日比谷線
日比谷線の車両に、それは座っていた。
灰色の車内に、灰色の毛皮。スーツを着てはいたが、隠しきれぬ獅子の体格。顔は老人、目の下には深い隈、頭頂には小さな角があった。背中に羽根を折りたたみ、尻尾を脚の間に通して膝を揃え、足元に毒針の鞘。マスクはしていた。だから誰も気づかない。泣き虫マンティコアは、電車に乗っていた。
彼は携帯電話を見ていた。ずっと。
地下鉄のなかで電波も入らぬというのに、彼は真剣に、黙って、スクロールを続けていた。そこに何が映っていたか――それは、誰にもわからない。
「……ひとは、“声を出さぬ泣き方”を、文字のうえに覚えたようだな」
彼はぽつりと呟いた。携帯の画面に、誰かのポストが流れていく。「なんとなくつらい」「誰にも言えない」「消えたいわけじゃないけど」――そのどれもが、彼にとって懐かしい痛みだった。
周囲の乗客は誰も彼を見なかった。見ないようにしていた。
あるいは本当に見えていないのかもしれない。というのも、彼が発する気配は“気まずさ”の濃縮であり、現代社会では本能的に視線を逸らす対象となる。
「人間は……怪物のふりをするのが上手くなった。わたしはその逆だ。怪物のまま、人間のように振る舞おうとしている。いつからだろう。こんなにも、それが滑稽で、痛ましくなったのは……」
彼は画面に、小さなリプライを打ち込んだ。
誰とも知らぬアカウントへの、たった三文字。
「わかるよ」
その送信に、彼の尾がわずかに震えた。
言葉を語るより先に、「共感」を模倣する。それがいまの社会の作法であることを、彼は長い時間をかけて学んできた。
だがそれが、どこか寂しかった。共感という名の、沈黙への同調。そこに怒りも叫びも、決して届かない。
「泣いていいのか、泣かないほうがいいのか、それさえ、今では“空気”が決めるらしい」
窓の外には、地下の光が流れていた。駅に着く。降りる人。乗る人。だが、彼は動かない。
黙って次の投稿へ。黙って、また“いいね”を押す。その手は獣の爪をしている。だが、動きはあまりに人間的だった。
「……もう、吠えることはできないのかもしれないな」
ふと、隣に座った女子高生が、ちらりと彼のスマホ画面を覗いた。彼は息をのんだが、彼女は気にも留めず、笑った。
「それ、泣けるやつだよね。わかるわかる。あたしも、さっきスクショ撮った」
そう言って、また自分のスマホに戻っていった。
マンティコアは、返す言葉を持たなかった。何も言わず、そっと画面を閉じた。
彼の中で、何かが終わったような気がした。
あるいは、何かが始まったのかもしれない。
マンティコアは泣かなかった。電車の中では、泣けなかった。だが、画面の中の誰かが、代わりに泣いてくれた。
それだけで、今日はもう、充分だった。