突出した才能もなく、おまけに王家の中では平凡な容姿とされる見た目なのだから。
この貴族社会では身分の低い愛人を犬と呼ぶ文化がある。
彼女が言っているのも、それだろう。
(残念だな…)
彼女に惹かれているカジミール。
愛人宣言されても、その熱は冷めてはくれなかった。
だからこそ、ただただ残念だ。
彼女を、愛してしまったから。
「それでね殿下。わたくしその子にカジミールと名付けましたの」
「え」
何故愛人に僕の名前を愛称として付けるのだろう?
「カジミールはとても勇ましくて、わたくしがこの間暗殺者に襲われかけた時も我が家の騎士より先に駆けつけて守ってくれて…」
「待って、暗殺者!?」
「ええ、でもカジミールが守ってくれたから大丈夫ですわ。ほら、ピンピンしてるでしょう?」
「そういう問題じゃないでしょ!怖かったね、よしよし…もう大丈夫だよ」
「…まあ。うふふ、暗殺者に襲われてよかったですわ」
そのマルスリーヌの言葉に、カジミールはポカンとする。
「なんで?」
「だって、殿下によしよししてもらえましたもの。殿下の手がわたくし、好きですの。王子としてたくさん執務を頑張った証のペンだこも、剣術を磨いた証の固くなった皮も」
「なっ…」
カジミールは赤くなる。
愛するマルスリーヌにそんなことを言われたら照れてしまう。
でも、こんなことを言ってカジミールを翻弄するマルスリーヌには犬がいるのだ。
それがカジミールにはどうしようもなく悔しい。
カジミールは決めた。
「ねえ、マルスリーヌ」
「はい、殿下」
「僕は、その犬に負けない」
「え?」
「君の一番になってみせる」
強い瞳。
マルスリーヌは先程のカジミールのように、顔を赤くした。
そして、微笑んだ。
「ふふ、負けず嫌いですのね。可愛い方」
その日以降も、マルスリーヌはカジミールに犬の話を続けた。
けれどカジミールはそれを嫌がらない。
ただ相槌を打って、最後には「それでも僕はマルスリーヌが好きだよ」と締めくくる。
マルスリーヌはそれにただ、深く愛されているのを感じた。
だからマルスリーヌは、カジミールに犬を紹介することにした。
「ねえ、殿下。わたくしのカジミールに会ってみませんこと?」
「え…」
(〝犬〟を僕に見せたい…?目的はなんだ?)
だけど、これは千載一遇のチャンス。
お前なんかに愛するマルスリーヌは渡さない、そう宣言してマルスリーヌに改めて告白するのだ。
そう…思っていたのだが。
「カジミール!」
「わんっ!」
…本当に、ただの犬だった。
隠語でもなんでもない、ゴールデンレトリバー。
「この子の金の毛が、殿下の金の御髪みたいで…捨てられていたのを放っておけなかったのです」
「そういうこと…」
ほっとしたような、なんだか今まで犬に嫉妬していたのかと納得がいかないような。
けれど、普段完璧な淑女であり完璧な女主人であるマルスリーヌの…年相応の少女のような眩しい笑顔にまた心を撃ち抜かれた。
もともと惚れていたのに、さらに惚れ直してしまう。
カジミールが何か言おうとしたところで、マルスリーヌは言った。
「カジミールは本当に、殿下そっくりなのですよ」
「…へえ、どんなところが?」
「金の御髪も、ダークブラウンの瞳も。人見知りなのに、慣れた人には人懐っこいところも。わたくしに寄り添ってくれる優しさも、わたくしになにかあると守ろうとしてくれる強いところも。覚えていて?まだ婚約したばかりの頃、わたくしが嫉妬した貴族令嬢に襲われそうになった時…殿下はわたくしの代わりにわたくしを庇って刺されそうになって…王太子殿下に相当怒られていましたわね。衛兵の制止が間に合ったので無傷とはいえ、あれはたしかに危なかったですわ」
早口でまくし立てるマルスリーヌに、カジミールはちょっと驚いた。
彼女がこんなに立て板に水のごとく話す姿は、初めて見た。
そして…まるで僕のことを好きかのような、そんな言葉にドキドキする。
「わたくしね、あの時思ったの。しっかりしなきゃって。殿下がわたくしを守ろうとする前に、わたくしが先手を打って殿下を守ろうって。だってわたくし、あのわたくしを庇ってくれた時の勇ましい背中が大好きになってしまいましたの。大好きになってからは、大好きなところがいっぱい増えましたわ。ちょっと猫舌なところ、実は悪戯好きでよく王太子殿下に叱られているところ、わたくしが微笑むと嬉しそうな顔をするところ…全部、好きなの」
カジミールが、人生で初めてというくらい茹で蛸のように真っ赤になった。
全部、好きなの…僕の、ことか?
あまりの衝撃に思考がショートしかける。
しかし、ここで応えないのは男じゃない。
「僕も…マルスリーヌが好きだ」
「知ってますわ、殿下は態度がわかりやすいもの」
「いいや、まだ知らないはずだ。その好きがどれほどのものか」
カジミールはマルスリーヌの手を両手で包み、至近距離でまくし立てる。
その必死さに、犬の方のカジミールが空気を読んで大人しくなるほどに。
「僕は最初、君の美しさに一目惚れした。次に、その次期侯爵家当主としての心の強さと覚悟に惚れ込んだ。他の誰にも負けない聡明さにも、領民たちへの慈悲深さにも惚れた。だけれど、婚約してからは…小さな一つ一つが、愛おしい。好きな焼き菓子を侍女たちにも分けるところ、本当はパステルカラーが好きなのに大人びた色合いのドレスが似合うからと我慢しているところ、孤児院や養老院に行く理由がノブレスオブリージュではなく…単に小さい子供達が可愛くて可愛がってくれる老人たちが大好きだからというところ」
今度はマルスリーヌが赤くなる番だった。
真っ赤に染まるマルスリーヌに、カジミールは悪戯っ子のようににんまり笑う。
「その顔は初めて見た。また好きが一つ増えたよ」
「も、もう。殿下は本当に…好きすぎて困りますわ」
「ばうっばうっ」
「ああ、もちろんカジミールも大好きよ」
「ふふ、主人を取られたと思ったのかな?大丈夫だよカジミール。君の主人は愛に溢れた人だ。こんなに僕を好きでも、君への愛は薄れない」
「くーん…?」
「そうよカジミール。貴女が大好きよ」
「わんっ!」
その後は犬の方のカジミールがこれ以上ヤキモチを焼かないよう、一旦二人で一匹と遊んであげた。
その日の夕方のこと。
「今日はそろそろ帰るよ。君のカジミールと仲良くなれてよかった」
「ふふ、わたくしも殿下とカジミールが仲良くなって嬉しいですわ」
「…その呼び方なんだけどさ」
「え?」
「公的な場では仕方ないとして…プライベートなこういう時には、カジオと呼んでよ」
マルスリーヌが少し目を泳がせる。
婚約者で、プライベートな場だけ。
とはいえ、王子を気安く呼んでいいものか。
「では、カジオ殿下」
「だーめ、カジオって呼んで」
「…カジオ様」
「よろしい」
嬉しそうに笑うカジミールに、犬の方のカジミールも尻尾を振る。
マルスリーヌは照れているのだが、それを隠すように言った。
「では、わたくしのことはマルシーと」
「マルシー。愛しているよ」
「…っ」
「マルシーは?」
「カジオ様…お慕い申し上げておりますわ」
帰っていく馬車を見つめた後、マルスリーヌは微笑む。
「上手くいきましたわ。ありがとう、カジミール」
「わんっ」
「これからも、大切に大切にしますから…長生きしてちょうだいね?」
「わふっ」
こうしてマルスリーヌの、カジミールの性格諸々を計算に入れた上での「犬の方のカジミールを利用して、焦らした上でもっと仲良くなろう作戦」は無事成功したのだった。




