ふじわらしのぶと文芸評論家の対話
文芸評論家(以下:評):
ふじわら先生、読者からのご意見が届いております。「なぜ実存主義ではなくメタの世界に傾倒するのか」、という。
ふじわらしのぶ(以下:し):
それは……我々がすでに「実存」という名の苦しみの中で、言葉を使い果たしてしまったから、ですね。
評:
おお、詩的ですね、でも難解です。
し:
失礼。たとえばですが、「実存」というのは、自分の内面を凝視し、世界との摩擦のなかでしか輪郭を持てない。「わたしはここにいる」と言いたい人の哲学です。でもそれが行き着く先は、孤独か、無言の爆発か、あるいは……沈黙です。
評:
サルトルやカミュの線ですね。
し:
そうです。しかし、メタの世界――つまり物語の「構造」や「層」の方へ目を向けると、人間はもはや“語りの外側”に立つことができる。悲しみや怒りがあったとしても、それを語る枠組みごと、ちょっと上から見つめられる。
評:
なるほど。苦悩を“演出”の素材として引いて見る、と。
し:
そう。たとえば、あなたの苦しみが演劇であり、誰かがそれを観ていると思えたら、少しだけ、救われることがあるでしょう?
評:
ああ、確かに。舞台を意識することで、「これは終わる」と思える。
し:
その視点を物語の中に持ち込みたかったのです。つまり、「物語を壊す物語」を描くことで、読者に“語り手の苦しさ”そのものを感じてもらう。その結果、「読みづらい」と感じられるなら、それは……成功かもしれません。
評:
やっぱり意地悪ですね?
し:
はい(笑)
評:
で、問題のブレードランナーについてですが――
し:
あ、それ、気づいてくれてうれしいです!
評:
えっ?出てました?
し:
はい、まだ明示的には出していません。ただ、三話までの“あの女性”が言っていた「この人生が“植え付けられたもの”だとしたら?」という問い。それ、レプリカントの記憶の問題系とまったく同じです。
評:
なるほど、疑似記憶とアイデンティティの問題ですね。
し:
そうです。記憶が「ほんもの」でなくても、「本当にそう思っていた」ならそれは“人生”になってしまう。その欺瞞こそが、物語の厚みを生む。
評:
つまり、登場人物たちは、全員、自分の物語を演じているかもしれない、と。
し:
はい。その上で、誰かがその演技の枠を超えて“本物”になろうとする。そこに“地味に辛い”ドラマがある……というつもりでした。
評:
三話までで、すでにそういう構造になっていると。
し:
なっています。たとえば、名前のないモブキャラが急に哲学的な台詞を言うのは、“演出”の干渉の痕跡なんです。自然主義っぽく見せかけて、実はメタ的に崩れている。
評:
だとすると、読者が混乱するのも……狙い通り?
し:
そうですね。混乱は、感情の前奏ですから。
評:
うまいこと言いましたね……。
し:
句読点のリズムを変えてまで、ね……!
評:
(苦笑)それでは、読者の方へ最後に一言どうぞ。
し:
地味に辛いのは、人生そのものです。でも、それを“物語”として読むことで、時折、笑うことができます。それを信じて、続きを書いています。