魚の目は叫んだ。「バカヤロー。大学教授の言っていることなんかわかんないんだよー!」
【魚の目】は叫んだ。「バカヤロー。大学教授の言っていることなんかわかんないんだよー!」
教室の空気が一瞬凍りついた。教授は、動じることなく、ゆっくりと眼鏡を外し、机に置いたまま、静かに微笑んだ。そのまなざしは、まるで沈黙のなかに潜む声を聴くようだった。
「――それで、いいのです」
教室はしんと静まり返っている。
教授は立ち上がり、大きな黒板を背にしてゆっくり歩み寄る。黒板には、さきほどまで構文や風の声についての幾つかのフレーズが残っていたが、そのすべてを覆い隠すように、黒板中央に大きく次の言葉を書いた。
記述とは、抵抗である。
その文字は、白いチョークの粉末をまとうように、教室の空気に重く定着した。
【魚の目】は、叫びから一瞬、肩を震わせたが、表情は固まっていた。ほかの学生たちも動かない。まるで地中深く響く振動を受け止めるように。
教授は黒板の前で一呼吸置いてから、語り始めた。
「魚の目君、よく叫びましたね。わからない、と。これは、理解を拒絶する行動ではありません。むしろ、それは“君自身の語法で世界を記述し直す”第一歩にほかなりません」
教授の声は、穏やかで、しかし揺るがぬ響きを持っていた。
「『わかんない』と言える人間は、まだ“構文の森”に踏み込んでいる。対して、教授の言葉に頷く者は、言葉に追従する者であり、構文にそのまま溶け込む者です。だが、君は違った。叫ぶことで、言葉と構文に“抗い”、その中で“自分の言葉”を見つけたのです」
教授はゆっくり歩を進め、黒板の前で止まった。
「真の危機とは、『わかっているフリ』をして、ただ沈黙し続けることです。理解を装えば、構文に吸い込まれ、やがて自分の言葉を失ってしまう。君はその先行を回避した。そして、それこそが、『抵抗』なのです」
【魚の目】は口をつぐんだまま、教壇の後ろで動かない。だが、その視線にはわずかな揺らぎがあった。
教授は再び黒板に眼を戻し、白い文字に指を滑らせる。
「君の叫びは、構文の森を震わせ、ページの地殻を突き破る地鳴りです。『わかんない』と声に出したことで、君は“読まされる者”から“語る者”になった。――その変化は、小さな革命です」
教室の中に、しんとした時間が抜けて流れ込む。
「そして、それこそが、最初の“単位”なのです」
教授の言葉が響く。単位とは、試験を通過することでも、流暢な論文を書くことでもない。語る意思を形にした者にだけ与えられるもの──それが“単位”だ、と教授は言いたかったのだ。
【魚の目】の胸が、わずかに動いた。胸の奥に沈んでいた不安と怒りが、教壇の言葉によって揺り動かされている。
教授はふと微笑み、机に戻るように一歩下がった。
「さて、授業を終えますが……これだけは覚えておいてください」
教授は黒板の文字を指でなぞりながら、さらに続けた。
「読む者は、書き手にもなる。考える者は、構文そのものにもなる。そして語る者は、自分の声で世界に手を触れるのです」
教室の時間が止まったかのようだった。全員が固唾を飲んでその言葉を聴いた。
【魚の目】は、ゆっくりと顔を上げた。その目には、内側から光が灯っていくような、そんな気配が宿っていた。
鏡のように見える窓の外では、風がじっと揺れていた。ページの端が微かに揺れるように、教室の隅々まで響く、構文の呼吸を感じながら――
そして、【魚の目】の中で何かが割れ、そして芽吹いていた。森の奥から、風が──今度は、彼自身の言葉で──吹き始めていた。
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この場面は、叫びによって構文の閉じた回路を断ち、自分自身の言葉と声を構築する転換点を描いています。教授の「抵抗としての記述」という言葉は、【魚の目】の意識と関わりながら、「単位」を単なる制度ではなく、内在的な覚醒の象徴として提示しています。