バルコニー
古城のバルコニーは、城の南端、崖に沿った石造りの張り出しであった。半月型に開けたその空間は、足元に苔むした蔦の葉が這い、欄干には雨風に打たれて欠けた獅子の頭が彫られていた。昼の光をその眼窩に受けて、乾いた彫像はなお呻くような気配を残していた。
そこに立つ者に、森は広く開かれている。だが、その開かれ方は奇妙である。視界は確かに遠くまで抜けているのに、まるで霧のような微細な揺らぎが、一定の距離を越えた先を拒む。森の手前と奥とで、何かが切り替わっている。見えるが、わからない。存在するが、届かない。
眼下には、ほとんど音を立てぬ森が広がっていた。常緑樹と落葉樹が混ざり合い、季節を抱え込んだまま膨れあがった深緑の大地が、谷を包み込むようにして横たわっている。ところどころに白っぽく光るのは、おそらく朽ちかけた石造りの塔の残骸だろう。かつて見張りの塔として建てられ、いまは鳥の巣となってしまったものたち。
森は、まるで呼吸しているようだった。風が吹くたびに、葉が波打ち、枝がしなり、微細なリズムが大地を通じてバルコニーまで届く。耳をすませば、遠くで木々のあいだから何かが鳴いている。それが鳥か獣か、あるいは誰かの記憶の断片かはわからない。なぜならこの森は、単なる植物の集合ではなく、**誰かの過去と未来とが折り重なって眠る「思い出の森」**だからだ。
遠くに、一本だけ赤い木が立っていた。他のすべての木が緑や褐色に沈んでいるなかで、その木だけが、燃えるような朱をまとっていた。それは季節の先取りというより、なにか固有の時間軸を持ってそこにあるように見えた。目をこらせば、その木の根元には人影のようなものがちらつく。が、目を逸らした瞬間にそれは消える。
時間もまた、このバルコニーでは異様だった。森に注がれる光が、水平に傾きながら、夕刻とも昼下がりともつかない曖昧な色を帯びている。雲は流れず、鳥はときおり鳴くが、羽ばたく姿は一向に見えない。風景が、ただ一つの長い呼吸のなかに封じ込められているようだった。
城内の気配が背後から消えていた。いつからか、誰も廊下を歩かず、扉も軋まなくなっていた。バルコニーだけが、外界に接続された最後の端末であり、森だけが、その向こう側に何かを隠していた。だが森の奥へ向かう道は存在せず、地図にさえ描かれていなかった。ここから見えるのに、辿り着けない。それがこの古城の、最大の矛盾であり、美しさでもあった。
ときおり、風が冷たくなる。森の奥にある見えざる泉から吹き下ろすのか、あるいは何者かが気配ごとこちらを覗き込んでいるのか。その風が頬を撫でた瞬間、遠い記憶がざわついた。バルコニーに立つ人物の記憶なのか、森そのものが抱えてきた記憶なのかは定かでない。だが、風と共に一瞬だけ過去が差し込む――たとえば、かつて森で迷った子どもの泣き声、遠雷のような銃声、名もなき女の呼ぶ声。それらが音ではなく、空気の歪みとして届いてくる。
バルコニーの床には、小さな割れ目があった。そこに古いコインがひとつ落ちている。見慣れない刻印があった。「VIATOR」――ラテン語で「旅人」を意味するそれが、なぜこんなところに落ちていたのか、知る者はいない。そのコインだけが、誰かがここを訪れた証であり、あるいは、誰かがここから出発したことの痕跡なのかもしれなかった。
森を見つめる眼差しは、しだいにその輪郭を失っていく。見つめるうちに、自分が森の一部になり、森が自分を吸い込んでいくような感覚。思考が眠りに溶けるように、風景が意識の表層を滑りはじめる。やがてバルコニーの石が冷たくなり、森がいっせいにまばたきする。
そして、そのすべてが夜に沈む。森は闇を拒まず、夜を拒まず、音のないまま、ただ在る。バルコニーの眼差しだけが、その沈黙を知っている。