言葉が段差に変わる時
【魚の目】が足を下ろすたび、床が変形する。まるで言葉が硬質なブロックになり、足場を形づくるように。
一歩。
「忘却」──その音が固まり、透明な石のように浮かび上がる。
もう一歩。
「否認」──ぬめりとした質感のタイルとなって、滑りやすい段差を生む。
【魚の目】はゆっくりと、しかし確実にその“言語の階段”を降りていった。
この階段に、手すりはない。
代わりに、壁にびっしりと並ぶ文章たち。書き手不明、意味不明、時制も主語も破綻している。しかし、読む者の内部にだけ妙な真実を残す。
「脳内で音読した瞬間、次の段差が生まれる」
そう、これは読むための階段であり、読まされるための言葉。
一段、一文、一苦。
【魚の目】の足元に現れた言葉:「でもそれは違う気がする」
彼はその段を踏むと、突然強烈な懐疑に襲われた。
次の言葉:「いや、やっぱり合っているかもしれない」
足場はぐらつく。
彼はふと壁に手をついた。そこには短く刻まれていた。
「この段差は、自己言及によってのみ降下が可能」
自分が何者かを問うた瞬間、新たな段が生まれた。
「俺は……俺は……」
その語尾が宙に浮き、ゆらりと黒い大理石の階段へ変わる。
階段の奥から聞こえる声。ひそやかな合唱。
「あなたの発した言葉が、次の世界を決める」
「気をつけて 言葉には 重さがある」
「急いで降りるな 一つひとつが 奈落へ続いている」
言葉の階段は、詩でできている。
そして詩は、罠だ。
【魚の目】が次に踏んだ言葉は:「全部茶番だったんだ」
その段差は崩れた。彼の体が宙に浮き、別の文脈へと投げ出された。
そこはもう階段ですらなかった。
平坦な道。だが、路面には無数の語句が刻まれていた。
「私」「たち」「は」「忘れられて」「いく」
彼はその文字を踏みながら歩く。歩くたびに、記憶が一つずつ剥がれていく。
そしてふと気づく。【魚の目】は、自分の名前すら忘れていた。
立ち止まると、足元に一文が浮かび上がる。
「名前を忘れた者だけが、次の階段を見つけることができる」
そして現れた、最後の段差。
「( )」
空白。無音。未記入。
そこを踏んだとき、空間が折れ曲がり、時間が一瞬止まった。
すべての段差が、すべての言葉が、振り出しに戻ろうとしていた。