プロローグ
教室の空気はどこか浮ついている。 窓の外では今年最初の蝉が鳴き始めた、まるで夏が始まるのが待ちきれないとでもいうように。
「セミマジでウザいんだけど」
教室のエアコンが故障しているため、窓は全開、遮るものは何も無い。入ってくる風も控えめに言っても生温かいし、セミの音波攻撃は鼓膜をダイレクトに震わせる。
とてもじゃないが授業を受けられるような環境ではない。それでも救いなのは今日が終業式で、明日から夏休みだということ。生徒たちは各々ハンディ扇風機を持ち込んで耐え忍んでいるし、教室の前と後ろには大型送風機がオンオンと唸りを上げているが、気休めである。
「……暑い」
白銀流星は窓際の席に座り、その黒髪を風に揺らしながら、その涼し気な横顔を歪ませる。
彼の名誉のために言うならば、流星は我慢強いし、滅多に弱音を吐く男ではない。
ただ――――彼は生まれつきある力を持っていた。
『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』『暑い』
人間の発する感情が伝わってくるのだ。
クラス中の人間が発する『暑い』という感情が流星にまとめて流れ込んでくるのだ。一言ぐらい愚痴をこぼしたことを責めるのは酷というものだろう。
「流星〜! 夏休み何すんの?」
陽翔が教室の後ろから駆け寄ってくる。 少しクセのある明るい茶髪に中性的な瞳が眩しい。ラフに着崩した制服から伸びたすらりとした長い手足、その一挙手一投足に周囲の女子たちの視線が自然と向かう。陽翔は流星の幼馴染で親友だが、昔からとにかくモテる男だ。流星は興味なさげにちらりと視線を向ける。
「……夏休みの課題」
流星は小中夏休みが始まると同時に宿題を終わらせてきた男だ。正直に答えただけなのだが――――
「あはは、流星って本当に面白いよね。とりあえず海行く? 山とか川も良いよね、あ、プールも行きたいし……夏祭りとか花火もあるし……ヤバい、夏休み足りなくね!?」
陽翔には冗談にしか聞こえなかったらしい。
「うーん、どうかな……あまり時間取れそうにないんだ」
「そうなの? 少しも? 全然?」
「……まあ、後半になったら少し時間取れる……かも」
「そっか、じゃあ後半遊ぼう!」
「陽翔、宿題は大丈夫なのか?」
「大丈夫、大丈夫、どうせ最終日に徹夜するんだから」
「そのポジティブさを少しだけ宿題に発揮したらどうなんだ?」
「無理無理、俺は追い込まれないとやらない男だからね」
底抜けに明るい行動派の陽翔と、物静かな流星はまるで太陽と月だ。趣味や価値観も違うし、幼馴染という以外の接点も特にない。むしろ苦手なタイプでさえある。
それでも――――陽翔から流れてくる感情は純粋で真っすぐな『好意』
だから流星は高校生になっても陽翔と親友を続けている。
たとえそのことで自分が苦しみ続けていたとしても。
「陽翔、少しは流星を見習いなさいよね」
「なんだよひより、お前だって去年宿題終わらなくて流星に泣きついてたじゃないか」
「う、うるさいわね……今年こそはちゃんとやるわよ、そうだ!! 皆で宿題合宿しない? 陽翔ん家で!!」
ひよりは少し顔を赤くしながら陽翔に期待を込めた視線を送る。黒髪のショートボブは昔から変わらない彼女のトレードマーク。陽翔は露骨に嫌な顔をする。
「うえっ!? 合宿は楽しそうだけど宿題はなあ……まあ、流星が参加するなら――――」
「俺はパス」
「ええっ!? なんでよ流星、アンタがいなかったら誰が私たちに宿題教えるのよ!!」
流星の腕を掴んでグイグイと揺さぶるひより。
「宿題は誰かに教えてもらうものじゃないぞ」
変わらない距離、ひよりから向けられるのは、陽翔と同じ純粋で真っすぐな『好意』だからこそ流星の胸はそのたびに苦しくなる。
ひよりは流星の初恋の相手だった。
でも――――彼女の『好き』が向けられている相手は流星ではなく陽翔。
流星の初恋は始まる前に終わってしまったのだ。
「私は参加するわ」
席に座ったまま、スマホを見ていた澪奈が会話に参加してきた。視線の先にいるのは陽翔、滅多に笑顔を見せない彼女だが、陽翔にだけは目を合わせて微笑む。 澪奈の長い黒髪が揺れるたびに流星の心は舵のない筏のように漂流する。
中学に入った流星の前でひとりの少女が桜を見上げていた。
「こんなに綺麗な桜でさえも毎日見ていたら飽きてしまうのでしょうか……?」
品よくまとめられたロングの黒髪、切れ長で涼し気な目元、クールで大人っぽい表情――――ひよりとは正反対のタイプ――――だからこそ惹かれたのかもしれない。
だが――――彼女の『好き』もまた、彼の親友に向けられていた。
「よし、じゃあ澪奈も参加ね。陽介はどうする?」
「俺はやめとく。バイト目一杯入ってるから」
「そっか、なら日程決めないとね、陽翔、澪奈、今から打ち合わせだよ!」
「ちょ、勝手に決めないでよ……はあ……仕方ないなあ」
強引なひよりに流される陽翔とそれに便乗する澪奈。
そんないつもの光景をしばらく見なくて済むと思うだけで心が少し軽くなるのを感じる流星だったが、同時にそんな自分が嫌になる。自分の心の弱さ、狭さ、自分勝手な想いなど無くなってしまえば良いのにと。
「そう自分を責めるなよ流星、お前は何も悪くないぞ。強いて言うなら陽翔が悪い」
騒がしく立ち去ってゆく三人の後ろ姿を見送りながら陽介が流星の肩をポンと叩く。陽介は、澪奈と同様中学からの関係だ。眼鏡が似合う知的なインテリという風貌だが、勉強は陽翔といい勝負という残念眼鏡クンである。
「陽介……お前は本当に何でもお見通しなんだな」
「そんなわけあるか、お前らがわかりやすすぎるんだよ……まあ、なんだ、失恋にはいつだって新しい恋が効くらしいから、せっかくの夏休み、良い人が見つかると良いな?」
「ふーん、陽介は探さなくて良いのか?」
「俺はバイト先に可愛い子がいる予定だからな」
冗談とも本気ともとれない陽介の言葉に苦笑いする流星。
「俺は……もう恋はしたくない……かな」
今にも泣きそうな流星に陽介はそれ以上何も言えなかった。