zoomでミュートのまんま会議に参加していた
朝九時。
彼は机に座り、Zoomを立ち上げた。
背後にはカーテンを吊り、カメラには角と耳が映らぬよう微調整を済ませ、マイクチェックも終えた――はずだった。
泣き虫マンティコアは、いま、テレワーク中の中堅社員として、あるIT会社の定例ミーティングに参加している。
名前表示は「佐藤(開発部)」になっていた。彼は佐藤ではないが、それを言うわけにもいかない。
会議は始まった。誰かが進捗を話す。誰かが頷く。誰かがため息をつく。
彼も画面越しに頷き、メモを取り、発言の順を待った。テーマは新規プロジェクト――彼にとっては、久々の出番だ。
そして、ついに名前が呼ばれた。
「佐藤さん、次お願いします」
彼は息を吸い、資料を見た。
話し出す――が、画面の誰も反応しない。
まばたきだけが、バラバラと画面を漂う。
やがて、進行役が言った。
「……佐藤さん、マイクがミュートのままです」
瞬間、彼は固まった。
右手でマウスを探す。だが肉球が滑る。
マウスポインタがどこかへ消えた。画面の「ミュート解除」ボタンにたどりつけない。
会議の空気が、わずかにざわめいた。
「……あー、じゃあ、次の方いきましょうか」
その言葉が、胸に突き刺さった。
彼は叫びたかった。
「違う!います!しゃべってます!こっちはちゃんと準備してきたんです!」
でも声は届かない。マイクは沈黙したまま、会議は次へ進んだ。
画面の中で、話題は別の人へ移った。
彼は、そのまま、マイクを解除せぬまま、会議の終わりを迎えた。
カメラのランプが消える。Zoomが閉じる。
部屋には、誰の気配もなかった。
「……わたしは、ずっと、ミュートのまま生きてきたのかもしれんな」
彼は呟く。
たぶん、誰よりも多く言葉を準備していた。
誰よりも、話すつもりだった。
だが、誰も聞いていなかった。
その日、彼は一言も発せぬまま、業務を終えた。
モニターには、未送信のチャットが残っていた。
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『泣き虫マンティコア、SNSでブロックされる』
――第64話:「“つながり”という言葉が、一番の牢屋になることがある」
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泣き虫マンティコアは、Twitter――今はXと呼ばれる場所に、ひそかにアカウントを持っていた。
名前は「@kage_no_oni」。プロフィールには「人間社会に適応中。ビールと詩が好き」と書かれている。
アイコンは月。フォロワーは17人。
彼はよく、誰かのポストにリプライをしていた。
「あなたの気持ち、わかるような気がします」
「わたしも、似た夜を歩いています」
「ほんとうに、がんばっていますね」
だがある日。お気に入りだったアカウントのポストが、突然読めなくなった。
「このアカウントのポストは表示できません」
彼はページを何度も更新した。スマホを再起動した。アプリを再インストールした。だが、表示されない。
――それは、ブロックだった。
彼は呆然とした。なぜだろう。なにか、間違えたのだろうか。
だがそこには、答えなどなかった。SNSには理由は不要なのだ。
相手が「嫌だ」と思えば、それだけで、世界から追放される。
「……わたしは、また“怪物”になってしまったのか」
彼はひとり言のようにつぶやく。
過剰だったのか。気味悪がられたのか。
あるいは、何かを思い出させてしまったのかもしれない。
画面には「フォローを解除されました」の通知。
それは、静かなる断絶の鐘だった。
彼はアカウントを削除しなかった。
ただ、そっとログアウトした。
画面の月は、いつまでも静かに、白く光っていた。
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『泣き虫マンティコア、確定申告に悩む』
――第69話:「税の話になると、誰もが等しく魔物になる」
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三月。
泣き虫マンティコアは、税務署のウェブサイトと格闘していた。
年に一度のこの作業は、彼にとって地上最大の謎解きだった。
「源泉徴収票……雑所得……控除……青色……?」
モニターに顔を近づけすぎて、角がぶつかる。
毒針がマウスを誤操作する。紙が爪に引っかかる。
彼は人間よりも多くの収入源を持っていた。
翻訳、詩作、動画編集、演劇の助成金、企業案件、魔術結社からの研究委託費――。
だが、それをどの欄に書けばいいのかが、まったくわからない。
「……課税と非課税のちがいって、何だ?」
自分が社会に属していないと、こうも“参加の証明”が難しい。
**“存在を示すために支払うのが税金だ”**と、誰かが言った気がする。
ならば、彼はいつから――存在していないことになったのだろう。
「もし、わたしが間違えたら、何が起こるのだろう」
逮捕される?督促状が来る?“人間”じゃないとばれる?
彼は印刷ボタンを押し、A4用紙を大量に吐き出した。
それはまるで、自分の命をコピーしているかのようだった。
夜が明けた。彼はマスクをして、書類を抱え、そっと外に出た。
歩きながら思った。自分の存在が、税務署に届くのなら――それは、たぶん、人間になれたということなのだ。