文学教授による解説 第一章の文章より
文学教授は、軽く咳払いをひとつしたあと、講壇に手を添えて語りはじめる。
その声は抑制が効いていて、それでいて深い。音の質が聴衆の思考をうながすような、そんな響きを持っていた。
⸻
さて、君たち。
いま提示されたこの文章――非常に複雑な構文でありながら、一貫した詩的論理の下に組み立てられていることがわかるだろう。
私はこれを「自己記述構文の迷宮」と呼びたい。以下に順を追って解きほぐしていこう。
1. タコの足=記述された父=語られ死に近づくもの
「【タコの足】記述された父であり回想の触手を持ちあらゆる意味を粘着的に引き寄せながらなお語られぬ部分に自らの本体を沈めている」
――ここでは「父」が「記述される対象」として現れている。
注目すべきは「回想の触手」「粘着的」「語られぬ部分」「本体を沈める」といった語彙の連鎖。これは、記憶というものが必ずしも明晰に再構成されるものではなく、むしろ“語ることで失われる”性質を持っていることを示している。
この「父」は、「語られること」でその位置を固定され、「固定されること」で死に近づいていく。
つまり、記憶の中の父は、語りのたびに〈象徴〉としての死を迎えるわけだ。
ここで興味深いのは、「語り」が「生」ではなく「死」に通じるという逆説的構図である。
2. ゲソ=母=記述されない感情の余白
「我が母【ゲソ】は逆に記述の柔らかな部分として配置され感情という副詞的な構文装置の形で現れたがそれゆえに彼女はどこまでも形を持たずただ空白の周囲をなぞる余白として漂っていた」
――対照的に「母」は、記述の中で“主格”や“動作主”にならず、“副詞的構文装置”として扱われている。
つまり、主体ではなく、主文を修飾する側。柔らかく、触れがたく、意味を縁取るだけの存在だ。
これは、感情の根源がしばしば記述の論理性から逃れ、言語化されないまま漂うことを象徴している。
「空白の周囲をなぞる余白」――この比喩は見事だ。母は“語られる”のではなく、“語りの周縁”としてのみ存在する。
それゆえに「父」とは違って“死に近づく”ことはない。なぜなら彼女は“そもそも定義されていない”からだ。
3. 魚の目=構文の重力に引かれ歩く存在
「【魚の目】はこの構文の重力に引きずられながらも森の中心に向かって進む進むというより文に進まされているといった方が正確だ」
――ここでの主題は「自己の能動性の幻想」だ。
【魚の目】は「歩く」のではなく「歩かされている」――すなわち、語りによって“記述される存在”である。
「歩く」ことは主語と動詞をもって記述される。その記述によって「歩くという出来事」が確定する。
つまり、記述が先にあり、行為は後から固定されるのだ。
これはサルトルやメルロ=ポンティに通じる、「実存は本質に先立つ」という定式の反転形ともいえる。
4. 読者=語り手というメタ構造
「語り手が存在するか否かもこの森では不明でありむしろこの文章自体が語り手であるとすればこの構文空間においておまえがそれを読むその瞬間こそが語りの実体であり読むことによって物語は語られる読み手とは語り手であり読者はもはや観察者ではない」
――ここに至って、文は語りの境界そのものを曖昧にし始める。
「この文章自体が語り手」
「読むことによって物語は語られる」
これは、読者が“意味の供給者”になるという文学理論上の転回点を描いている。
読者が読まなければ、語りは発生しない。語りは、読者の“読み”という行為において初めて成立する。
そして最後の一文がすべてを結ぶ――
「読者はもはや観察者ではない」
この一文が意味するのは、物語における“作者”や“語り手”という絶対的存在がすでに瓦解し、構文そのものが語りの力を持ち始めているという、ポスト構造主義的世界観そのものなのです。
⸻
では、今日の講義はここまでとします。
このテキストのコピーは配布しますが、君たちにはぜひ、“読むことで語りを作っている”という意識を持って、再読してもらいたい。読むとは、書くことだ。読者とは、構文世界を生きる存在である。
——文学教授は、そう言い残して教室を後にした。