階段倫理管理協会連絡会議 後編
「次の発言者、【バビロン支部】からの視察官、どうぞ」
司会の老紳士が静かに促すと、革の手袋を外した異国の男が立ち上がった。顔の半分を金属マスクで覆っており、声は機械のように淡々としていた。
「階段とは“選択の遺物”です。上るという選択、下るという選択、そして立ち止まるという第三の選択。これらを無限に積層することで、我々は“個”という幻想を得る。だが、実際はどうか?多くの者が登ったフリをし、既に転げ落ちている」
静寂の中で、一人、【魚の目】が頷いた。
「あなたの言葉には、血が足りない」
視察官は、機械仕掛けの眼球を回転させて、彼を見つめた。
「血ではなく、段差には“意味”が必要です」
「いいや。段差とは“痛み”の記録だ。躓いたときに歯が欠けたことを忘れないように、私たちは階段を覚える」
「あなたは詩人ではなく、懐古主義者だな」
「どちらでもいいさ。だが君たち“バビロン式”の階段には、ひとつだけ欠けている要素がある」
「何だ?」
【魚の目】は、手の中の小さな巻貝を机に置いた。それはまるで、何千段の階段がとぐろを巻いたような形だった。
「“耳を傾ける”という段差さ。登るばかりじゃなく、降りてくる声に耳をすませる必要がある。落ちてきた者の叫びに、君たちは耳をふさいでいる」
会議室の空気が変わった。老委員の一人がうつむき、傍らの資料を閉じた。
「……【魚の目】君。きみは確かに過去に“無段式”を提案し、処分された経緯があるね」
「無段式……段差の全廃。そう、それはかつての僕の“極論”だった。でも今は違う。必要なのは、“階段の幽霊”との対話だ。残された段差の記憶に耳をすませば、そこに人の形がある」
視察官は一礼し、席に戻った。
「……次の議題。“段差と階級制度の精神的相関性について”」
老紳士の声は微かに震えていた。
そのとき、会議室の背後の壁が、きしむ音とともに開いた。階段があった。誰も気づかなかったその出口に、ひんやりとした空気が流れ込んできた。
【魚の目】は立ち上がり、そこへ歩み寄った。
「終わらない階段だ。まだ上がれるな」
「どこへ行くつもりですか?」
誰かが問うた。
【魚の目】は答えず、足をかけた。階段は音を立てて軋み、しかし確かに、彼の重みを支えた。
「言葉が段差になる。段差が詩になる。詩が神話になる」
彼は静かに上っていった。残された者たちは、何かを言いかけて、やめた。
階段とは、もしかすると、語らなかった言葉の記憶かもしれない。