あのマジで真剣に何言ってんだか意味わかんないんですけど!
【魚の目】は泣き叫んだ。
「あのマジで何言ってんだか真剣にわかんないんですけど!」
教室の空気がひび割れたように揺れた。時間が止まったわけではない。ただ、何かが“意味”として形をなす前に砕け散った、そんな音だった。
教授は黙っていた。彼はゆっくりと本を閉じ、深く椅子にもたれかかる。重たい沈黙。だがそれは怒りでも、侮蔑でもない。ただ、静かに場を見つめる無言の眼差し。黒板の文字列はそのままだった。
構文の隙間に棲む声。
意味は水脈であり、読むことは振動である。
語られる以前の語り、それが風である。
【魚の目】は、汗ばんだ手のひらで自分の顔を覆った。息が荒い。心拍が合奏のように脈打っている。
(だって、意味わかんねぇよ。構文?水脈?読むって振動?風?……わかんねぇ、全然……)
教室の窓の外、木々の間を縫うように風が走っている。けれど、その風には何も囁かれていない。ただ音がしているだけだ。それ以上でも以下でもない。
「ねえ教授……」
【魚の目】は今度は静かに言った。涙の名残がまつ毛に残っている。
「なんで、そんな難しいこと言うの?」
教授は目を細めた。まるで、ようやく届いた声を聴くように。そしてこう答えた。
「難しいことを言っているつもりは、ないのです。ただ、“まだ名前のない経験”を語ろうとすると、どうしても歪な言葉になる。それだけなのです。」
「じゃあ、それって……俺らに届くと思ってるんですか?こんな言い方で?」
「届くと信じて話している。ただし、直接ではなく――遅れて、届くことを願っている。」
教授は立ち上がり、黒板の文字の前に立った。背後には複雑に絡み合った言葉の枝。構文の樹木。
「魚の目君。あなたの“わからない”という声、それは語り手としての出発点です。君は、私の言葉を受け取れなかった。でも、それは君の中に“別の言葉で語る力”があるからです。」
「……別の?」
「そう。つまり、私の構文が君の思考に馴染まなかったのは、君がすでに“自分の構文”を持っているからです。」
【魚の目】は目を見開いた。
(俺が、自分の構文を……?)
思い返せば、教授の話が全く理解できなかったのは、それが間違っているからではない。むしろ、自分の頭の中にある「何か」と、すれ違っているからだ。説明されているはずなのに、別の何かがざわざわと自己主張してくる。その「何か」に、まだ名前がついていないだけで。
教授は続けた。
「記述は、誰にでも訪れるものです。読むとは、受け取ることではなく、変換すること。君は今、変換しきれずに“詰まって”いる。それは痛みを伴います。しかし、その痛みこそが、“自分の言葉”を得る通過儀礼なのです。」
【魚の目】は、その言葉を、言葉ではなく“感触”として受け止めた。胃の底が少し熱くなるような、妙な感覚。怒りの後に残る、燃え尽きた灰の中の、小さな種火。
「それでも……やっぱり、俺は言いたいです。マジで、わかんない、って」
「それで、いいのです。大切なのは、わからない、を封じないこと。むしろ、言葉にして投げ返すこと。それが、構文を作る最初の石になる。」
教室の後方、窓の隙間から風が吹き込んだ。ほんの少しだけチョークの粉が舞う。その軌道を、【魚の目】は目で追った。
「あのさ、教授」
「はい?」
「俺、さっき“風は風じゃない”とか、なんか意味不明なこと、あなた言ってたけど――でも今なら少しだけ、わかる気がする」
「それは、どうしてですか?」
【魚の目】は机の上のノートを見つめ、そこに何も書いてない白いページを指差した。
「この真っ白いページを見て、今、何か書きたくなったからです」
教授は深くうなずいた。
「それが“語りの兆し”です。説明などいらない。ただ、書きたい、という欲望だけが、構文の最初の鼓動なのです。」
窓の外で風が揺れた。今度は、確かに、何か囁いたように思えた。ほんのかすかな調べ――ドシラソー……のような。
【魚の目】は、静かにノートにペンを走らせた。最初の言葉は、こうだった。
「わからない。でも語りたい。それが俺の第一文。」