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境界線の向こう側で出会った少女

作者: 恭弥
掲載日:2026/05/16

その日、空は壊れていた。


正確には、空に“裂け目”ができていた。

雲の奥に黒い線が走り、そこから光が漏れている。最初は誰も気にしていなかった。気象異常だろう、誰かがそう言って終わるはずだった。


けれど、違った。


その裂け目は、ゆっくりと地面に向かって降りてきた。


「……冗談だろ」


俺――悠斗は、校舎の屋上からそれを見上げていた。

放課後のはずなのに、帰る気配はどこにもなかった。というより、誰も動けなかった。


空が、割れている。


その表現しか思いつかない現象だった。


次の瞬間、裂け目が“開いた”。


黒い水面のようなものが揺れ、そこから何かが落ちてきた。


人だ。


いや――落下してきたのは、少女だった。


「っ……!」


反射的に駆け出していた。

屋上の階段を蹴るように飛び降り、校庭へ走る。


少女は地面に叩きつけられてはいなかった。

代わりに、空中でふわりと減速し、ゆっくりと芝生の上に降り立っていた。


その瞬間、裂け目は音もなく閉じた。


静寂。


風の音だけが戻ってくる。


少女は立ち上がった。

銀色に近い淡い髪が揺れ、瞳は琥珀のように光を反射していた。


制服でもない、見たことのない布地の服。

どこか儀式めいた装飾が施されている。


彼女は周囲を見回し、そして俺と目が合った。


「ここは……どこですか?」


日本語だった。だが、どこか発音が違う。

訛りというより、“言語のズレ”のような違和感。


「え……学校、だけど」


自分でも間抜けな答えだと思った。


少女は少し眉を寄せる。


「学校……記録にない地名です」


「記録?」


彼女は一歩近づいた。その動きに警戒心はない。むしろ、観察しているようだった。


「あなたは、この世界の住人ですか?」


世界。


その単語が出た瞬間、ようやく理解が追いつき始める。


冗談じゃない。

SFでもファンタジーでもない。


目の前の少女は、“別の世界から来た”と言っている。


「……たぶん、そう」


俺の声は少し震えていた。


少女は小さく頷いた。


「良かった。意思疎通は可能なようですね」


安心したような声。だが、その直後だった。


彼女の膝が、わずかに揺れた。


「おい、大丈夫か?」


思わず駆け寄ると、少女は手で制した。


「問題ありません。ただ……転移魔法の負荷が残っているだけです」


魔法。


その単語で、現実感が一気に崩れた。


やっぱりそういう世界か、と頭のどこかが納得してしまう。


少女は続けた。


「私はリシア。セラフィア王国の観測隊です」


「観測隊……?」


「この世界との接触点が発生したため、調査に来ました」


さらっと言っているが、内容はとんでもない。


俺の世界と、向こうの世界は“接触”しているらしい。


リシアは俺を見つめたまま、少しだけ首を傾げた。


「あなたの名前は?」


「……悠斗」


「ユウト」


彼女はその音を確かめるように繰り返した。


その瞬間、なぜか胸の奥が少しだけざわついた。


ただ名前を呼ばれただけなのに。


「ユウト。あなたにお願いがあります」


「……なに?」


リシアはまっすぐ俺を見た。


その瞳は、命令でも依頼でもなく、“選択”を求めている目だった。


「私が元の世界へ戻るまで、あなたの協力が必要です」


「……どれくらい?」


「未定です。短ければ数日。長ければ――帰れない可能性もあります」


風が一度だけ強く吹いた。


校庭の砂が舞い上がる。


普通なら断るべきだろう。

関わるべきじゃない。危険すぎる。


それでも。


俺はなぜか、すぐに言葉を返していた。


「……わかった」


リシアは少しだけ目を細めた。


「合理的な判断ですか?」


「いや……たぶん違う」


理由なんて説明できなかった。


ただ、このまま彼女を一人にしてはいけない気がした。


リシアはほんの一瞬だけ沈黙し、それから小さく言った。


「ありがとう、ユウト」


その声は、さっきまでの“観測者”のものではなかった。


少しだけ、人間に近かった。


そして――その瞬間から、俺の日常は終わった。

翌朝、目が覚めた瞬間に「夢じゃなかった」と理解した。


リビングの方から、聞き慣れない気配がする。


というか、生活音が丁寧すぎる。


水を注ぐ音。

食器を触る音。

そして、妙に整った姿勢で立っている気配。


嫌な予感しかしなかった。


リビングの扉を開けると、案の定だった。


「おはようございます、ユウト」


リシアが普通にいた。


しかも、うちのキッチンで。


白いシャツにエプロン(どこから出したのか不明)を着て、パンを焼いている最中だった。


「いや、なんで普通に朝ごはん作ってるの」


「人間は朝に食事を摂ると聞きました」


「それはそうだけど、順応早すぎない?」


リシアは淡々とフライパンを返す。

動きだけ見ると完璧だが、どこか“観察の延長”みたいな不自然さがある。


「あなたの家族構成は記録されていませんでした」


「まあ一人暮らしだし……」


「合理的です」


褒められてるのか分からない。


テーブルにはすでに皿が並んでいた。

卵、パン、謎に焼き加減が完璧なベーコン。


「食べられますか?」


「……毒入ってないよね?」


「毒性反応はありません」


怖い言い方するな。


恐る恐る口に入れると、普通に美味かった。


「……うまいな」


「成功です」


リシアは少しだけ頷いた。


その反応が、妙に嬉しそうに見えてしまった。


――まずい。


昨日まで“異世界人”だった存在が、もう生活圏に入り込んでいる。


これ、距離感を間違えると危険だ。


そう思った瞬間だった。


ピンポーン


玄関チャイムが鳴った。


「……誰だよ朝から」


ドアを開けると、宅配の人でも新聞でもなかった。


制服姿の女子生徒が立っていた。


クラスメイトの、七瀬由衣。


「おはよ、悠斗。昨日さ、屋上にいたって聞いたんだけど――」


そこで彼女の視線が止まった。


リビングの奥。


エプロン姿のリシア。


一瞬、空気が固まる。


「……え?」


沈黙。


由衣の目がゆっくりと細くなる。


「なにその女の人」


「いや、これはその……」


説明できるわけがない。


異世界人です、なんて言ったら確実に終わる。


その間にリシアが静かに近づいてきた。


「ユウト、この人物は?」


「クラスメイト……」


「危険度は?」


「ゼロだよ!?普通の人間!」


由衣の顔がさらに曇る。


「普通の人間ってなに……?」


地雷を踏んだ。


リシアは由衣をじっと見つめる。


観察するような視線。


「敵意は低い。しかし、警戒心は高い」


「いや分析しないで!」


由衣が一歩下がる。


「ちょっと、悠斗……その人、何?」


「えっと……」


言葉が詰まる。


その瞬間、リシアが一歩前に出た。


「私はリシア。ユウトの協力者です」


「協力者?」


「異世界から来ました」


沈黙が落ちた。


由衣は一度瞬きをしてから言った。


「……はい?」


当然の反応だった。


俺でも最初そうだった。


だがリシアは真顔のまま続ける。


「あなたの世界の概念では理解困難かもしれませんが、事実です」


「いやいやいやいや」


由衣は俺の方を見る。


「悠斗、なにこの子」


「信じてくれとは言わないけど……マジでそうなんだ」


「余計怖いんだけど」


正論すぎる。


リシアは少し首を傾げた。


「理解が進まない理由が不明です」


「そりゃそうだろ!」


三者三様で会話が崩壊している。


ただその中で一つだけ分かったことがある。


リシアは“嘘をついていない”。


そしてそれが一番厄介だった。


由衣はしばらく黙ったあと、ため息をついた。


「……悠斗さ、こういうのに巻き込まれるタイプだったっけ」


「俺もそう思ってる」


「で、その人、今日からどうするの?」


「それが問題なんだよ」


リシアが普通に答える。


「私はユウトの生活圏に同行します」


「やめろそういう言い方」


由衣の視線がさらに鋭くなる。


「同居ってこと?」


「そうなります」


即答だった。


空気が凍る。


「……へえ」


由衣の声が低くなる。


「そっか。そういう関係なんだ」


「違うから!!」


全力で否定した。


だが、その瞬間に気づいた。


この誤解、たぶん一番面倒なやつだ。


リシアは首を傾げている。


「“関係”とは何ですか?」


「説明するなそれは今じゃない!」


朝から、人生最大級に面倒な状況になっていた。


ただ一つだけ確かなことがある。


この日常は、もう元には戻らない。


そして――由衣の視線が、少しだけ変わった。


興味と警戒が混ざった目。


物語は、確実に“人間関係の戦場”へ移っていく。

朝の騒動のあと、学校へ向かう足取りは重かった。


正確には、重いのは俺だけじゃない。


隣を歩くリシアは、周囲の景色をずっと観察している。

電柱、車、人の流れ、信号の色。


全部が“データ”みたいな視線だった。


「この世界は、移動に秩序があります」


「まあ……ルール守らないと危ないし」


「合理的ですね」


またその言い方だ。


感情があるのかないのか分からない。

それなのに、なぜか一緒に歩いていること自体は妙に自然だった。


校門をくぐると、空気が一気に変わる。


ざわつき。視線。


そして当然のように――


「あれ、昨日の女の人じゃね?」


「転校生?」


「いやモデルみたいじゃない?」


リシアは一切気にしていない。


むしろ観察対象が増えたとでも言いたげに周囲を見ている。


「ユウト、この集団は?」


「高校生」


「理解しました」


絶対理解してない。


教室に入ると、さらに地獄だった。


七瀬由衣がこちらを見て固まる。


昨日の件を思い出している顔だ。


「……ほんとに連れてきたの?」


「不可抗力というか……」


「説明になってないんだけど」


リシアは俺の隣に座るような形で立ち止まった。


「ここが学習施設ですか」


「教室な」


「機能的には収容空間に近いですね」


「言い方!」


由衣が頭を抱える。


「ねえ、悠斗。ほんとにその人なんなの?」


「それを説明するには、昨日の空から話す必要があって……」


「もういいよ、聞く」


覚悟決まるの早いな。


俺は小さく息を吐いた。


「リシアは異世界から来た。任務で、こっちの世界を調査してる」


「はい?」


由衣の返事は昨日より一段階冷たかった。


「……つまり中二病?」


「違う」


リシアが静かに口を開く。


「私はセラフィア王国観測隊所属。異界接触現象の調査任務中です」


「ほら中二病」


即断だった。


だがリシアはまったく揺れない。


「あなたの認識は重要ではありません。事実は変わらないためです」


「その言い方が怖いんだって!」


クラスの空気がじわじわと凍る。


その時だった。


リシアが俺の方を見た。


「ユウト。任務の説明をします」


「今ここで?」


「はい」


そして、彼女は淡々と言った。


「私の任務は、この世界に発生した“接触点”の安定化です」


「接触点……?」


「異世界とこちらの世界が一時的に重なっている状態」


教室が静かになる。


冗談ではない空気が、少しずつ伝わり始める。


リシアは続ける。


「接触は不安定です。放置すれば、両世界の構造に歪みが生じます」


「……それ、危ないやつじゃん」


「はい」


即答。


軽く言うな。


由衣が小さく息を呑んだ。


「じゃあ……あなたはそれを止めに来たってこと?」


「はい」


「でもなんで悠斗と?」


その瞬間、リシアは少しだけ沈黙した。


初めての“間”。


そして――


「接触点の中心が、彼だからです」


教室が完全に止まった。


「……え?」


俺の声だけが空気に落ちた。


リシアはまっすぐ俺を見ている。


「ユウトは、異界干渉の“核”に位置しています」


「ちょっと待て」


「あなたの存在が、両世界の接続を安定させています」


「いや待て待て待て」


一気に話が重くなる。


由衣が俺を見た。


「……悠斗?」


「俺も今初めて聞いた」


リシアは続ける。


「本来なら、私は観測後すぐに処理対象を分離する予定でした」


「処理対象って言い方やめろ!」


「しかし」


そこで、彼女は少しだけ目を伏せた。


「予定は変更されました」


教室の空気が変わる。


「変更理由は?」


俺が聞いた。


リシアは一瞬だけ迷ったあと、静かに言った。


「あなたが“恐怖よりも先に協力を選んだから”です」


その言葉に、なぜか胸が少しだけ締め付けられた。


「それが理由?」


「はい」


「合理的じゃない」


「非合理です」


即答。


少しだけ、リシアの声が柔らかかった。


その時だった。


由衣が小さく言った。


「……それってさ」


「なに?」


「もう任務じゃなくなってるんじゃないの?」


静寂。


リシアは答えない。


でも、その沈黙がすべてだった。


そして昼休み。


屋上。


風が強い。


俺とリシアだけがいる。


「ひとつ聞いていいか」


「はい」


「なんで俺にそんな話をした」


リシアは少し空を見た。


「あなたの存在は、私の任務を変えました」


「どういう意味だよ」


「観測対象としてではなく、“個人”として認識しているためです」


その瞬間、言葉が止まった。


風の音だけが残る。


「それって……」


「感情に近い状態だと推定されます」


「推定って」


リシアは初めて、少しだけ困ったような顔をした。


「私はこの状態の名称を知りません」


「名前がないのか」


「はい」


沈黙。


そして彼女は小さく付け加えた。


「ですが、あなたと話すと、任務の優先順位が変わります」


「……それ、かなり重要なバグじゃない?」


「バグ、とは?」


「やばいって意味」


リシアは少し考えてから言った。


「では私は、やばい状態です」


その言い方が、少しだけ可笑しかった。


そして俺は気づいてしまう。


この少女はまだ“感情を知らない”のに、

すでに何かを感じ始めている。


そしてそれは――たぶん、俺の方も同じだった。

昼休みの屋上は、いつもより静かに感じた。


風の音がやけに大きい。


リシアはフェンスの外側ではなく、内側にちゃんと立っている。

それだけで少し安心する自分がいた。


「ユウト」


「ん?」


「一つ質問があります」


彼女は相変わらず真面目な顔のままだ。


「“好き”とは何ですか?」


唐突すぎて、パンを落としそうになった。


「……は?」


「昨日から複数回観測される言語です。しかし定義が曖昧です」


「曖昧っていうか、人によるやつだな」


リシアは小さく頷く。


「七瀬由衣は、あなたに対して“好き”という言葉を使いかけていました」


「やめてそういう観察」


「しかし最後まで発言しませんでした」


……見てたのか。


「それで、“好き”の意味を理解する必要があると判断しました」


「真面目だな……」


少し考えてから、俺は言葉を選ぶ。


「好きっていうのは……まあ、相手のことを大事に思うとか、一緒にいたいとか」


「それは任務に対する忠誠と類似しています」


「違う。もっと個人的だ」


リシアは首を傾げた。


「個人的、とは?」


「えっと……理屈じゃなくて、そうしたいって気持ち?」


その瞬間、リシアの目がわずかに揺れた。


「合理性がありません」


「そういうもんなんだよ」


沈黙。


風が一度強く吹いた。


リシアは少しだけ目を伏せる。


「私はあなたを観測対象としてではなく認識しています」


「うん」


「しかし、それが“好き”であるかは不明です」


「まあ、すぐ分かるもんじゃないしな」


その時だった。


「ユウト」


「なに」


「あなたは私をどう認識していますか?」


その質問は、妙に重かった。


少しだけ考える。


最初は異世界人。

次は任務対象。

そして今は――


「……放っておけない人、かな」


言ってから少し恥ずかしくなった。


リシアはしばらく黙っていた。


そして、小さく言った。


「それは“好き”に近いですか?」


「近いけど、イコールじゃない」


「理解が困難です」


でもその声は、少しだけ柔らかかった。


その日の放課後。


教室では、七瀬由衣がずっとこちらを見ていた。


耐えきれず、廊下に呼び出される。


「ねえ悠斗」


「……うん」


由衣は少しだけ怒っている顔をしている。


「その子とどういう関係なの」


「それ説明すると長くなる」


「いいから」


圧が強い。


俺は少しだけ息を吐いた。


「最初はただの異世界人だった」


「今は?」


「……分からない」


正直だった。


由衣は少しだけ目を細める。


「好きなの?」


即直球。


「それも分からない」


「は?」


「でも、放っておけないのは確か」


由衣はしばらく黙っていた。


そして小さく笑った。


「そっか」


「なにその反応」


「いや、ちょっと安心しただけ」


「安心?」


「取られたのかと思った」


その言葉に一瞬固まる。


「いやいやいや、そういう話じゃないだろ」


「分かってるよ」


由衣は少しだけ視線を落とした。


「でもさ、その子本気で悠斗のこと見てるよ」


「……どういう意味」


「説明難しいけどさ。人間っぽくないのに、悠斗の前だけ反応違う」


その時、背後から声がした。


「ユウト」


リシアだった。


いつの間にか立っている。


「あなたを探していました」


由衣と目が合う。


一瞬の沈黙。


リシアは由衣を見て言った。


「あなたはユウトにとって重要人物ですか?」


「……は?」


由衣は固まる。


「関係性の分類をお願いします」


「いや分類って何!?」


リシアは真剣だった。


「感情の誤認を防ぐためです」


由衣は俺を見る。


「ねえ、これ何?」


「俺に聞くな」


だがその時、リシアが少しだけ言葉を詰まらせた。


珍しい。


そして――


「私は、ユウトにとっての“私”が何かを知りたいです」


その言葉は、今までで一番“人間らしかった”。


由衣の表情が少し変わる。


「……それ、聞くの反則じゃない?」


「反則?」


「いや、なんでもない」


風が止まったように感じた。


その瞬間、俺は気づく。


リシアはもう“観測者”じゃない。


誰かを理解しようとしている。


そしてそれはたぶん――


恋に似ているものだった。

その夜、空はまた少しだけ歪んでいた。


気のせいと言えばそれまでだ。

でもリシアは、ベランダからずっと空を見上げている。


「……また来てるな」


思わず声が出た。


リシアは振り返らないまま言う。


「接触点の揺らぎが増大しています」


「それ、放っておくとどうなる?」


少しの間。


「この世界と私の世界が“固定化”されます」


「固定化?」


「境界が消えます」


その言葉で、一気に寒気がした。


「つまり……混ざるってこと?」


「はい。完全に」


リシアはようやくこちらを向いた。


「その場合、両世界の法則が衝突し、どちらかが崩壊する可能性があります」


「……それ、結構まずいやつじゃん」


「はい」


いつも通りの即答が、逆に怖い。


風が強くなる。


「だからあなたは来たんだよな。これを止めるために」


「はい」


「じゃあ止める方法は?」


リシアは一瞬だけ沈黙した。


その“間”が嫌な予感を連れてくる。


「接触点の中心を“切り離す”必要があります」


「それってつまり?」


彼女は静かに言った。


「ユウトです」


一瞬、理解が追いつかなかった。


「……は?」


「あなたが接触点の核です。あなたをこの世界から切り離せば、安定します」


「それって、どういう意味での“切り離し”?帰すってこと?」


リシアは答えない。


その沈黙で、全てが伝わった。


「……元の世界に戻す?」


「はい」


「じゃあそれでいいじゃん」


そう言った瞬間、リシアの表情がわずかに揺れた。


「問題があります」


「なに」


「あなたは既に、この世界に“固定化”され始めています」


嫌な言葉だ。


「固定化されると?」


「戻れません」


風が止まった気がした。


「……いや、待てよ」


頭が追いつかない。


「じゃあ俺はどうすればいいんだよ」


リシアは少しだけ視線を落とした。


「私が観測した限りでは、方法は一つです」


「言えよ」


「接触点の安定条件を変更する必要があります」


「だからそれ何なんだよ」


彼女は、初めて少しだけ言葉を選んだ。


「“強い感情の共有”です」


沈黙。


「……は?」


「接触点は物理的ではなく、精神的な結びつきで安定します」


「ちょっと待て。つまり?」


リシアはまっすぐこちらを見た。


「あなたと私が、互いに強い感情を持つことで固定化が安定し、崩壊を防げます」


「それって……」


喉が詰まる。


「恋愛してればいいってこと?」


「簡略化すれば、その解釈も可能です」


「いやいやいやいや」


思わず頭を抱える。


「そんな適当なシステムあるか?」


「観測上の事実です」


真顔すぎる。


でも嘘じゃないのは分かる。


リシアは続けた。


「逆に言えば、その条件が成立しない場合、あなたは元の世界に戻されます」


「強制的に?」


「はい」


その言葉で理解した。


これは選択じゃない。


条件だ。


しかも残酷なやつだ。


「それってさ」


声が少しだけ震えた。


「俺がここに残るか、元に戻るかって話じゃなくて」


「はい」


リシアは一度だけ間を置いた。


そして、静かに続ける。


「あなたと私の関係が成立するかどうかの話です」


その言葉が、やけに重かった。


翌日。


学校。


何も変わらないようで、全部が変わっていた。


七瀬由衣はすぐに気づいた。


「……昨日、何かあった?」


「いや、別に」


「嘘」


即答だった。


俺は言葉に詰まる。


由衣は少しだけ怒っているような顔をしたあと、ため息をついた。


「またあの子絡みでしょ」


「……うん」


否定できなかった。


由衣はしばらく黙る。


そして小さく言った。


「ねえ悠斗」


「なに」


「もしさ、その子と一緒にいることでしか解決できないなら」


一瞬、息が止まる。


「それ、もう答え出てない?」


その言葉は、鋭かった。


でも優しかった。


放課後。


リシアと二人で帰る。


夕日が長い影を作る。


「ユウト」


「ん?」


「私はまだ、“好き”の完全な意味を理解していません」


「うん」


「しかし」


彼女は少しだけ立ち止まった。


「あなたといると、任務のことを忘れる時間があります」


その言葉は、静かだった。


でも確かに“変化”だった。


「それはいいことなのか?」


「不明です」


少し間。


「しかし、悪いとは感じません」


その時、分かった。


これはもう任務じゃない。


そして俺も――


ただの状況整理じゃ済まない場所に立っている。


夕日の中で、リシアが少しだけ笑った気がした。


それはほんの一瞬。


でも確かに、“誰かを好きになりかけている顔”だった。

その日、空は静かに“割れ始めていた”。


正確には、誰にも見えないところで崩れている。

けれどリシアだけは、朝からずっと上を見ていた。


「……進行が早い」


「何が?」


「接触点の崩壊です」


その言葉は、いつもより短かった。


教室でも、違和感は増えていた。


時計の針が一瞬だけ戻ったように見えたり、

廊下の声が二重に聞こえたり。


現実が少しずつズレている。


七瀬由衣は、もう冗談で流していなかった。


「ねえ悠斗」


「……うん」


「それ、本当にやばいやつでしょ」


否定できなかった。


リシアは窓の外を見たまま言う。


「崩壊が一定ラインを超えると、接触点は“強制修正”されます」


「強制修正?」


「ユウトは元の世界へ戻されます」


その瞬間、教室の音が遠くなった気がした。


由衣が小さく息を飲む。


「それって……もう決まってるの?」


「いいえ」


リシアは初めて、はっきりとこちらを見た。


「まだ、選択可能です」


選択。


その言葉が重い。


放課後。


屋上。


風が強い。


リシアと俺、そして七瀬由衣。


三人だけ。


由衣はフェンスにもたれながら、静かに言った。


「ねえ、結局さ」


「……うん」


「どっちを選ぶかって話なんでしょ」


リシアが少しだけ目を細める。


「選択構造としては正確です」


「そういう言い方やめなよ」


由衣はリシアを見た。


「あなたさ、感情とか分かってないんでしょ」


「未確定です」


「じゃあさ」


由衣は一歩前に出た。


「もし悠斗がいなくなったらどう思う?」


空気が止まった。


リシアはすぐに答えない。


初めてだった。


長い沈黙。


そして――


「想像が困難です」


その声は、少しだけ震えていた。


由衣は小さく笑う。


「ほらね」


そして俺を見る。


「悠斗はさ、その子にとって“初めての例外”なんだよ」


「例外……?」


「うん。多分それ、恋愛とかそういうのの始まり」


リシアが小さく言う。


「恋愛は、始まりが必要なのですか」


「必要とかじゃないよ」


由衣は少しだけ目を伏せた。


「でもさ、始まっちゃったら戻れない」


その言葉が、妙に静かだった。


その瞬間だった。


リシアが一歩前に出る。


「ユウト」


「なに」


「私はまだ“好き”を完全に理解していません」


いつもの言葉。


でも続きが違った。


「しかし」


彼女は俺をまっすぐ見た。


「あなたがいなくなる可能性を想像した時、胸部に圧迫感が生じます」


「……それって」


言葉が詰まる。


リシアは続ける。


「これは任務では説明されていません」


由衣が静かに言った。


「それが“好き”じゃないの?」


リシアは一瞬止まった。


風だけが強くなる。


そして――


「分かりません」


だが、その声は今までで一番人間に近かった。


夜。


接触点の崩壊が加速する。


空に、裂け目が見える。


もう隠せない。


リシアは静かに言う。


「最終選択が必要です」


「俺が消えるか、残るか」


「はい」


由衣は少し離れた場所に立っている。


その目は、少しだけ寂しそうだった。


「ねえ悠斗」


「なに」


「私、たぶん分かってた」


「何を?」


「最初から、勝ち目ないって」


冗談みたいな声。


でも本気だった。


リシアが俺を見る。


「ユウト」


「うん」


「私はあなたに選択を委ねます」


沈黙。


空が裂ける音がする。


そして――


その瞬間、リシアが小さく言った。


「私は、あなたがいなくなるのが嫌です」


初めての“確定した感情”。


それは任務でも観測でもなく、ただの言葉だった。


由衣が目を閉じる。


「……もう答え出てるじゃん」


風が止まる。


俺は、空を見上げた。


裂け目はもう限界だった。


そして――


選ばなければ、全部終わる。

空の裂け目は、もう“穴”と呼べる大きさになっていた。


夜なのに、そこだけ昼みたいに明るい。

いや、正確には光じゃない。空間そのものが崩れている。


リシアはそこを見上げて、静かに言った。


「最終干渉領域に到達しました」


「つまり?」


「今なら、あなたを元の世界へ戻せます」


その言葉は、もう機械的じゃなかった。


少しだけ、迷いが混じっている。


七瀬由衣は一歩下がって、空を見た。


「ほんとに……終わるんだね」


誰に向けた言葉でもない。


ただ事実を確認する声だった。


俺は、リシアを見る。


「戻る方法は、それだけ?」


「はい」


「じゃあさ」


一瞬、喉が詰まる。


「もし俺が戻ったら、お前はどうなる?」


リシアは少し黙った。


そして、正直に言った。


「接触点の解消により、私は帰還します」


「元の世界に?」


「はい」


「それで終わり?」


「はい」


あっさりした答え。


でも、その“はい”は重かった。


由衣が小さく笑う。


「ほんと、異世界って残酷だね」


リシアは何も言わない。


ただ、俺を見ている。


その視線が、初めて“観測”じゃなかった。


「ユウト」


「なに」


「私はまだ、“好き”の完全な定義を知りません」


またそれか、と思いかけて――違った。


続きがあった。


「しかし」


リシアは一歩近づいた。


「あなたがいない世界は、計算上“安定している”のに、私にとっては不快です」


風が止まる。


「不快?」


「はい」


彼女は少しだけ困った顔をした。


「これは任務には存在しない反応です」


由衣が静かに言う。


「それが答えじゃん」


リシアは一瞬だけ由衣を見る。


そして、また俺に戻す。


「あなたは、どうしますか」


最後の問い。


空が崩れる音がする。


時間がない。


普通なら選ぶべきだ。

帰るのが正しい。安全なのはそれだ。


でも――


俺は一歩、前に出た。


「戻らない」


静かに言った。


リシアの目が揺れる。


「理由を」


少しだけ笑う。


「お前がさ、“不快”って言ったから」


リシアは固まる。


「それは合理的ではありません」


「知ってる」


「危険です」


「それも知ってる」


由衣が小さく息を吐く。


「ほんと、そういうとこだよね」


空の裂け目がさらに広がる。


限界。


リシアは初めて、声を震わせた。


「ユウト。あなたがここに留まれば、構造が不安定になります」


「じゃあどうする?」


「……分かりません」


その言葉が、この物語で一番“人間”だった。


沈黙。


そして俺は言った。


「だったらさ、一緒に不安定でいればいいんじゃない?」


リシアの瞳が大きく揺れた。


「それは……解決ではありません」


「うん」


「任務でもありません」


「うん」


「でも」


彼女は初めて、ほんの少しだけ笑った。


「嫌ではありません」


その瞬間だった。


空の裂け目が、静かに収束し始めた。


由衣が目を見開く。


「え……?」


リシアが呟く。


「接触点が……再定義されています」


「再定義?」


「“安定条件”が変更されました」


つまり。


恋愛とか任務とかじゃない。


ただ一つ。


“互いに離れたくないという事実”。


それだけが、世界のルールを書き換えていく。


裂け目が消えていく。


空が戻る。


夜が普通の夜になる。


静寂。


終わった。


由衣は小さく息を吐いたあと、空を見て笑った。


「……負けたなー、これ」


「勝負じゃない」


「分かってるよ」


そして彼女は背を向ける。


「じゃ、私は退場ね」


少しだけ寂しそうで、でもちゃんと前を向いていた。


「ちゃんと幸せになりなよ」


それだけ言って、歩いていく。


残ったのは俺とリシアだけ。


夜風が静かに吹く。


リシアが小さく言う。


「ユウト」


「ん?」


「私はまだ“好き”を完全には理解していません」


「うん」


「しかし」


彼女は一歩近づく。


「あなたといると、理解しなくてもいいと思います」


少し沈黙。


そして、静かに。


「これが“好き”ですか?」


俺は少し笑った。


「たぶん、そう」


リシアも少しだけ笑った。


その笑顔はもう、“観測者”のものじゃなかった。


ただの、ひとりの女の子の顔だった。


空はもう、割れていない。


でも――


境界線は、もうどこにもなかった。

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