表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
古城の暗影  作者: 牧亜弓
バルコニー
79/100

午後の牛睡

気がついたら【魚の目】は、バルコニーでピアノの音を聞きながら――断じて音楽とは呼べないその繰り返しの打鍵を背に――うとうとと牛のようなまどろみに包まれていた。

夢というほど明瞭なかたちをもたず、かといって現実の輪郭に接触するにはあまりにも鈍重で、ゆっくりと寝返りを打つような内的運動だけがかすかにあった。


彼の名は本名ではなかった。ある日、銭湯の脱衣所で他人の爪先を踏んだときに呼ばれたあだ名が、そのまま定着したのだ。「魚の目、痛ぇだろ!」と男は怒鳴り、【魚の目】はその語感に妙な親近感を覚えてしまったのだった。


バルコニーの下、廃園となった中庭に、一匹のタコがいた。いや、正確には「タコのような何か」だった。すり減った皮膚に墨色の斑点が浮かび、夕方の濁った光に浮かび上がっていた。タコは長いゲソの一本でピアノを弾いていた。


一音ずつの鍵を押すたび、コンクリートの底にわずかな共鳴が生まれる。それは音というより、皮膚の下を何かが這う感触に近い。心地よいものではないが、聞き流すには充分に曖昧で、やがて【魚の目】はまた目を閉じた。


「音楽じゃないよな」と彼は呟く。

言葉にしたところで、誰かがそれを拾うとは思っていない。かつて彼が言葉を投げて反応を返されたのは、最も暗い記憶の一つだった。郵便受けに入れた手紙が“返送不可”の印と共に戻ってきたときのような、ある種の終わりの兆し。


【魚の目】はピアノの音と沈黙のあいだを漂う。


バルコニーには誰も来なかった。もう何ヶ月も、彼の住む部屋には来客がない。タコだけが、毎日決まった時刻に現れ、ゲソで鍵盤を叩いては、黙って帰っていった。

もしかしたら、それも彼の幻想なのかもしれない。彼がかつて飼っていたベタが死んだとき、水面の泡が音になって彼の耳に届いたように。幻聴というにはあまりに重く、現実というにはあまりに軽い。


牛の眠りからゆっくりと目覚めたとき、【魚の目】はふと、ピアノの下に何かが落ちていることに気づいた。まるで誰かが音に置き忘れた、意味のかけら。紙切れだった。折り目がついている。

それを拾うかどうか、彼は少しのあいだ迷った。迷っているうちに、タコのゲソが一音、深く沈んだ。


まるで誰かが、彼の人生に「次の一音」を強制したように。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ