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花盗人は知っている

作者: 宵先誠
掲載日:2026/05/25

花言葉を、どこまで信じますか。

「好きです」と言えない人がいる。

「会いたい」と伝えられない人がいる。

でも、人は時々、言葉の代わりに何かへ気持ちを託す。

この物語は、花に想いを隠した二人の、少し不器用で静かな恋の話です。

毎週火曜日。

一本ずつ選ばれる花。

積み重なっていく花言葉。

それは偶然なのか、暗号なのか。

あるいは——最初から、恋だったのか。

花が好きな人。

静かな恋愛物語が好きな人。

優しい空気の中で、少し切なく胸が締めつけられる物語を読みたい人へ。

どうか最後まで、見届けてください。

◆ 序章 蕾のなかの秘密


花は、嘘をつかない。


それだけが、わたしの確信だった。


ガラス越しに見える世界は、いつでも少しだけ歪んでいる。けれど花だけは違う。ショーウィンドウの向こう側で、今日もスイートピーが春の空気をピンク色に染めて、ラナンキュラスが幾重もの花びらをほどいて、あの子は笑っている。笑っている、とわたしはいつも思う。

花が笑うはずなんてないのに。


四月の初旬、わたし——朝倉柚季あさくら ゆずき——は、「花屋でバイトをしてみたい」という軽率な動機だけで、駅前の小さな生花店『アトリエ・フルール』に履歴書を持ち込んだ。


そして今、エプロンのポケットに手を突っ込んだまま、レジ横に立っている。


アルバイト初日から三週間が経つ。


「柚季ちゃん、四番の水替え忘れてる」


店長の村瀬さん——四十代で、ショートカットで、声が低くて、怖そうに見えて実は優しい——が、奥のバックヤードから顔だけ出して言った。


「あ、すみません」


わたしは慌ててバケツを持ち上げる。スプレーカーネーションの入ったバケツ。水がひんやりとして、指先がじんとした。ステンレスの匂いと、花の甘さと、土の気配が混じった、独特の生花店の空気。これがわたしはもう、好きになっていた。


三週間で覚えたこと。


花はとても正直だということ。乾いた空気が続けば葉がしおれる。水が古くなれば茎が腐る。ちゃんとケアすれば、もう枯れかけていた薔薇でさえ、翌朝びっくりするほど首をまっすぐに持ち上げる。人間みたいに取り繕わない。その正直さが、わたしは好きだった。


もうひとつ覚えたこと。


毎週火曜日の夕方五時ごろ、決まって一人の男が店に来るということ。


---


彼のことに気づいたのは、バイトを始めて二週目の火曜日だった。


五時少し前。夕方の光が斜めに差し込んで、花びらの端を金色に染める時間帯。扉のベルが鳴って、彼は入ってきた。


背が高い。

それが最初の印象だった。

百八十センチ以上あるだろう。紺色のコートをきちんと着ていて、黒い髪が少しだけ伸びていて、眼鏡はかけていないけれど目を細める癖があるみたいで、そのたびに睫毛が動く。

年齢は、たぶん二十代前半。大学生か、あるいは社会人になりたてか。


彼は迷わなかった。


真っすぐに、奥のバケツの並ぶエリアへ歩いていった。そして、一本だけ花を手に取った。


スイートピー。淡いラベンダー色の。


それをレジに持ってきたとき、わたしははじめて彼の顔をちゃんと見た。


「一本だけ、いいですか」


声は低かった。落ち着いていて、ほとんど抑揚がなかった。けれど「いいですか」という言葉の語尾だけが、わずかに上がった。


「もちろんです」


わたしはそう言って、スイートピーを受け取った。細い茎が、指のあいだで少し震えた。花自体の重さは軽いのに、なぜか手に残る感触があった。


彼は百円玉を三枚、きっちり用意していた。釣り銭なし。


薄い紙に包んで渡すとき、彼は「ありがとうございます」とだけ言って、店を出た。


べつになんでもない、日常の一コマだった。


なのになぜか、わたしはその日の夜、眠れなかった。


スイートピーの花言葉を、スマホで調べた。


門出。別離。優しい思い出。あなたは私の喜び。


どれが彼の意図なのか、全然わからなかった。


---


翌週の火曜日、彼はまた来た。


今度はフリージア。白い。一本だけ。


その次の週は、忘れな草。薄い青。一本だけ。


わたしはだんだん、火曜日の五時が来るのを待つようになっていた。


これは職業的な興味だ、とはじめのうちは思っていた。

毎週同じ人間が来て、毎週違う花を一本だけ買っていく——それは生花店で働く者として、ちょっと気になる客の行動パターンだ。

べつに特別なことじゃない。


でも、三回目が過ぎたあたりから、わたしは「花言葉ノート」を作り始めた。


大学のレポート用に買ったA6のノート。そこに彼が買っていった花と、その花言葉を書き留めていった。


第一週:スイートピー(ラベンダー色)→ 門出、別離、あなたは私の喜び

第二週:フリージア(白)→ 純潔、あなたの中にある素朴さ

第三週:忘れな草(青)→ 私を忘れないで、真実の愛


並べてみると、何か見えてきそうで、でも見えてこない。まるで暗号みたいだった。


彼が毎週、花を通じて誰かに何かを伝えようとしている——そんな気がしてならなかった。


あるいは、伝えられない何かを抱えているか。


どちらにしても、わたしには関係のないことだ。


そう思いながら、第四週の火曜日を迎えた。


---


◆ 第一章 盗まれた花


その日、彼は来なかった。


五時になっても。五時半になっても。六時になっても。


わたしはバックヤードで切り花の作業をしながら、何度も店内をちらりと見た。エプロンの裾を手でぎゅっとつかんでいた。自分でも気づかないうちに。


六時十五分、定時を少し過ぎた頃に、バイトを上がった。


帰り道は商店街を抜けて十分ほど。アーケードの下を歩きながら、わたしはまだ花のことを考えていた。今日は何の花を持ってくるつもりだったんだろう。あるいは急に来られなくなったのか。用事ができたのか、体調が悪いのか、それとも——


それとも、もう来ない気持ちになってしまったのか。


バカみたい、と思った。


知りもしない人のことを、これだけ気にしてる自分が。


商店街の端に小さな公園がある。ベンチが二脚と砂場と、桜の木が三本。昼間は子どもたちが遊んでいるけれど、夕方になると人気ひとけがなくなる。わたしはときどき、帰り道にそこで少し休んだ。


今日もそうしようとして——立ち止まった。


ベンチに、人がいた。


彼だった。


紺のコートを着た、あの男が。


ベンチに座って、何かを手に持っていた。近づいてみると、それが花だとわかった。店には来なかったのに、花を持っている。どこで買ったんだろう。いや、それより——


彼の手の中にあったのは、チューリップだった。


赤い、チューリップ。


でも、その花には何か違和感があった。


茎が、おかしい。


まっすぐじゃない。根元のほうに、土がついている。


——掘り起こした?


違う。それはすぐにわかった。茎の切り口が、ハサミじゃなくて、手で引きちぎったような形をしていた。


公園の花壇。桜の木の根元に整備されたチューリップの花壇。春になるたびに近所の人たちが球根を植えて、管理しているあの花壇。


彼は、そこから花を摘んできたのだ。


わたしは息を呑んだ。


「……あの」


声が出た。自分でも驚くほど、すっと出た。


彼が顔を上げた。わたしを見て、少し目を見開いた。


「花屋の」


彼が言った。


「そうです」とわたしは言った。「朝倉です。アトリエ・フルールでバイトしてます」


「知ってる」


彼は短く言って、また手元の花に視線を落とした。赤いチューリップ。公園の花壇から来た花。


「……それ、摘んできたんですか」


聞くべきじゃないかもしれなかった。でもわたしの口は勝手に動いた。


彼はしばらく黙っていた。それから、ゆっくり顔を上げた。


「見てたの」


「公園に入るとき、見えちゃったので」


彼は小さく息を吐いた。


「そう」


それだけ言って、また黙った。


わたしは、どうすればいいかわからなくて、とりあえずベンチの反対側の端に腰を下ろした。

なぜそうしたのか、自分でもよくわからなかった。


四月の夕暮れ。空はまだ少しだけオレンジ色を残していて、桜の花びらがちらちらと舞い落ちている。花びらがベンチの背もたれに当たって、音もなく滑り落ちていく。


「赤いチューリップの花言葉、知ってますか」


気づいたら、言っていた。


彼が目を細めた。


「……愛の告白、でしょ」


「正確には『愛してます』です。チューリップは色によって全然違うんですけど、赤は特に強い意味を持ってて」


わたしはどんどんしゃべった。自分でも止められなかった。


「黄色は『望みのない恋』で、白は『失われた愛』で、紫は『永遠の愛』なんです。面白いでしょ、色によってこんなに変わる」


彼はわたしの顔を見ていた。最初は驚いているみたいだったが、だんだん表情が変わっていった。何かを考えているような顔になった。


「……花言葉、詳しいんだ」


「バイトで覚えました。あと、もともと少し好きで」


「そっか」


「あなたも、好きですよね」


彼の動きが止まった。


「毎週来てましたよね、うちの店に。一本ずつ買ってって。スイートピーとフリージアと忘れな草」


沈黙。


桜の花びらが、また一枚落ちた。


「……覚えてたの」


「はい」


「なんで」


「気になったから」


正直に言ったら、彼が少し笑った。笑ったというより、唇の端が少しだけ動いた、という感じだったけれど、それはたしかに笑いだった。


榛名透はるな とおる


「え?」


「名前。俺の名前」


「あ」わたしは反射的に言った。「朝倉柚季です。さっきも言いましたが」


「知ってる」


「え、なんで」


「店長が呼んでた」


「あ」


そうだった。村瀬さんはよく名前で呼ぶ。「柚季ちゃん」と。


わたしは少しだけ恥ずかしくなった。


「榛名さんは、今日なんで来なかったんですか、店に」


「忘れた」


「花屋に行くのを?」


「うん」


それだけ言って、彼——榛名さんは、手の中のチューリップをぼんやり見た。


「こっちのほうが近かったから」


「花壇から摘んだんですか」


「……そう」


「それって、花盗人ですよ」


言ってから、しまった、と思った。怒らせたかもしれない。


でも榛名さんはまた、あの唇の端が動くような表情をした。


「そうだね」


「怒らないんですか」


「何に?」


「泥棒って言われたのに」


「事実だし」


淡々としていた。怒りも照れもなく、ただ事実を受け入れているように。


「……誰かに渡すんですか、その花」


また余計なことを聞いた。


でも今度は彼は笑わなかった。


少しだけ、顔を曇らせた。


「わからない」


「わからない?」


「渡せるかどうか、わからない。だから練習してる」


「練習?」


「毎週、花を一本持ってみて。手に花を持ってる自分が、どんな感じか確かめてる」


わたしは言葉を失った。


なんだそれは。なんて、妙な、純粋な——


「それで花言葉を選んで買ってたんですか」


「半分はそう。もう半分は……その花の言葉が、今の俺の気持ちに一番近かったから」


門出。別離。私を忘れないで。純潔。


花言葉ノートの言葉が、頭の中をぐるぐると回った。


片思い、だと思った。


誰かのことを好きで、でも言えなくて、花を練習台にしている、そんな男の子が今、わたしの隣に座っている。


「いつか渡せるといいですね」


精一杯自然な声で言ったら、榛名さんはわたしを見た。


「そうだね」


日が落ちた。公園に街灯がついた。


榛名さんは立ち上がって、「帰る」と言った。そして赤いチューリップを、そのへんの花壇の縁に、そっと置いた。持って帰らなかった。


わたしはその背中を見送ってから、置かれたチューリップを見た。


誰かのために選んだ花。でも渡せなかった花。


愛してます。


公園の夜風が、花びらを揺らした。


---


◆ 第二章 花言葉の暗号


翌日から、わたしの心の中に何かが住み着いた。


それが何なのかはわからなかった。気にしないようにしよう、と思えば思うほど、「榛名透」という名前が意識の端に引っかかる。授業中も。バイト中も。夜、布団に入ったときも。


大学の友人の倉田めぐに、「なんか最近ぼーっとしてる」と言われた。


「失恋でもした?」


「してない。というかしたことない」


「じゃあ恋してる?」


「してない」


「じゃあなに」


「……わかんない」


めぐはしばらく考える顔をして、「あ、片思いしてる自覚のない系だ」と言った。


「違う」


「絶対そうじゃん。顔が否定してない」


わたしは鞄の中に手を突っ込んで、花言葉ノートを取り出した。もうだいぶページが使われている。


「これ」


「なに、この花の名前の羅列」


「バイト先に来る客が毎週一本ずつ花を買ってくんだけど、その花言葉がなんか暗号みたいで気になってるの」


めぐはノートを受け取って、じっくり見た。


「スイートピー、フリージア、忘れな草……チューリップはなんで違うとこに書いてあるの」


「その週は店に来なくて、公園の花壇から摘んでたから」


「花泥棒じゃん」


「うん。花盗人」


「それで話しかけたの? 名前まで知ってんじゃん」


めぐがにやにやした。わたしは慌てて首を振った。


「違う。たまたま帰り道で鉢合わせて」


「で、その花言葉が暗号なの?」


「気になって、読んでみると……なんか、好きな人に言えてない言葉を並べてるみたいで」


めぐが真剣な顔になった。珍しい。普段はへらへらしてるのに。


「柚季、これ、誰かへのメッセージを花言葉で送ってるわけじゃなくて、一人で抱えてる気持ちを花で表してる、ってことでしょ」


「……たぶん」


「切ない」


「うん」


「で、柚季はそれが気になってる」


「……うん」


「それ、好きになりかけてるじゃん」


「違う、と思う」


「なんで思うの」


「その人には好きな人がいるから」


言ったら、自分でも変な感じがした。胸の奥のほうが、ちょっとだけ冷たくなったような気がした。


「だから逆にセーフでしょ」めぐが言った。「実らない恋だってわかってれば、傷つかない距離感で好きでいられるじゃん」


「それ、健全じゃない」


「健全な恋なんてつまんない」


めぐは花言葉ノートをわたしに返して、「引き続き観察してレポート書いて」と言った。


「なにそれ」


「他人の恋愛ストーリー、めちゃくちゃ気になるから」


---


火曜日が来た。


五時になった。


扉のベルが鳴った。


わたしの心臓が、ひとつ大きく跳ねた。


彼だった。


今日も紺のコート。でも少しだけ服装が違う。コートの下が白いシャツで、Tシャツじゃない。少し改まった感じ。


彼はわたしを見た。


わたしも彼を見た。


どちらも何も言わなかった。一秒、二秒。


それからわたしは「いらっしゃいませ」と言った。少し遅れて、ちょっと間抜けな感じで。


彼は軽く会釈して、いつものエリアに向かった。


今日は何を選ぶのだろう。


わたしはレジの後ろに立ったまま、そっと観察した。彼は花の前でしばらく立ち止まった。いつもより長い気がした。迷っている。


最終的に彼が手に取ったのは、ミモザだった。


黄色い小さな花が鈴なりになった、ふわふわとした枝。三月のイメージが強いが、うちでは四月になっても置いている。


レジに持ってきたとき、彼はわたしの顔を見た。


「先週は、ありがとう」


「何が」


「話聞いてくれて」


「別に大したことしてないです」


「それでも」


彼はミモザを差し出した。わたしは受け取って、いつもどおり薄い紙で包み始めた。黄色い花が紙の白さの中で、ぱっと明るく見えた。


「ミモザって、花言葉知ってる?」


彼が聞いてきた。


今度は彼のほうから聞いてきた。それが少し嬉しくて、わたしは包む手を止めずに答えた。


「いくつかあります。『感謝』『友情』『エレガント』……あと『秘密の恋』」


包む手が、わずかに止まった。


「へえ」


彼は静かに言った。


「どれが目的ですか」


「全部」


どこまで本当なのか、わからなかった。でも彼の表情は真剣だった。


「これ、誰かに渡せそうですか」


「……まだ」


「まだ練習段階?」


「そう」


わたしはミモザを包み終えて、渡した。今日は百五十円。


「来週も来ますか」


聞くつもりはなかった。でも聞いてしまった。


彼は受け取った花を見ながら、少し考えて、


「来る」


と言った。


それだけで、わたしの今週はよくなった。


---


五月に入った。


榛名さんは毎週来た。一度も欠かさず。


花は毎週変わった。


第五週:ミモザ(黄色)→ 感謝・秘密の恋

第六週:ライラック(紫)→ 初恋・愛の芽生え・思い出

第七週:カモミール(白と黄)→ 逆境に負けない・苦難の中の力

第八週:アネモネ(赤)→ あなたを愛す・切ない恋・はかない恋


わたしのノートはどんどん埋まっていった。


花を買いに来るたびに、わたしたちは少しだけ話すようになった。他愛ない話。今日の天気とか、花の入荷状況とか、今週どんな花が売れたかとか。


彼は言葉が少なかった。でも聞き上手だった。わたしがしゃべると、うなずきながらちゃんと聞いていた。目を細める癖があって、そのたびに長い睫毛が静かに動く。


わたしはだんだん、彼と話すのが楽しみになっていた。


でも同時に、彼が選ぶ花の意味も、気になり続けていた。


初恋。愛の芽生え。あなたを愛す。切ない恋。はかない恋。


誰かを好きで、でも切なくて、それでもまだ好きで——。


彼の想いを向けられている人は、どんな人なんだろう。


ある日、バックヤードで一人でステムカットをしながら、わたしはぼんやりとそんなことを考えた。ハサミを使う手が止まる。薔薇の茎から水が少し滲んだ。


なんでわたしがそんなことを考えてるんだろう。


関係ないのに。


めぐの声が頭の中で聞こえた気がした。「実らない恋だってわかってれば、傷つかない距離感で好きでいられるじゃん」——そう、そういうことだ。彼には好きな人がいる。わたしはただ、面白い謎を持った客に興味を持っているだけだ。


ハサミを動かした。


花が落ちた。


床に落ちた薔薇の花びらを見ながら、わたしは思った。


この気持ちには名前をつけないでおこう。


---


◆ 第三章 雨の中の花束


五月の終わり、雨の日だった。


気象予報士がこの春一番の雨量と言っていた日。アーケードを出ると傘なんて意味をなさないくらいの雨脚。


バイトが終わる頃には豪雨だった。


「柚季ちゃん、今日はバックで少し待ってな、危ないから」と村瀬さんが言ってくれた。


バックヤードで切り花の整理をしながら、雨音を聞いていた。屋根を叩く音。窓を叩く音。水がどこかに流れていく音。


七時を過ぎた頃、扉のベルが鳴った。


こんな雨の中、客が来た。


わたしは店内に出た。


榛名さんだった。


全身びしょ濡れだった。コートが重そうに肩にまとわりついて、髪が顔に張り付いて、靴は水を含んでいるらしくひとりでに音がした。


そして、その手に花束を持っていた。


お店で買ったものじゃない、と一目でわかった。形が整いすぎていた。細い水引で束ねてある。何種類もの花。


わたしは思わず「え」と言った。


「……閉店前に来たかったんだけど」


彼の声は低くて、いつもより疲れていた。


「傘、ないんですか」


「忘れた」


それだけ言って、榛名さんは小さく咳をした。


わたしは慌ててレジ横のタオルを取った。


「これ、使ってください」


「……いいのに」


「よくないです。風邪ひきます」


半ば押しつけるみたいに渡すと、榛名さんは少し困った顔をして、それでも「ありがとう」と受け取った。


髪から落ちる雫が、床に小さな染みを作っていく。


わたしの視線は、どうしても彼の持っている花束へ向いてしまった。


白いトルコキキョウ。


青いデルフィニウム。


淡いピンクのスイートピー。


それから、小さな白いカスミソウ。


雨に濡れているのに、花だけは不思議なくらい綺麗だった。


「それ……誰かに渡すんですか」


聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。


榛名さんは答えなかった。


代わりに、花束を見下ろした。


「今日、渡そうと思ってた」


静かな声だった。


「でも、たぶん無理だった」


店の外で雷が鳴った。


窓ガラスが小さく震える。


わたしは喉の奥がきゅっと狭くなるのを感じた。


やっぱり。


やっぱり、この花は誰かのための花なんだ。


当たり前なのに。


最初から知っていたのに。


「……その人、花好きなんですね」


なるべく普通に聞こえるように言った。


榛名さんは少し黙って、それから小さく笑った。


「たぶん」


「たぶん?」


「花が好きっていうより、花を見ると嬉しそうにする人だから」


胸が、また少し痛くなる。


ああ。


駄目だ。


この話を聞きたくないと思ってる。


その瞬間、ようやくわかった。


わたしはもう、とっくに榛名透という人を好きになっていた。


気づかないふりをしていただけで。


花言葉の意味を並べて、「誰かへの恋なんだ」と安心しようとしていただけで。


好きだった。


毎週火曜日が来るのが楽しみで。


花を選ぶ横顔を見るのが好きで。


少しだけ笑う顔を見るたび、嬉しくなって。


全部、恋だった。


雨音が強くなる。


店の照明が、濡れた花びらを柔らかく照らしていた。


「……渡さないんですか」


声が震えないようにするので精一杯だった。


榛名さんは、ゆっくり息を吐いた。


「怖いから」


「え」


「渡して、困られたら終わる気がしてた」


彼は花束を持つ手に少しだけ力を込めた。


「だからずっと、一本ずつ練習してた」


スイートピー。


忘れな草。


ミモザ。


ライラック。


花言葉ノートのページが、頭の中でめくれていく。


「でも今日、もう終わりにしようと思った」


榛名さんは言った。


「渡せなくても、ちゃんと伝えようって」


そして。


彼は、まっすぐわたしを見た。


その瞬間。


世界の音が、全部遠くなった気がした。


「朝倉さん」


名前を呼ばれる。


火曜日でもない。


公園でもない。


雨の夜の、生花店の中。


榛名さんは静かに言った。


「その花言葉、全部、あなたに向けて選んでた」


息が止まった。


「え……」


「最初にレジで話したときから、ずっと気になってた」


彼の声は震えていた。


「でも、俺、こういうの慣れてなくて。何を渡せばいいかわからなくて。だから花なら、少しだけ気持ちを隠せる気がして」


わたしは何も言えなかった。


頭の中が真っ白だった。


花言葉。


暗号。


秘密の恋。


初恋。


愛の芽生え。


全部。


全部、わたしへ向いていた。


「迷惑だったら、ごめん」


榛名さんは苦く笑った。


「でも、ちゃんと伝えたかった」


雨音が、静かに世界を埋めていく。


わたしは気づけば、泣きそうになっていた。


「……ずるいです」


「え」


「そんなの、気づくわけないじゃないですか」


榛名さんが少し目を見開く。


わたしは笑った。


たぶん泣きそうな顔で。


「わたし、ずっと別の人が好きなんだと思ってました」


「別の人?」


「はい。だから安心してたんです。好きになっても大丈夫だって」


言ってしまったあとで、顔が熱くなる。


でももう止まらなかった。


「でも全然、大丈夫じゃなかったです」


榛名さんが、息を呑む音がした。


「わたしも、好きです」


言った瞬間、胸の奥に詰まっていたものが、一気にほどけた気がした。


雨はまだ降っていた。


けれどさっきまでの冷たさは、もうなかった。


榛名さんはしばらく何も言わなかった。


ただ、信じられないものを見るみたいな顔でわたしを見ていた。


それから、とても静かに笑った。


初めて見る、ちゃんとした笑顔だった。


「……じゃあ、これ」


彼が花束を差し出す。


わたしはそっと受け取った。


花から、雨と春の匂いがした。


「この花束の花言葉、聞きますか」


榛名さんが少し照れたみたいに言った。


わたしは笑って首を振った。


「たぶん、もうわかります」


店の外では、雨が少しずつ弱くなっていた。


五月の終わり。


花盗人は、ようやく花を渡せた。


そしてわたしは、その花を一生忘れないと思った。


◆ 終章 火曜日の花


六月の火曜日。


雨上がりの街は、少しだけ世界が綺麗に見えた。


ショーウィンドウの向こうで、紫陽花あじさいが淡く色づいている。


「柚季ちゃん、顔にやけてる」


村瀬さんが呆れたように言った。


「え、そんなにですか」


「そんなに」


わたしは慌てて頬を触った。


そのとき、扉のベルが鳴る。


振り向かなくてもわかった。


榛名透が来たのだと。


「いらっしゃいませ」


わたしが言うと、彼は少しだけ笑った。


「こんにちは」


最初の頃より、ちゃんと目を合わせて笑うようになった。


それだけのことなのに、胸が少し熱くなる。


榛名さんは花の前で立ち止まった。


「今日は何にしますか」


聞くと、彼は少し考えてから、一輪のガーベラを手に取った。


オレンジ色だった。


「ガーベラの花言葉、知ってますか」


榛名さんが聞く。


わたしは笑った。


「知ってますよ」


希望。


前向き。


そして——。


「『あなたは私の輝く太陽』、ですよね」


榛名さんが少し照れたように目を逸らす。


わたしはその顔を見るのが好きだった。


花は、嘘をつかない。


だからきっと。


この恋も、嘘じゃない。


店の外で、六月の風が静かに花を揺らしていた。


榛名さんは、包まれたガーベラを受け取ると、少しだけ困ったように笑った。


「……やっぱり、全部知られてると緊張する」


「毎週花を買ってる人に言われても」


「う」


図星だったらしく、榛名さんは言葉に詰まった。


わたしは思わず吹き出す。


そんなわたしを見て、榛名さんも小さく笑った。


最初に会った頃は、こんなふうに笑う人だなんて思わなかった。


もっと静かで、近寄りがたい人だと思っていた。


でも本当は、不器用で、優しくて、花みたいに真っすぐな人だった。


「そういえば」


榛名さんがふと思い出したみたいに言った。


「最初に会った日、なんで話しかけたの」


「え?」


「公園で。普通、知らない男が花壇からチューリップ抜いてたら怖くない?」


「あー……」


 わたしは少し考えた。


「怖いっていうより、気になったんです」


「気になった?」


「だって、すごく大事そうに持ってたから」


榛名さんが目を瞬かせる。


「泥棒なのに、花を雑に扱ってなかった」


あの日のことを思い出す。


夕暮れの公園。


赤いチューリップ。


少し寂しそうだった横顔。


「だから、たぶん悪い人じゃないんだろうなって思いました」


榛名さんはしばらく黙って、それから小さく笑った。


「それ、朝倉さんくらいだよ。そんなこと言うの」


「そうですか?」


「普通は通報される」


「確かに」


二人で笑った。


そのとき、村瀬さんが奥から顔を出した。


「柚季ちゃん、そろそろ閉店準備ね」


「あ、はい!」


時計を見ると、もう閉店時間が近かった。


外はもう薄暗い。


六月の夜は、雨上がりの匂いがした。


榛名さんは花を持ったまま、少しだけ名残惜しそうに店内を見回した。


「じゃあ、今日は帰る」


「はい」


でも彼は、すぐには動かなかった。


「……来週も、来ていい?」


その言い方が、少しだけ不安そうで。


わたしは笑って答えた。


「火曜日ですもん」


榛名さんが、安心したみたいに笑った。


「そっか」


「待ってます」


その一言で、彼の目が少しだけ柔らかくなった。


榛名さんは会釈をして、店を出ていく。


扉のベルが、小さく鳴った。


わたしはその背中が見えなくなるまで見送った。


「……青春だねえ」


後ろから、村瀬さんの呆れたような声がした。


「うわっ、聞いてたんですか!?」


「聞こえるでしょ、あれだけ空気甘かったら」


「やめてください!」


顔が熱くなる。


村瀬さんはくすくす笑いながら、売れ残りの花を整え始めた。


「でもよかったじゃん」


「……はい」


わたしは小さく頷く。


店のショーウィンドウには、色とりどりの花が並んでいる。


赤。


白。


黄色。


青。


それぞれ違う花言葉を持って。


それぞれ違う想いを抱えて。


でもきっと。


どんな花も、誰かの気持ちを伝えるために咲いている。


花は、嘘をつかない。


だからわたしも、もう隠さなくていい。


火曜日が来るたびに。


わたしはきっと、また恋をする。


花を抱えてやって来る、あの人に。

こまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

この作品は、「言葉にできない気持ち」をテーマに書きました。

好きと言えない。

怖くて踏み出せない。

伝えたら壊れてしまいそう。

そんな感情を抱えた経験は、きっと誰にでも少しはあると思います。

だからこそ、この物語では“花言葉”を使いました。

花なら、気持ちを隠せる。

でも、完全には隠しきれない。

そんな不器用な恋の形を書きたかったのです。

また、榛名透という人物は、派手ではありません。

言葉も少なく、不器用で、遠回りばかりする人です。

けれど、自分の気持ちを誤魔化さず、

ちゃんと相手へ届けようとする真っ直ぐさを持っています。

朝倉柚季もまた、

花を通して少しずつ自分の感情に向き合っていきました。

もし読んでくださったあなたの心に、

少しでも温かい余韻や、やさしい恋の気配が残っていたなら嬉しいです。

そして次に花屋へ立ち寄った時。

ぜひ、花言葉をひとつ調べてみてください。

もしかすると、そこには誰かの“言えなかった想い”が隠れているかもしれません。

ありがとうございました。

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